見出し画像

混沌の新時代に 第64回岸田國士戯曲賞 受賞作予想

若手劇作家の奨励と育成を目的とし、新人の登竜門とされる岸田戯曲賞。第64回を迎える同賞には、今年も多彩な顔ぶれがノミネートされた。演劇界でもっとも注目を集めるといっても過言ではないこの賞を、どの作品が受賞するのか。演劇ライター、河野桃子さんを招き、候補作の解釈について対談をおこなった。

(進行・構成・あらすじ執筆/落 雅季子)


第64回岸田國士戯曲賞 最終候補作品一覧(作者五十音順、敬称略)

市原佐都子『バッコスの信女 ― ホルスタインの雌』(上演台本)
岩崎う大『GOOD PETS FOR THE GOD』(上演台本)
キタモトマサヤ『空のトリカゴ』(上演台本)
ごまのはえ『チェーホフも鳥の名前』(上演台本)
谷賢一『福島三部作 1961年:夜に昇る太陽/1986年:メビウスの輪/2011年:語られたがる言葉たち』(上演台本)
西尾佳織『終わりにする、一人と一人が丘』(上演台本)
根本宗子『クラッシャー女中』(上演台本)
山田由梨『ミクスチュア』(上演台本)

※選考委員は岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、平田オリザ、柳美里(五十音順、敬称略)


落  審査員が6名という偶数なので、投票した時に割れるかもしれないという印象です。岸田戯曲賞は、過去の受賞者が審査員を務める慣例があるので、外部から招かれる人間が入るということは今のところありません。

河野 過去受賞者が審査員という戯曲賞は、歴史があるからこそですし、ほかにはない岸田戯曲賞の特徴かもしれないですね。

<予想発表>

落  受賞するであろうと予想する「本命」の作品から答え合わせしてみましょう。審査員がどう選ぶかを考えると選ぶのは難しくなりますが。

河野 基本的にどの作品も面白く読みました。そのうえで、今年は同時受賞がありえるかもしれないという印象です。

落  単独で他を圧倒する作品が見当たらないと判断したので、私も今回その可能性が高いと思っています。では、まず一作目の受賞者を挙げてみましょう。

落  西尾佳織さん
河野 谷賢一さん

落  では同時受賞の候補者を発表しましょう。せーの。

落  キタモトマサヤさん
河野 西尾佳織さん

落  二人とも西尾さんが入りましたね。「本命」の次に受賞可能性があると思われる「対抗」を、ここで出しますか? もしかしたら受賞もあり得るかも、という意味で「大穴」の名前を挙げることもありますね。私は対抗は出さず、大穴に谷賢一さんを入れます。

河野 私は、予想としてはどちらも無しで。ただ、私が審査員だったら西尾さんを受賞作に推したい気持ちはあります。

     【落 雅季子】  【河野桃子】

本命    西尾佳織     谷賢一
同時受賞  キタモトマサヤ  西尾佳織
対抗    なし        なし
大穴    谷賢一       なし


落  それでは、個別の戯曲ごとに話し合ってみましょうか。

※以下、物語の展開や結末についての記述があります。ご了承のうえお読みください。

岩崎う大『GOOD PETS FOR THE GOD』

<あらすじ>
200年後に地球が消滅すると言われた人類が、いよいよ終末を迎える最後の一週間となった。神様の予言以来、人間は何世代にもわたり「その終点」に対する恐怖が薄れるよう努力してきた。数百年の冷凍睡眠から目覚めたシンペーと、滅亡を受け入れる村人たちの交流を描いたコメディ。

落  劇団かもめんたる第8回公演です。私はまったく笑えなかったし、評価しない。どうでした?

河野 面白く読みました。テーマは普遍的ですよね。自分より大きな存在の都合で死に対する感情をコントロールされるというのは、宗教的でもあるし、歴史をふりかえれば戦時中にも似ていて、特攻隊のことも想像してしまいました。いまは自衛隊の派遣問題もあるし、現代の私たちにとって遠くないイメージで読んだかな。SF的要素なのも、かなり演劇的な見せ方ができると思う。

落  私は、まずト書きが気になってつまずいてしまった。いろいろ指定が細かく決まっているのは上演のメモにすぎないし「ドッコは男性的でトーコは女性的」(P.4)などをはじめとして、ト書きに溢れるジェンダー観の固定観念に危機感を持った。その偏見が、もしかして後から構造として効いてくるのかなと思って、一応保留の状態でチェックはしたんです。だけど、通して読んでも安直な感覚でしかト書きが書かれていないと判断しました。

河野 脚本に組み込まれているいくつかの小さな仕掛けは効いていて、面白かったですけれどね。過去に安楽死をおこなっていた看護士が自分が死ぬためのクスリを渡されるところとか、皮肉的だし、台詞には登場しない過去のイメージが具体的に浮かびました。

落  すれ違いコント的なギミックはありましたね。くるぶしを舐める行為がこの時代の愛情表現なのかと思いきや、実態がフェラチオだとわかった瞬間、劇場では絶対笑いが起きたでしょうね。でもね、そのあと「互いの性器を舐められるか」で、男性陣がさんざんネタにしあう。そのホモフォビアな、いや、この世界観では同性愛が自然なものとされているからフォビア(嫌悪)ではないんだけど……でも、そもそも何が自然かって定義すべきではなくない?

河野 全体を覆うジェンダー観は、現代からすると少し前の感覚だよね。ただ、未来の設定だし、戯曲に描かれている価値観と戯曲の完成度はまたべつかな?

落  どうせ滅びるのに子どもを産んではいけないから、同性愛が良しとされて、異性愛がタブーとされた……。私はすでにト書きに対して違和感を持っていたので、こういう安直な理屈を受け入れることが出来ませんでした。

河野 コメディ要素の強い芝居では勢いで展開していくこともできるから、上演する時はそれほど気にならないかもしれない。

落  その古い感覚を、よりによってコメディにしないで、っていう嫌悪感があります。

河野 まぁ、描かれている笑いの要素は前に流行ったものに近い印象はあります。でも、いつの時代でもこの笑いが好きな人は絶対いるし、面白いかなと。

落  この全編を支配していた、異性愛だの同性愛だのっていうところから、本当に滅亡を目の前にした時のラストの台詞が「人間っておもしれー」っていうシンプルでポジティブなものだったのは良かったですね。

河野 ラストは良かったね。落さんが何度も言っているジェンダー観についても、古いジェンダー観を持った主人公(シンペー)に未来の人々がNOを突きつけるシーンは痛快でした!

