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恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 泉編』1章 2章-1

1章 シレール

 まだ、昨日のことのように覚えている。ダイナが小さい頃、毎晩のように、絵本の読み聞かせをしたことを。

 竜と騎士、高い塔の姫君、洞窟の財宝、海洋を行く船、砂漠の盗賊。

 そして、ダイナが深い眠りに落ちてからも、しばらく椅子にかけたまま、寝顔を見守っていたことを。

 くるくるした赤い髪の、小さな娘。大きな緑の目は、起きている間中、世界の謎を映している。

 怪我をしてもへこたれない、健康な心身。

 好奇心一杯で、世界を探検せずにはいられない性格だ。

 明日も目覚めたら、新しい冒険に乗り出すだろう。花壇の花を抜いて、根っこを観察してみたり。芝生を歩く虫を捕まえて、研究しているうちにばらばらにしてしまったり。蛇を捕まえて、ぐるぐる振り回していたこともある。

 そしてわたしは、ダイナが何かしでかさないか、始終、後ろからついて歩くことになっていた。

 蜜蜂の巣には、手を出してはいけない。

 山猫を捕まえてペットにするのも、いけない。

 服のまま川に飛び込むのも、禁止。

 自転車で崖からダイブするのも、禁止。

 勝手に焚火をするのも、禁止。

 一日中、それは駄目だ、あれは危ないと、止めてばかり。本当はもっと、ゆったりした時間を過ごしたいのに。一緒に料理をするとか、折り紙をするとか。

 暗い寝室でダイナを見守るうちに、たまらなく悲しくなって、涙が溢れ出したものだ。あの頃、いったい何十回、いや何百回、こっそり泣いたことか。

 ――こんなに小さいのに、いずれ、全世界に立ち向かわなくてはならないのか。

 この屋敷の敷地から外に出たら、恐ろしい連中がうようよしている。女を気晴らしの玩具、金儲けの道具としか思わない連中だ。ダイナのような初々しい娘を見たら、舌なめずりして、どんな悪辣な真似をしようとするか。その時にはもう、わたしは傍にいてやれないのに。

 いつか、ここから巣立たせてやらなくてはならないのだ。それが、育ての親としての責任。

 いっそ、このまま大きくならなければいいのに。ずっと幼いままでいてくれたら、わたしが守ってやれる。未来永劫。

 だが、それが無理なことも、わかっていた。ダイナは毎日、若木のようにすくすく伸びていく。いずれ、わたしの監視を嫌い、外に飛び出したがるだろう。どんなに止めようとしても、その時は来る。

 だったら、わたしがしてやれることは、一つだけ。

 この子を鍛え、ありとあらゆる知識を授けること。知識がいずれ、知恵に育つことを祈って。

 ダイナが一人で何でもできるような大人になれば、一族に対して、わたしの責任は果たされる。ダイナは広い世界に飛び出し、好き放題に冒険して回るだろう。たとえ、天使の翼が折れ、身も心も傷だらけになったとしても。

 そして、その後で、ダイナに戻ってきてほしかったら……

 わたし自身が、ダイナに選ばれる男でなければならないのだ。そんなことは、ほとんど不可能に思われるが。

2章-1 ダイナ

 最初は、その男性が誰だかわからなかった。屋敷の玄関ロビーの奥にある大階段の手前で、こちらに背中を向けて立っていたから。

 短い黒髪をしていて、着ているものは、よくある濃紺のビジネススーツ。ただ、こちら向きのヘンリーお祖父さまと親しげに話していた様子から、

(一族の誰か)

 だとは思った。他都市にいて滅多に会わない、第二世代か第三世代のおじさまが来訪したのだろう。

「ああ、ダイナ、お帰り」

 あたしを見たお祖父さまが声をかけてくれたので、その人物もあたしを振り向いた。その途端、あたしはぎょっとして、足が止まってしまった。

 うそ。

 何が起きたの。

 これは……シレール兄さまよね。そっくりな親戚の誰か、じゃないわよね。

 だけど、髪が……背中まであった長い黒髪が、ばっさり切られてしまっている。前髪が幾筋か、はらりと額に垂れるだけの、ただの短髪になっているのだ。普通の男の人みたいに。

 ――どんな天変地異!?

