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【歴史】地元の戦争史跡

鹿児島県垂水市、柊原小学校周辺の戦争史跡

垂水は昭和 20 年 8 月 15 日、アメリカ軍による空襲を受け、市内の全域が焦土と化しました。柊原(くぬぎばる)においては、現在の錦町に海軍航空隊の軍事基地があり、国道に面して「垂水海軍航空隊之碑」という大きな石碑が目を引きます。

元柊原公民館長であられた中島純昭氏が、昭和 19 年から 20 年にかけて、実際に見聞きしたことをまとめた記録である、『垂水海軍航空隊 見聞録』によると、兵士達は毎日毎日カッターボート(大型の手漕 ぎボート)の練習に明け暮れており、オールを漕ぐのに疲れると海に投げ込まれ、陸に上がると上官から足が立たなくなるほど殴られ、蹴られ、それはひどいものであったといいます。 また、「海軍精神注入棒」と書かれた、長さ 1.5m・幅 25 ㎝のカッターボートのオールで、無抵抗の兵士を殴り、命を落とす者や、毎日の訓練やしごきに耐えかねて、首をつって自ら命を絶った兵士も多数いたらしく、現在の県水産試験場の正門の当たりに、当時大きなアコウの木があって、その木の枝に時々首 を吊った兵士がぶらさがっていたといいます。

玉音放送後は、それまで部下をしごいていた上官達は、仕返しを恐れて我先に郷里に帰ったといいます。


このように、今回は戦争の痕跡、特に柊原上地区の戦争史跡等を紹介いたします。

まず、柊原小学校の校庭には長さ 30 ㎝の大砲の弾丸が、筒状のコンクリートの柱に固定されて飾って あります。
詳細は伝わっていませんが、日露戦争の遺物だろうとのことです。


次に、柊原小学校よりやや西に目をやると、垂水南港があるところの海は、「ほうかい」と呼ばれています。
なぜこの呼び方があるのか、その理由を文献や記録に求めても確認できないのですが、ここには戦時下、魚雷発射場があり、地元民の間でいつの間にか「ほうかい」と呼ぶようになったといいます。
漢字を充てるなら「砲海」となるのでしょうか。または、海上に築かれた砲台のことを「海堡(かいほ・かいほう)」というらしいですが、これが転じて「ほうかい」になった可能性も、もしかしたらあるかもしれません。

魚雷発射場は桜島から溶岩を運んで作られたもので、海底から海面まで約 3m、全体の高さは大きいも ので 10mほどありました。
演習では何度か魚雷が発射されましたが、実戦では一度も使用されることなく敗戦を迎えました。 発射場は、浜平の港平沖、俣江沖、葛迫沖、尾迫沖と、柊原の錦町海岸、切目王子神社沖(ほうかい)の 6 箇所で、尾迫沖のものには木製の幅 1.5~2mくらいの木製の橋が架けられていました。
これらは、戦後の昭和 25 年に鹿児島湾を縦断したルース台風によって大破し、現代では、ただ溶岩石の集合体があるだけと化しています。
ほうかいの発射場跡は、インターネット上の航空写真からもその影が確認でき、かつては子どもの遊び場であったり、地元の方がイセエビを捕ったりしていたといいます。

このような歴史的背景もあって、小学校のすぐ下の護岸道には、海を臨んで「戦没者慰霊碑」が建立さ れ、そのすぐそばに観音像が祀ってあります。

この観音像は、「江口ガラス店」の敷地に、同店の江口氏が平成五年三月に建立されたものです。
現在、店は空き家になっていますが、近所の方が花を供えたり、落ち葉を掃いたりするなど、お世話をされています。



【参考】『柊原の歴史誌』中島純昭・地元での聞き取り調査
写真はいずれも2022年春季~夏季に撮影
(2022年8月)



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