<公演情報>
岩崎う大:劇団かもめんたる『GOOD PETS FOR THE GOD』


市原佐都子『バッコスの信女 ホルスタインの雌』

<あらすじ>
『バッコスの信女』(エウリピデス作)のテーマや構造を大胆にアレンジした本作。平凡に暮らす主婦とそのペットの雄イヌのもとに、ウシと人間のハーフである獣人が訪ねてくる。実はその獣人はかつて主婦が人工授精で生み出した異形の動物で……。合唱隊(コロス)とともに奏でられるメロディと、登場人物たちのリリカルな独白が、男性中心/人間中心的な性や生殖行為の限界を炙り出す。

河野 ギリシャ悲劇の『バッコスの信女』の要素を踏まえた力強さがありました。ただ、原案の要素を並べたことと、モノローグが一気に語られて要点が埋もれることによって、登場人物が構造のためのコンテンツ化された印象もちょっと受けたんです。戯曲をじっくり読めばわかることでも、上演された時に果たして観客が拾えるのか……。

落  「ギリシャ悲劇の形式を用いた現代劇」というエクスキューズが、最初にありますものね。でも形式に乗ろうとして、嵌まりすぎてしまったかなあ。

河野 この作品のテーマっていろいろあると思うんですけれど、メインの登場人物である母(主婦)と子(獣人)はそれぞれ、物語を通してずっと「誰かに認められたい、承認されたい」という話をしていて、自分の生と性を追い求めてる。どっちも自分の話しかしてない。そのなかで語られる「マスターベーション」や「バターマッサージ」は、自分と承認欲求との付き合い方に対して自浄作用というひとつのアンサーになって、そういうギミックはとても良い。個々のエピソードの運びは印象深いし、言語のリズムも面白い。ただ、全体を通した時にギリシャ悲劇の枠組みが強いので、原案を前提に楽しむなら良いのかも。

落  それはやはり、エペイソディオン(会話)、スタシモン(歌)という形式の繰り返しで、断片的に書いてしまったためでしょう。原案は市原さんに合ってると思うし、よく分析もされている。ただやはり、構造に引っぱられすぎだし、事象の羅列が、この分量のわりに像を結んでいないです。

河野 登場人物の設定はどれも良いですね。獣人は、母親的な存在である主婦にとって、自分とは違う新しい個体。それが人間と牛のハーフの獣人であり、男か女かわからない者でもあるという、ポスト・ヒューマン的な設定なのは、越えられない他者との距離を可視化もしていてさまざまな視点を内包している存在です。

落  ネグレクトされた獣人が飢餓に苦しむ描写は力強くて良かったですね。あと、もう一匹、重要な動物として犬のハワイちゃんが出てきましたね。

河野 ハワイちゃんの存在はインパクトありますね。戯曲の可能性をとても感じます。ギリシャ悲劇『バッコスの信女』に照らし合わせても存在が特殊で、ハワイちゃんだけ神的というか悪魔的というか、違うポジションにいる。犬も牛も愛玩の対象としてモノ的に扱われているけれど、牛は最初からラストまでずっと搾取される存在のままなのに対して、犬のハワイちゃんは意思を隠し持って搾取する側にいる。戯曲の視野を広げるポジションかなと思います。

落  犬は愛玩動物だから、食われてしまう牛とは待遇が違う。その対比も残酷ですね。彼の台詞の文体のリリカルさは、劇作家の文体の個性が出ていました。

河野 ハワイちゃん以外には復讐の輪廻があって、虐待されている人がまた誰かを虐待している。登場しない主婦の夫もそうで、主婦は牛や精子や子どもやセックスを搾取しているけれど、彼女自身も男(夫)にモノ化される(無許可でセックスされる)存在でもある。搾取の連鎖。それは現実そのもので、どういう関係であろうと誰かは誰かに搾取されていて、それが誰かに連鎖している。ただそれが、戯曲のなかで「そういうものだったよね」という結論以上には踏み込んでいないように感じました。性的な言及が多いけれど、どれも日常的な感覚ですし……。

落  既視感からの脱却についてはひとつの戯曲では語り尽くせないし、劇作家個人に負わせることができるものでもないので、難しいですね。
動物の他にも、かつての同級生だったハーフの少女もモチーフが出てきました。いじめられるかもしれないし気持ち悪いから自分の子供をハーフにするのが怖いという主婦の心情は、観客の中にある無意識な差別感情を反復強化してしまう可能性も感じました。だからといって登場させるなっていう単純な話じゃないから、批評はとても難しいのですが。

河野 どうなんだろう……私はそれは登場人物の思考だととらえて、「なんて我がままな人物なんだろう」とは思ったけれど。

落  「メイドバイジャパニーズナショナル精子」というワードが出てきたりもします。違う民族と交配すると目の色や肌の色が、その地域のマジョリティとは違う人間が生まれることが多いから、そうした人々への差別は世界中にある。そこを飛び越えて、牛との交配をして、獣人を生み出す展開にパンチを効かせているのですが、対人間への配慮が無自覚なままファンタジーに跳躍したところで、そのファンタジーがいくら優れていようとも、差別意識の描写に必然性があったと感じさせる力量はない。ハーフの女の子はギミックのままです。

河野 まぁ、受け取る方の文脈やリテラシーに寄る表現ではあるかもしれないですね。作中だからいいような気はするけど……。

落  あと、瑣末なことと思われるのを承知で言わせてほしいのですが……これ、ドイツで上演予定があるでしょう? これは日本の戯曲だけど、韓国料理としての焼肉が出てくるよね。それとは別に、日本の家庭料理の焼肉も出てきますね。「牛のペニスは中国では食べられている」(P.47)という台詞もある。韓国、日本、中国のそれぞれの違いはドイツの観客に伝わるのかな? 何となくのオリエンタリズムで受容されないといいなあという老婆心が沸いています。オリエンタリズムならまだマシで、東洋いっしょくたの無関心に放り込まれて終わらないか不安。
だから、日本人にとって、韓国料理と家庭料理としての焼肉は違うことを誰にも自明のことのようには描かない方がいいんじゃないか……? 厳しすぎるけど、無知なのでは。そう思うと、どんな上演の仕方をしたとしても、この戯曲では彼女の伝えたいこととか表現したい違和感を、最大限届くように書かれてるとはちょっと思えない。市原さんの凝らした技巧が、もったいなく思えてしまう。

<公演情報>
市原佐都子:Q『バッコスの信女 ホルスタインの雌』


山田由梨『ミクスチュア』

<あらすじ>
ある国の田舎町では、このごろ野生の動物が出ることで不安が広がっている。ヤエという女性と同棲しているモノの家に、姉のミチが突然転がり込み、二人の平穏な暮らしはかき乱されていく。自分と異なるものを前にした時、排除するのか受け入れるのか。人々の抱く違和感をありのまま描く。

落  この戯曲が何に対して危機感を持って書かれたかということは想像がつきます。たとえば世界中で移民が問題になっていること、日本にも外国籍の人が増えていること……将来を覆う漠然とした不安。そうしたものを実感する世代として、90年代のこの劇作家が扱おうと思った違和感を理解したうえで、この劇作の技術では不十分だと思います。理性的判断より先に湧き上がる生理的恐怖の対象として、野生動物、異形の者が登場する。この生理的恐怖の理由は誰にも説明できないとても繊細なイシューなんだけど、全編にわたってそのわからなさをわからないまま放置しすぎかなと。

河野 私も受けた印象は似ているんだけれど、それは現代のリアルの反映なんじゃないかと受け取りました。登場人物それぞれが持つ問題の描写が薄いけれど、たとえば「この人は同性愛者なんだな」とわかる描写だけでその背景までを描かないのは、現代のLGBTQ+をめぐる状況っぽくもある。なんとなく気づいていているけれども踏み込まず、「理解しない」「深めない」「あえて触れない」ことを共存であり寛容であり多様性だとすることで目を背けてしまっている現代のマジョリティの空気感に似ている。だからこの戯曲は、演出家が自分のジェンダー観や意思をこめて上演することができる。私が自分が演出家なら上演してみたいと思ったかな。