 生まれてから今日まで十八年、あたしは長い髪の兄さましか、見たことなかったのに。料理や何かをする時は、きちんと後ろで一つに束ねていた。それが、兄さまだと思っていたのに。

 あたしが凍りついているのを見て、見知らぬ兄さまが言った。

「どうした、挨拶の仕方も忘れたのか?」

 この静かで皮肉の効いた言い方は、まさしくシレール兄さま。ようやく声が出たけれど、変にかすれてしまっている。

「兄さま……あの……ただいま……ただいま帰りました。ちょっとだけ、なんだけど……」

 あたしは自分の部屋に、残りの荷物を取りにきたのだった。

 基礎教育と、それに続く研修期間が終わり、本格的にヴェーラお祖母さまの秘書を務めることになって(一族の総帥であるお祖母さまには、本物の有能な秘書が三人いる。あたしは四人目の、秘書見習いだ。うまく何年か務めれば、見習いから本採用になるはず)、この屋敷から、職場になるセンタービルの一室に引っ越すことになっていたから。

 屋敷から通えないわけではないけれど(地下道を通って車で通勤すれば、二十分くらいのもの)、職場住み込みの方が仕事に集中できるし、夜中や早朝の呼び出しにも素早く対応できるから。夜間の緊急対応は、まず下っ端のあたしがするべきだと、お祖母さまに言われた。この違法都市《ティルス》では、お祖母さまの意向は法に等しい。

「どうして……どうして……」

 つい一週間ほど前まで、兄さまは長い髪をしていたはず。

 そういえば、ここ何日かは、あたしがお祖母さまの第三秘書に連れ回されて、あちこち挨拶や下見に出歩いていたから、会っていない。あたしがなぜ驚いているのか、何を疑問に思っているのか、兄さまにもわかっているはずなのに。

「役目が終わったからだ」

 兄さまが、にこりともしないまま言う。まるきり、どこかの冷徹なビジネスマンか……違法組織の幹部みたいに見える。エプロン姿で、あたしにホットケーキやアップルパイを焼いてくれたことなんか、一度もないみたいに。

「おまえはもう、わたしの手を離れた」

 それはまるで、お弔いの鐘のように聞こえた。あたしと兄さまの立つ大地に、深い亀裂が走ったように響く。兄さまが、亀裂の向こうの対岸に遠ざかっていく。

「今度からは、マダム・ヴェーラがおまえの上司であり、監督者だ。わたしは子育ての任務を終了したから、髪を切って願掛けをほどいた」

「願掛け……?」

 言葉の意味はわかる。神さまに、何かをお願いすること。

 けれど、兄さまは、宗教なんて信じていないはず。

 古代の宗教は、生きることの辛さや、死への恐怖を紛らわすための発明だったと、兄さまから教わった。人類が科学技術を進歩させたので、宗教の必要性は薄れ、今ではごく一部に残っているだけだと。

 横から、お祖父さまが優しく言う。

「ダイナ、シレールはおまえが一人前になるまで、祈りを込めて、髪を長くしていたのだよ。おまえが無事、成人するようにとね。おまえの学業が終わって、職業生活がスタートしたので、いったん区切りをつけたわけだ」

 そうなの?

 そんな願いが込められた髪だったの? 単に、兄さまの古典的貴族趣味のせいではなくて?

 知らなかった。それは、とても有り難いけれど……おかげで今日まで十八年、何とか無事だったけれど……まるで、宙に投げ出されたような気持ち。

 これからはもう、関係ない存在だ、と宣告されてしまったようで。

 お祖父さまに、きちんと挨拶をするようにと促され、慌てて、見慣れない男性に頭を下げた。

「シレール兄さま、今日まで育てて下さって、ありがとうございました……色々、とっても、お世話をかけました。おかげで、ようやく一人前に……いえ、まだ半人前ですけど、これから一生懸命、仕事を覚えます」

 兄さまの、よく磨かれた靴の爪先を見て言いながら、あたしの頭の周りには、激しく疑問符が飛び交っている。

 兄さまは、いつまでもあたしの兄さまでしょ? 家族でしょ?

 まるで契約期間が切れたみたいな、他人みたいなこの挨拶、何の意味があるの?

 本当なら、成人のお祝いにケーキを焼いてくれるとか、一緒に祝杯をあげるとか、楽しい雰囲気のイベントがあってもいいんじゃない?

 けれど、たまたまここで会わなければ、この会話すらできなかったのだ。

「では、しっかり働いて、皆の役に立つように」

 と言い残して、シレール兄さまはお祖父さまに何か確認してから、去っていった。車で外出するらしい。兄さまもここ数年は、徐々に一族の仕事を増やしていたから、自分の職務に向かうのはいいのだけれど……

 あたしがお祖父さまを振り向くと、温厚な黒髪のハンサムは、見慣れた苦笑を浮かべた。あたしが悪戯や失敗をすると、お祖母さまや兄さまたちにとりなしてくれた時と同じ。

「シレールは、おまえと距離を取ろうと努力しているんだ。自分が甘い顔をしていては、おまえがすぐ、頼ってくると思っているんだろう」

 まさか、いまさら、べたべた甘えるなんて。

 そんなこと、したくても、できない。

 兄さまは、あたしが十四、五歳になった頃には、めっきり冷たくなっていたのだから。


   『ブルー・ギャラクシー 泉編』2章-2に続く

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