落  あえて人名じゃないような語感の名前だったせいか、私は最初モノは女性なのかと思って読んでいた。読んでいくうちに、生物学的に男性だということはわかったけど。モノとヤエに関しては、いくつか不思議な余白が残されていて、ヤエがスポーツセンターの清掃の仕事を「汚い」とモノに言うところも不可解。

河野 それについては、彼女の過去になにがあったかは明言されていないけれど、なにかしら男性に対するトラウマやコンプレックスが、ヤエを卑屈にしてしまっているのかもしれないという想像をしました。

落  それなのに、最後なんとなくモノと抱き合いすぎじゃないでしょうか? ヤエが、ヘテロセクシャルとしてモノを見ていて、触れ合うという形になる。男性でなく人として、という注釈はつくけれど「いなくならないでほしい」と自分を肯定してもらう相手としてのモノの意思が都合よく見える。

河野 その都合の良さは、戯曲にもっとヒントがあれば解消されそうだね。上演台本だから反映されていないだけで、上演ではその都合良さは払拭されているかもしれないけれど。ちなみに今指摘されたモノとヤエが抱き合うシーン(P.56)では、「モノっていったいどういう人なんだ?」とは私も悩んだ。

落  おそらくAセクシャルの人なのかな。

河野 私もしばらくそう思って読んでいたけれど、モノはヤエを「追う資格がない」と言い出すので、「単に恋愛に奥手なだけのヘテロセクシャル男性なんじゃないか?」という可能性も出てきた。しかも重ねて「人間として欠けている」と続くことで、「あ、セクシュアリティの話じゃないのかも」と読み手がとらえられる可能性も広がった。そうなると、ずっとセクシュアリティやマイノリティの描写がちらちらと出てきていたけれど、そういうことに分類されない人や世界観を描きたいのかな、とも思ったかな。もしかしたら、カテゴライズにとらわれないすごく広い視野で「自分が在ること」を描いた作品かもしれない。でも余白が多いので判断つかず……。この戯曲としてのとらえどころのなさを魅力ととるか物足りなさととるかは、人によりそう……。

落  余白というよりは、もはや浅はかであるがゆえに鮮烈なのがミチという人物でした。でたらめな思想を長々説いているけれど、戯曲の技巧そのものが浅いから、ミチの浅はかさにも逆に違和感がない。
ヨガクラスに回収されるラストシーンはどう思う?

河野 「ヨガ」という設定はけっこう良いなと思いました。作中ではいろんなコミュニケーションのいびつさが垣間見えるけれど、最後の音声ガイドにはコミュニケーションをとらなくてもいい安心感がある。生き物ではない機械音(音声ガイド)が、自然の雄大さや人間の心身について語ることの相反性と、機械音に身体感覚がコントロールされている皮肉……そのディストピア感は面白いラストシーンでした。

落  全体の戯曲としては輪郭しか描けてなくて薄いけど、ところどころフックはある。「暴力的な性質は削除する」(P.26)という台詞にはドキッとさせられました。
だけど、暴力の排除すら暴力の一種ですよね。野生動物を駆除することとの矛盾。それなら人間に殺されて食べられる牛や豚は暴力的な性質で人間に刃向かわないから殺してもいいの? とか、じゃあ牛や豚にとって人間って暴力的なんじゃないの? とか。もっと掘り下げて関連性が出てくると、それだけで戯曲一本書けるくらい面白い題材ですよ。
いちばんぼやけて読める原因は、主義と主張が混同されて書かれていること。動物を食べない殺さないという話は、主義の問題。でもセクシュアリティは主義じゃない。どう生きるかというあり方をどう主張するかの問題。

河野 なるほどなぁ。セクシュアリティにしても動物にしても、これだけ戯曲に余白があると、読み手の知識量や価値観によっても捉え方がかなり違ってきそうだよね。知識がある人にとっては、戯曲の余白を想像で埋める楽しさがある。

落  私たちは提出されたものを読んでいるから、そこから読みとけない以上は、作者が考えおよんでいないと解釈すべきです。

<公演情報>
山田由梨:贅沢貧乏『ミクスチュア』


根本宗子『クラッシャー女中』

<あらすじ>
新進気鋭のデザイナー義則は、大きな屋敷に母と二人の女中、幼なじみの孤児・華鹿男と暮らしている。家族を殺された恨みを胸に秘め、義則に復讐を企む静香は、彼の婚約者となって屋敷に侵入することに成功するが、裏で彼女の糸を引いていたのは、義則に歪んだ愛情を寄せ続けるゆみ子という女だった……。

河野 まさに上演台本というか、実際に演じた俳優についての描写が多いのが特徴的ですね。あと、物語のなかで重要な役である義則役はルッキズムとハラスメントが甚だしい性格だけれど、人気俳優である中村倫也さん以外が演じるとまた印象が変わるんじゃないかなと。落さんはどう感じました?

落  登場人物設定を読んで、愛情も憎しみも何もかも過剰な人々だなと思った。極端な人物造形に殺人をまぶしてみましたっていう感じの、グロテスクで笑えないコメディです。ストーリーは伏線が雑ですよね。でも最後まで読むと、華鹿男の家が火事になったとか動機とか、彼らの復讐のモチベーションが雑であることは何の問題でもなくて、結局はゆみ子のメンヘラ的欲望の話に到達するわけなので、背景が雑でもオッケーだったとわかります。
で、それを踏まえて私は「リアリティがあるかとか人に対して説得力があるかはどうでもよくて、私の承認欲求を満たしてほしいし、その方が物事の整合性よりも守られるべきだ」みたいな主張を否定するのって結構難しいなと気づいた。
だって、芸術とか思想とかどうでもいいから私の承認欲求を満たして! って、まあ私を含めたみんなの中に、まあまあ見られる本心……でしょ。私は理性を持って、リアリティとか説得力を求めたいけど、でも承認欲求に流されるさまが気持ち良いと感じる人間はいるし、その対立構造は噛み合いようがないので終わらない。でもこの構造の、承認欲求サイドに岸田賞が引きずられるわけにいかないと思った。引きずるだけの技量はなかったので。

河野 承認欲求についてはそれほど感じなかったかな……。それよりも「持つ者と持たざる者の、格差と搾取」という大きな構造の物語に読めた。全編に渡って、お金がある/ない、才能がある/ない、恵まれた容姿がある/ない……という格差の話をしている。

落  全体的にメンヘラの心理状態の描写が的確で、私、終盤のゆみ子には相当共感したの。困った相手にさっと手を差し伸べたい、っていう気持ちとか「嫌いにならないで」って言っちゃうところ。

河野 いろんなコンプレックスを持った人たちのそれぞれの主張がぶつかり合うよね。コンプレックスから目を背け続けたり、絶対にひっくり返らない格差構造の中で嘘をついて自分をごまかしていたりする人を最後まで描いていて、物語の整合性は取れていたと思います。

落  終盤、正体を表したゆみ子に「全然いってることがわからないよ」って義則が嘆きますよね(P.96)。それに対して「え?何で?全然わかるじゃん」っていうゆみ子の返答、ああほんとに全然わかるーって思っちゃった。

河野 そこらへんは、共感できない人にもわかる構造の脚本にしてあるんだと思う。そもそもこの脚本は、客席に向かって進行役の女中が話しかけたり、俳優が俳優本人として登場していることによって、『登場人物』『俳優』『お客さん』という3者が存在していることがわかる。そのうえで最後に義則が「ここにいる全員が君の言ってることわからないよ」(P.97)と言うんだけど、この台詞は結構すごい。「ここにいる全員」にはおそらくお客さんも含むことができるけれど、この台詞で『登場人物』『俳優』『お客さん』の“全員”がわかりあえているわけではないということが明らかになるメタ的な構造になっている。舞台上と客席の一体感を産んでおいて、一気に舞台上と客席が引き離されるその揺さぶりは、他の戯曲にない面白さでもあるかなと。

落  ラストシーンがぼんやりしていて、私は意味を掴み損ねました。

河野 私には、結局コンプレックスと格差は越えられない……という描写に読めたかな。登場人物の誰もがずっとお金や見た目や才能について『情報』だけで判断していて、本質を見ようとしていない。それでもやっとわかりあえたかに思えたのに、最後にまた「さすがAB型だね」と『情報』で相手を判断しようとする。しかも「え、俺AB型じゃないぞ」と結局わかりあえていないことが描かれて、終わる。なんだかんだでなにも変わっていなくて、『情報』に囚われているところから抜けられないしょうもなさ。

落  白金台にしまむらはないけど、全部ファンタジーだと思えば良いのか。少女漫画のネームみたいなイメージが浮かびました。

河野 純文学的とは違うよね。そもそも「戯曲は文学なのか」という問いは別件であるけれど。

落  市原悦子『家政婦は見た!』の例を引くまでもなく、立ち聞きは女中の特権なんだけど、それを濫用しすぎでもありますね。オリジナリティはない。メンヘラに肩入れして読みすぎましたが、それは楽しかったです。

<公演情報>
根本宗子:M&Oplaysプロデュース『クラッシャー女中』


ごまのはえ『チェーホフも鳥の名前』

<あらすじ>
日本とロシアに挟まれたサハリン島には、ロシア人、日本人、朝鮮人の他に先住の北方民族たちも暮らしている。サハリンに生まれ育った、あるいは訪れた様々な人々が、歴史の波に翻弄されながらも生きてきた様子を、アントン・チェーホフや宮沢賢治など実在の人物を通して描写する年代記。

河野 好きな作品だなぁ。ひとつの問題に焦点を当てるのではなく、さまざまな問題が並列に盛り込まれていて、いろんな要素がいろんな角度から入って3世代分のサハリンを描いている。実際にチェーホフや宮沢賢治がサハリンを訪れたなどの史実を基にしているのも楽しい。タイトルにもある「チェーホフ」は舞台となる町の名前でもあるし、もちろん劇作家チェーホフへのオマージュでもあって、チェーホフ的劇作の構成も意識されているのが面白かった。でももしかしたらチェーホフが好きじゃない人は苦手なのかな。

落  登場人物の表を手に持って家系図を書いて読まないと、難しかったんだけど、チェーホフ戯曲の構造もそうだから、逆説的にテクニカルと言える。

河野 私も家系図を書きながら読んだから、かなり整理できました。たしかに日本名だけどルーツがギリヤーク(ロシアサハリンの先住民族)だったり、日本人だけど青い目だったりと様々な民族背景の登場人物たちだから、文字だけで追うのは大変かも。あと、シリアスなエピソードもシーンも多いけど、前半は笑いの要素もけっこう強くしたりと、いろんな演出ができる戯曲だと思う。

落  私はサハリンという題材からすでに重さを受け取っていたので、前半もコメディには思えなかったな。実際に1945年以降、戦争が終わってからが大変な土地だから、後半がよりシビアになるのは歴史に則っていると言えるのかもしれない。私はこれを読んで明らかに『ソウル市民』(※平田オリザの手掛けた日本占領時代のソウルを舞台にした連作戯曲)を連想しました。いわば『サハリン市民』として読んだ。そう思って読むと、心理や矛盾に引き裂かれる様子が足りなくて。いや、『ソウル市民』も辛い時代の中、歌うシーンが出てきたりみんなが楽しく生きている物語ですけどね。今作では、人間のドラマティックな部分の多くを、参考文献に頼っている気がしました。
でも、一番ドラマティックで叙情的な魅力を感じたのはマーシャと房子を毒でなくした医者の荒木で、そこには劇作家の筆運びのテンポの良さが見えました。字幕で歴史年表も多く投影されていましたし、ロシアというテーマに踏み込んだのはとても意義深い。私は、サハリンの先住民族がギリヤークと呼ばれていることを恥ずかしながら初めて知りました。

河野 いろんな人がいて、いろんな民族がいて、いろんな歴史があたり前にある環境が描かれていますよね。ロシアや日本や韓国や朝鮮やニヴフ(古くはギリヤーク)などさまざまな場所にルーツを持つ人達が登場するけれど、まさに現実。それぞれが入り組んでいて、戦争の時代には誰が誰を殺したのかなんてもうわからない。現在でも、ロシア語と日本語とハングルの看板や言語が入り交じった町はあるけれど、そういった日本人でも知らない人がいる現状の複雑さを題材にしたのはすごいなぁ……。そこにシンゾー丸とプーチン丸という現代の国のリーダーの名前を冠した犬が出てくるという(笑)。

落  遊び心を感じるシーンでしたね。繰り返しになるけど、私はやっぱりどの程度参考文献の力で、どの程度作家の言葉かわからなくてノンフィクションのパズルに思えた。明らかに「言葉の色」が違うの。ごまのはえさん個人と、引用の。取材に基づくことと、文献を参照して書くことは違うよ。

河野 同じ戯曲のなかで「言葉の色」が違うことは良くないことなの?

落  チョムスンの長い台詞(P.70)とか、源太が戦場から帰還した時の話、彼が軍隊で経験した話も、ごまのはえさんの創作には思えなくて参考文献をどの程度トレースしたのか、判断がつかない。
根拠はないから、必要以上に否定的に取らないでほしいんだけど、参考文献を参照して書いたであろう設定や台詞と、ごまのはえさんがテンポよくクリエイトしたであろう人々の会話の濃度が違いすぎて、上澄と澱ぐらいの分離を感じちゃったの。そのバランスが悪いなって。あと、宮沢賢治、この戯曲において必要……?

河野 宮沢賢治の存在は、全体で見るとたしかに一見浮いて見えなくもないから、もう少し回収しても良い気もするけれど……でも、宮沢賢治が適しているのは、彼が「イーハトーブ(理想郷)から来た」と言っていることだと思う。宮沢賢治と同じくサハリンを訪ねてくるもうひとりの人物としてチェーホフが登場するんだけど、このチェーホフは非暴力主義者であるトルストイと間違われている。つまり、作品冒頭で、トルストイ(と間違われたチェーホフ)と宮沢賢治というそれぞれ非暴力と理想郷を目指した実在の人物が登場して、この2人が去って以降に物語がどんどん暴力と戦争に巻き込まれていく……という構成。理想を描いた2人の作家がいなくなってから現実が悲惨さを増すのは、この戯曲の皮肉であり哀しさだなと思います。

落  何で私こんなに読むの大変だったんだろうな……。家系図ものが苦手なのかなあ。落ち込みました。

河野 現状を描く作品の場合は、写実にはとどまらないドラマがあると引き込まれるよね。この作品にもいくつかのドラマティックなエピソードは登場するけれど、作品を通しての大きなドラマはもう少し濃くあっても良かったのかもしれない。ただ、これだけたくさんの情報があるとひとつひとつのエピソードを深めるのは難しいでしょうね、群像劇ですし。個人的にはとても好きな作品です。

落  『三人姉妹』へのオマージュとしての「働かなくちゃ」っていう台詞もあったし、ナターシャ(『結婚披露宴』)、マーシャ(『かもめ』)、ソフィア(『プラトーノフ』)など、チェーホフの作品の登場人物の名前がたくさん出てきたので、そういう楽しみ方もあると思いました。

<公演情報>
ごまのはえ:ニットキャップシアター『チェーホフも鳥の名前』


谷賢一『福島三部作』

<あらすじ>
1969年、1989年、そして2011年を舞台に語られる三部作。福島第一原発の事故はなぜ起きてしまったのか? 政治、経済、地域の問題が複雑に絡まり合ってきた歴史を、双葉町で育った穂積家の三兄弟の長男、次男、三男の順番に主人公に据え、濃密に描き出す。

落  私は谷さんがチェルノブイリを題材に書いた2007年初演、2011年再演の『Caesiumberry Jam』を観ていて、前から彼がこの問題に関心を持っているのは知っていた。史実に基づいていても勉強を超えた強度があるし、それを貫くのが三兄弟で、長男次男三男で軸をつくったというのがシンプルで強靭です。

河野 読みやすかったね。構成もわかりやすく整理されているし。

落  読み物として註釈も含めて非常に丁寧ですよね。説教くさくも感じなかった。なぜなら、政治家が説明に来たり自己紹介であったり、いかに原発が安全かプレゼンするのが「演説しに来ている」「説教しに来ている」「説明に来ている」っていう場面そのものだから。客に対しての説明じゃなくて、登場人物から登場人物への説明だからすごくスムーズに入ってきます。それでいて、谷さんのロマンティシズムが具現化されたような台詞のバランスがいい。あとはやっぱり、田舎じゃ何もできない、田舎の辛さを吐露する一部の美弥の言葉が胸に迫ったなあ。私ね、これト書きもよいと思ったの。第一部の10ページ。「砂埃が出てポカポカやる感じになると理想的だがどうしたらいいかわからない」。

河野 作家の考えがト書きに出ているところは読んでいて楽しかった。

落  しかもこの「砂埃が出てポカポカやる感じ」、誰もが思い浮かべるジャイアンがのび太をポカポカやるあれですよ、それを直ちに共有できる日本人のコンテクスト共有は現象として興味深い。

河野 「かけそば1杯40円」という字幕も良かったですよね。具体的な情報をどれほど盛り込むかという文章のテクニックがある。盛り上げたいシーンでは俳優が大声を出せる必然性を仕掛けていたり、全体的に技術力のある力強い戯曲だと思いました。また、作者の構成によってドラマに重きを置いていて、登場人物の葛藤や動きで物語を展開させようとしていますね。

落  誰も物語を進めるためだけの道具に成り下がってない。白眉はやはり第二部で、第一部で若きこころざしに燃えていた穂積忠が町長になるにあたって悪魔的な変化を遂げさせられる様子は恐ろしかったし、このえぐみに手を差し込んで、臓物をかき出してみせるような場面を作り出したことは劇作家として凄まじい。心も痛んだだろうと想像する。リリカルな話をすれば、第二部はワイルダーの『わが町』に則った構造でした。もう戻れない過去の何気ない一瞬を描いたあの物語が、なぜ多くの人から長く愛されているかと言うと『わが町』を誰しも自分の町として想像できるからなんですよ。双葉町は谷さんの「わが町」であるし、みんなに、原発事故のことをわが町、わがこととして考えてほしかったんだと思う。死んでしまって語りかけてくるのが人間ではなく犬なのも、原発が人間の傲慢さの権化だとすれば、人間の業を語るのは人間以外のもの、つまり犬である必然性がありました。

河野 語り手の犬が「モモ」という名前なのがいいな。作者が意識しているかはわからないけれど、ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出した。エンデのモモは灰色の男たちに奪われた時間を取り戻そうと冒険するけれど、『メビウスの輪』のモモは死んでも飼い主を見守ることによって彼らとの時間を取り戻そうとしているようにも見えるし、その後に事故を起こしてしまう福島第一原発招致をした人々の時間へと遡ろうとする作家自身の視点にも重なります。時間の輪から抜け出せないメビウスの輪。

落  長男の恋人だった美弥が忠の妻になっている時間の経過も味わい深いですね。一部のラストシーン、汚染された家に忠・美弥夫妻が一時帰宅している場面は胸が詰まりました。全体的に歳の離れた三兄弟を配置した妙を感じます。

河野 第一部の長男・孝は原子力発電所につとめ、第二部の次男・忠は反原発派ながら結局は福島原発を推進する町長となり、第三部の三男・真は、2人の兄の人生を受け止めて次の時代へと繋ぐように地元の人達のために汗を流す。この三人の性格が違うのも魅力的だし、つねに戯曲の区切りのたびに彼らのうち誰かが故郷・双葉へと戻る物語なんですよね。最初と最後も繋がっていて、冒頭に長男が故郷に戻るところからはじまり、ラストに三男が故郷の未来のために生きることを決意する。……欲を言えば、せっかく三部作なので、たとえば第一部の冒頭に出てきた室生犀星の詩を第三部にも持ってくるなど三部の関連性が強いと興奮度があがったかも。「故郷からは離れた方がいい」という恨み節の詩だけど、それでも故郷を思い、そして結局はあの詩が覆されて故郷に帰結していくので。好みもあるけど。

落  その手があったか……。

河野 あと、第一部、第二部、第三部のそれぞれが演劇としての時代性を感じるのも面白い。第一部の人形劇や丁寧に構成された脚本、第二部のミュージカル的な要素やドラマの展開……それぞれ演劇のトレンドの変化も感じます。そのうえで第三部が難しいんですよね。一部と二部と比べてしまうと、物語としての踏み込みがもう一歩ない気がする。町の人がここぞというタイミングで意見を覆すのもちょっと都合が良いような……。ただ、作者の福島への思いと根拠は強く感じるので、演劇という場を介した作者と観客の対話だという印象もありました。現代=第三部にはまだ未来がないし、それは私たちがこれから踏み出していく先ですよね。そのうえで作家が登場人物全員を救おうとしているようにも感じました。

落  第三部を読みながら、2011年から2012年にかけての、放射能汚染へのすさまじい罵詈雑言の記憶がよみがえりました……。そして問題の多くが今も解決されていない。当時報道は過熱していたし、可哀想な絵を求めてカメラマンたちが好奇心と悪意を剥き出しにしていたことをまざまざと思い出しました。

河野 当時、私はちょうどテレビの報道関係の仕事をしていたんです。その経験を振り返ると、この戯曲ではマスコミ関係者のキャラクター設定が記号的にデフォルメされているかなとは感じました。実際はたくさんのメディア関係者が、迷いながら、揺れながら、間違いながら、後悔しながら、心身ともに削りながら番組を作っていました。第三部に登場するマスコミの4名全員が、一人ひとりの報道マンの中にいたと思います。でもそういう複雑さを描くことがこの作品の主軸じゃないのだろうし、物語の構成としてはこの方が届けやすいのも理解はできます。

落  2011年の狂乱と情報の錯綜の中で、こういうふうに羅列するほか無かったのかもしれない。文脈づけるということは時間が経った、今だからこそできる。2011年の空気を再現するなら難しい。そして、鶴屋南北賞を取っていて、一度出版されているので、単純に岸田戯曲賞として白水社から出し直すという意義を見出しにくいです。

<公演情報>
谷賢一:DULL-COLORED POP『福島三部作』


キタモトマサヤ『空のトリカゴ』

<あらすじ>
日本の関西地方にある架空の町・ツダを舞台とした連作シリーズ。時代は、バブル景気が後退の兆しを見せはじめた平成のはじめ。教員採用試験を受けた“私”は、内向的な性格のため、教育実習先の母校に馴染めずにいた。姉の結婚を間近に控えたある日、10年間行方不明だった伯父が突然帰ってきた……。

落  この戯曲は、とてもクオリティ高く素晴らしかったです。1956年生まれの方なんですね。ノミネートされて、今回読むことができて本当によかった。小さな家族の物語として、完璧に成立していた。タイトルの漢字「空」は「そら」とも「から」とも読める。英訳を見ると”Sky”だから「そら」なんだろうけど、ダブルミーニングが粋です。一読しただけで、キタモトさんの豊かな語彙力が感じられるし、演劇的に徐々に関係性や状況があきらかになる—姉が実はもうすぐ結婚するとか、主人公が教員になるとか、母がそれに対してそこはかとない不満と不安を持っている—のが、ストレスのない形でわかっていく。
1993年頃の設定だけれど、主人公の「私」のような、村社会でうまく暮らせない若者はいつの時代にもいるし、背景がいつであろうと、文体の強度はあるし、釜ヶ崎の話題の中にも、現代の貧しさとはまた違う、90年代当時のリアリティがあった。関西国際空港という大きなものが建設途中であるということも、東京オリンピックに向けたあらゆる突貫工事に巻き込まれる今の日本を逆照射しているようでした。

河野 しかも、今の大阪ではもしかしたら現実感があるのかもしれない。先日、劇中にも登場する大阪の釜ヶ崎に行ってきたんだけど、まだそこにある過去を今の次世代に忘れ去られそうになっていたり、行政が形からなくそうとしている。まさにこの時期だからこそ大事な作品なのかなとも想像しました。歴史から消されそうだけれどもきっとまた繰り返されるかもしれない、そんな人間の生活の空気があるなと感じます。

落  ところどころ「婚約は認めへんというんやないやろうな、ハゲが理由で」(P.4)みたいな、おもろいフレーズ挟まれてて。姉のTバックショーツについて調べていたのが実は母だった(P.36)とか。いやあ、お母さん、本当に面白かったな。

河野 父と母の会話、すごくいいんですよね。キャラクターなのか大阪の人だからなのか暗いシーンがしんみりベタベタしない。もしかすると標準語だったらクサいかもしれない(笑)。みんな同じ家に住んで、みんな徒歩数分のところに通っている家族は、東京ではなかなか想像できないんじゃないかな。ミニマムな家族という世界で、作者がどの役からも距離を置いてる印象は読んでいて心地良いです。

落  あらゆる面で素晴らしい戯曲です。なかでもヘビは、土地によっては罪の象徴の禍々しい生き物とされたり、神の化身とされることもある。二律背反の生き物を主人公が必死に押し込めている関係が良かった。ヘビに飲み込まれた鳥は、先生をめざして淡々と生きてきた自分のメタファー。でも、ヘビの存在はもう少し前面に出ても良かったのかなと思う。意図的に影を薄くしてるのかな?

河野 上演だと気にならないかもしれない。台詞でもヘビの描写についてハッキリ発語しているし。でもほかの生き物ではなくヘビにしたのが良いし、メタファーとしてインパクトがある。もしかしたらヘビは最初からいなくて「私」の妄想だった、とかいう捉え方もできるのも面白い。

落  同じく、伯父が幽霊であったのかも明言されないけれど、彼の消え方は美しかったですね。

河野 それね。最後のト書き(P.41)で伯父さんの存在を描写するト書きに「かすかなひとのけはい」という言葉があるけれど、漢字が「微かな」ではなく「幽かな」なんだよね。お客さんには見えないト書きで「幽」という漢字を使うことで、「俳優たちが「本当は幽霊だったのかも」と思っていればいい」という情報として読み手を演出もしている。これはとても綺麗な一文字だったな。……というふうに、全体的にト書きが美しかったです。

落  特にBGMのト書きが良かった。音楽がいくつ必要かと、流し方の簡単な指示だけ。あと、最後に「音楽のイン&アウトは作者の演出プランによるものである」と注釈をつけているのも、戯曲としてすごくちゃんとしている。

河野 音楽のカットやクロスフェードも丁寧に使い分けていますよね。音声で言えば、コロスの役割がとても効果的だなと思います。コロスが「私」の心情を語ることで、「私」自身が自分を客観的に見ていて、いろんなことを諦めきれていないのに諦めている雰囲気が醸し出される。諦め慣れしている若い世代の空気を感じました。

落  最後の一行、「舞台はいったん暗黒となる。了。」(P.44)のこの“いったん”に感じ入りました。”いったん”ということは、ふたたび明るくなることも暗くなることもあり、歴史は繰り返し、演劇に没入するということが人々にとって繰り返しであり……と様々なものを内包しているから。

河野 そうだね。それは戯曲を上演する人達がその物語のその先を共有するための言葉……ト書きだよね。舞台上で起きていることは同じなのに、「〜した」なのか「〜している」なのかという言葉の変化が美しい。音楽が「消えてゆく」なのか「フェードアウト」なのか、とかね。上演のヒントは戯曲に詰まっているというけれど、言葉遣いひとつに意味がある。でも限定していない余白もある。ト書きも台詞も含めてこの戯曲だけでひとつの作品という感じがします。

落  原発や成田空港などの歴史を見てもそうだけど、なにかを作る時には、労働力や人の葛藤や闘争がある。そうした歴史を知る市井の人に訴えかける作品だろうから、様々な地域の公共ホールで上演できそうですよね。それでいて、ドラマがイデオロギーに飲み込まれすぎていない。

河野 視野が広いですよ。小さな家族が中心のドメスティックな設定なのに、家庭の居間のシーンからでなく山道を歩くシーンで幕があける。「私」が山を登っていき、その背後に影たちが現れ一団となる……という大きな背景に繋がっているひとりの人間、ひとつの家族の物語。私小説のような芝居ではなく、俯瞰をして「自己より外」「世界」を感じさせることは戯曲の深みになっていました。

<公演情報>
キタモトマサヤ:遊劇体『空のトリカゴ』


西尾佳織『終わりにする、一人と一人が丘』

<あらすじ>
マッチングアプリで出会ったカップル、アパートのベランダから遠くを見ている女、労働現場の待機部屋でとりとめのない話をする人たち。1978年、2017年と2018年、2054年という3つの時間軸から浮かび上がるのは、コミュニケーションと孤独にかんする劇作家の壮大な思考の軌跡だ。

落  私はこの開始前の4つ設定されている西暦の「時」、「場所」の時間軸の設定に強い意志を感じました。今回のノミネート作品の中で過去と未来にこれだけ等しい熱量で視線を注いでいたのはこの戯曲だけだった。私はこれを、孤独の物語と思って読みました。

河野 私は、コミュニケーションの物語と思って読んだかな。

落  同時に成立しますよね。コミュニケーションについて考えることは孤独とどう向き合うかという話でもある。
そして会話が異様に冷静で分析的です。自分に芽生えた感情を向ける対象のいわれを見つめているというか。

河野 場面によって語り手が変わっても、ほぼ全員、自分に対して冷静ですね。その時に相対している他者が熱狂していても本人はどこか冷静で批評的な視点を持っている。作家や登場人物の承認欲求を感じない。

落  うどんを食べるシーンでとり天に言及する「その体を食べるって形で私たちは一体なんと別々でまったく違った生き物だろう! わななくね!」(P.5)っていう台詞で、奇遇にも市原作品と山田作品にも肉を食べるという行為が登場したことを思い出しました。この作品では、食べる私、とか、食べることがいいか悪いか、という話ではなく「アウェーの風が、一瞬一瞬「わたし」を活かして、存在を粒立たせてる」と、食べて内側に取り込む行為さえも「アウェー」を感じる、つまり究極の孤独であると描いてみせた。打ちのめされたなあ。
その直後のシーン、女1がフードコートであなたとその家族を見かけたっていう話(P.6)を恋人にしているところはきわめて滑稽で、その物悲しさがディスコミュニケーションの本質だなと思いました。

河野 その女1のシーンもそうでしたが、ひとつひとつのやりとりに「あるあるある!」と首を縦に振ることがすごく多かったです。共感をこえて、「あれ自分の話かな?」と思うほど、日常で実感する瞬間がものすごくある。
ただこれは、作者である西尾さんと自分が同世代だからだとかの何か共通項があるからかもしれないと思うんです。もし20歳頃の自分だったら同じふうに思ったかはわからないから、刺さる人が限られている作品かも……。戯曲そのものについては、とても時間をかけてこの形になっている作品ですよね。登場するエピソードは創作かもしれないし、たとえどこかで見聞きしたものだったとしても丁寧に研磨している印象です。

落  そして、ノミネート作品の中で、ダントツ、劇作家の中にたゆたっている語彙が豊か。戯曲に表出しているのは西尾佳織という劇作家の潜在的語彙力の一角。全部を尽くしちゃってる戯曲もある中で、隠された豊かさを、ものすごく感じるの。特に素晴らしい言葉! と感じたのは女3。「今日、記憶は私を訪れた」(P.7)という台詞は「思い出す」という動詞の知的でエレガントな言い換え。
引き算しているのに豊かさを感じるのが特徴で、女の体の粘膜や、海辺の町での牡蠣やイカのねちっこさのイメージの連続は相互的で丁寧だし、過剰とは正反対の美しさを感じます。マッチングアプリで出会った男と女は、一緒に旅行に来てるけどセックスしてるかどうかはわからない。それがいい。

河野 でも熱は感じ取れる。引きの目線と、核心に迫ることの両方を同時にやっている。物事の当事者でありながらも、その物事からとても引いている……という相反することを同時にやっている。これを同時に描くことは神経が細やかでとても体力が必要なことだと思います。

落  長い時間軸を感じながら、その中の一点がレンズで焦げるくらいフォーカスを当てている。これを読んで私は自分が老いた時にいつの時代に妄執を抱くのだろうと身につまされました。演劇の魔法のひとつ「時間を飛び越える」技を使って、ずっと過去と未来の交錯が続いていくので、読みながらこちらも時間を往来する感覚になりますね。

河野 起こらなかった現実を描いたシーンもありますよね。それは、すごく人を突き放していながらも、手を差し伸べようともしている。その強さは戯曲というよりも劇作家のスタンスなんでしょう。

落  「散文の異常さ」(P.19)についてですが、一般的に現代文では詩と散文を対比して習いますよね。「詩は誰かの生きた息遣いだから厄介。他人だから厄介」という台詞がある。詩が他人の息遣いだとしたら、自分の息遣いはそもそも「自分の詩」であろうと私は思う。だとすると、散文は、詩の集合体なのかもしれない。他人が集まった集団。そこに自分も含まれる。だから、自分の含まれた散文は異常に見え得るんだと私は解釈した。

河野 「散文の異常さ」はとても重要なシーンですね。散文について韻文で語っていて、ここでも相反するものを同時にやっている。そもそも散文って異常だと思うんですよ。おそらく人は物事をとらえる時に「詩的」あるいは「絵画的」にとらえていて、たとえば目の前の光景を『ノート、ベッド、部屋、コップ、白い壁紙』だと認識している。それを他人に伝える時に「私は、ベッドの置かれた白い部屋で勉強しています」という散文に変換する。つまり、人は散文のように世の中をとらえてはいないのに、わざわざ「主語/述語/形容詞……」みたいな散文の並びに翻訳するという異常なことをしている感覚があります。
もちろんこの『散文の異常さ』という言葉はいろんな意味にとらえられる。この戯曲そのものが「詩的」で、時間や人がバラバラで、順序立てて起きることがベストではない。戯曲としてはかなり伝わりづらいとは思うんだけれど、世界を順番に見ることが正しい見方ではないと言われているととれるのは、この劇作そのものが『散文の異常さ』を表現していることにも繋がるかなと。

落  この散文の話の後に、セミナーの話が続いていて、アジテーションとか演説のような、いろんなパターンを試している。

河野 「自分はこう思う。でもそれはあの人には伝わらない」ということをずっといろんな角度から描いてもいますよね。“本人の考え”と“他人の勝手な解釈”が、すべてのシーンでズレている。でも、もしかしたらわかりあえるかもしれない!というシーンがクライマックスで描かれる。
まぁそれでも結局はわかりあえないんだけど。でも、こんなにわかりあえない世の中だしぜんぜんわかり合えないままだけど、一人でいようとはしないという作家の強い決意が感じられるようで、その姿勢は表現者としてものすごい。すごいタイトルだよ、『終わりにする、一人と一人が丘』。

落  興味深いのは、「自分の言いたさ」というフレーズ(P.22)。自分の中に芽生えた行動への欲求を一歩引いて観察した時の「やりたさ」「したさ」「言いたさ」という瞬間を感じ取れる。ちなみに西尾さんの使う「たさ」という言葉が最高レベルで爆発するのは、石になりたかった話(P.29)をするところだと思います。「石にはなれないけど、なりたさの『たさ』的には石がベストだったのかな」って台詞。大好きですね。

河野 めっちゃ笑った。ただ、そのあとに続く台詞「なに言ってるのかぜんぜんわかんない!」という人も世の中にはたくさんいるでしょう。全体的に、人によって共感の度合いがすごく違って評価がかなりわかれる作品なのではないかと予想します。

落  それはその通りね。それでも期待をかけたいとこれほど強く思う作品は他になかったです。

<公演情報>
西尾佳織:鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』


<受賞予想作総評>

落  さて……全作品について語り合いましたが、私の考えは変わりません。本命には西尾佳織さんです。

河野 私は、谷賢一さんに続き、西尾佳織さんを挙げています。作品の強度としては個別のコメントですでに触れましたが、お2人とも劇作家としての活動を振り返ると大きな節目となる作品だと思います。
まず、私たち両方ともが名前を挙げた西尾さんの『終わりにする、一人と一人が丘』について。いろんな演劇が世の中に存在しているなかで、この戯曲からも感じる西尾さんの世界の捉え方や戯曲や演劇との向き合い方が他とは全然違うと思うんです、良し悪しではなく。物事をとても広範囲でとらえていて、もはや戯曲という概念にはまらない作家かもしれないと思いました。

落  一行一行の密度が高くて読み物としてもすごく面白いですね。

河野 一人の表現や活動をする人として、この戯曲は本作家のひとつの到達点のようにも感じました。今回の岸田戯曲賞予想対談にあたって私は「まずとりあえずは、今ここにある印字された戯曲だけで読んでみよう」という思いで全作品に臨んでいたんですが、西尾さんの戯曲を読んだ時に、この戯曲のバックグラウンドに広がっているだろうと想像させるあまたのものを強く意識しました。戯曲という枠におさまらないなと。

落  想像できるバックグラウンドと、戯曲単体の面白さを併存しています。戯曲ですらないと同時にこれ以上ないほどに戯曲。作品と、作品の有り様がみごとに一貫していますね。

河野 ただ、複雑な構成ではあるので、公演チラシやWEBなどに掲載していた時間軸の表を、審査用の提出戯曲につけるなどしていればずいぶん読み手の理解度や印象が違ったのではないかなという気がしています……。
一方で、谷さんの『福島三部作』は戯曲として精査されている。注釈も丁寧で作家の意思も現れていますし、本文にもさまざまな技術や工夫があります。かける時間も熱量もとても高いでしょう。しかもおそらく谷さんにしかできないことを労力をかけて作品にしています。三部作であることにも意味を持たせている。

落  谷さんに関しては、岸田戯曲賞によって再度権威付けをする必要があるかどうかの問題だけだと思っています。第二部が鶴屋南北賞を受賞していて、戯曲もすでに単行本として出版されている。雑誌掲載とは訳が違う。権威と出版という、岸田賞のふたつの重要な点をすでにクリアしてしまっているんです。

河野 それでも『福島三部作』は数十年後に演劇史と日本史を同時に振り返った時に、節目のひとつとなる作品ではないかと思います。ただ、どれか一作だけの単独受賞となると抜きん出た作品があったかというと、自信がないです。候補作はすべて<上演台本>なので戯曲だけでの完成度としては余白がかなりありますし、一瞬「受賞なし」も頭をよぎりました。逆にいえば、どれもが面白かったということでもあるんですけれどね。……落さんが候補にあげているキタモトマサヤさんの作品も良かったですが、いかがですか?

落  谷さんの戯曲に関しては同意します。だから西尾さんの本命は揺るがない前提で、大穴に推しました。キタモトさんの丁寧なストーリーテリングのスタイルとクオリティの高さは、西尾さんとの同時受賞のバランスがいいです。

河野 全作品について話してきて思ったんですが、落さんは「戯曲」を言葉の作品だと捉えていますよね。落さんと私では「戯曲」というものの捉え方が違うんだろうな、というのは感じます。私は、戯曲をひとつの完成状態としつつも、さまざまな上演の可能性も踏まえて読んでますね。

落  そうですね、私はかなりテクストを重視する方だと思います。「演劇賞」ではなく「戯曲賞」なので。上演多様性のある戯曲の方が優れているのか? と考えた時期もありましたが、今は演出のことは考えず、たとえ観劇した演目でも思い出さずに、目の前にある「言葉」をどう咀嚼するかに集中していますね。


ノミネート作品のジェンダーバランス

落  数年前から、岸田戯曲賞のノミネート作品の作家に、女性が増えてきました。2017年からは男女ほぼ同数です。実は、私はそれを手放しで喜んではいません。でも希望を感じているから、このパラグラフは最後まで読んでほしいです。
演劇というジャンルは、稽古場や劇場に「体を持った人間が集まり続ける」ライフワークです。そして演劇の世界もまた、一般の社会のように女性に事務や雑用を押し付けてきたし、パフォーマーとしては存在を認めても、子どもを産んで体質が変わって引退を選んだ女性もいるだろうし、そもそも集団のリーダーとして女性を認めない男性があふれる中で、自由に見える芸術の世界でだって、女性が劇作家や演出家になることについて大きな壁はずっとあったのです。
いや、正確には「女性が劇作家や演出家であり続けることについて」の壁ですね。 
ジェンダーやハラスメントから来る問題構造がまだ根深い中、女性劇作家・演出家の活動のサステナビリティの確立は発展途上です。

河野 たまたまだと思いたいけれど男女4人ずつノミネートされました。個人的には、ノミネート作品を男女同数にする意味はないと思っています。そして、そのうち女性は全員30歳前後だけれど、80年代後半以降生まれの男性作家はいませんでした。2019年は若い男性作家で面白い戯曲はたくさんあったなと思うんだけれどな。

落  歴史上続いてきた男女差別のために、現状、男女の劇作家が年齢を問わず胸を張って平等な環境にあるかと言われたらそうではない。

河野 展示会の出展者やシンポジウムや審査員などならジェンダーバランスをある程度そろえることは必要だと思うけど、それも絶対ではないです。社会的な性別が重要視される現状もわかるのですが、そこに目を向けすぎると見失ってしまう存在や思想があります。

落  結果的に、今年の全候補作を読んだ中で西尾佳織が受賞に値すると期待できるのは、私にとって嬉しいことです。なぜかというと、数少ない女性審査員を、将来担ってほしいから。そうすれば、長い目できっと歴史は動く。
苦言を呈してはきましたが、10年間ノミネートが男女同数で続いたら、女性劇作家も受賞の希望を持って書き続ける未来が来るかもしれない。そう思うと、作り手も白水社も観客もわれわれ読み手も、一丸となってまだまだ努力をしている途中なんだと思います。


◎プロフィール
***落 雅季子***
1983年東京生まれ。初等科より聖心女子学院で学び、一橋大学を卒業。金融、IT、貿易などの業務に携わりながら、批評・創作メディアLittleSophyを主宰。岸田國士戯曲賞の予想を手掛けるのは今年で5年目。
Twitter @maki_co

***河野桃子***
桜美林大学にて演劇、舞台制作、アートマネジメントを学び、卒業後は週刊誌やテレビや経済誌などのメディアで記者、編集者、制作者として活動していました。現在は、商業演劇を中心に、小劇場、コンテンポラリーダンスなどのインタビューや公演記事を執筆。海外の芸術祭(演劇祭)の視察などにも力をいれています。
Twitter @momo_com
note  https://note.mu/momo_com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?