私たちのもつ世界観

気持ちに寄り添ってくれる温かく明快なメッセージで、そのお人柄を伺える経堂キリスト集会 三綿直人牧師先生。ご経歴を拝見すると外資系でバリバリのキャリアを積まれたビジネスマン。きっと英語もご堪能ではないかと拝察します。
プロテスタントの牧師先生は、ビジネスやアカデミックの分野で活躍されていた方が多いですね。

三綿先生のyoutube動画から学んだことを、自分への覚書きとして記しておきたいと思いました。

三綿先生の動画はこちらから。
GFP福音配信チャンネル

私にダイレクトに響いたメッセージは、ずばり「私たちは、自分が持つ世界観というフィルター越しにしか物事を見ることができない」

碧眼の欧米人と黒目のアジア人では、見ている色も光も捉え方が違うそうですね。同様に、私たちは自身の思考癖や、経験してきたトラウマによって傷ついた心が持つ繊細さや脆弱さの度合いにより、同じ物事でもそれぞれに違う捉え方をするのは当然だと考えます。
性格は遺伝だから治らないなどと言う人がいますが、私はそれは違うのではないかと思っています。遺伝で片付けられてはたまりません。

聖書の神様を知る前の私は、辛いことや不本意なことがあれば、とことん落ち込み、他者や環境のせいにしていました。そして「なぜ私にこんなことが起こるの?」と悲観しました。何故ならそこに希望を見出せなかったからです。諦観は、そこから浮上するための気力も知恵も、問題に向き合う勇気も与えてくれず、そこからの解決は、ただ「逃避」や「気晴らし」。暗く暖かい洞穴にじっと籠もって時間が傷を回復させるのをただ待つような心持ちです。それは、当時の私が持っていた世界観が大いに起因していたと今は判ります。他人に甘えがあるくせに妙に頑固で思い込みが激しく「自分でなんとかしなきゃいけない。この世は不条理で不公平だ」という世界観です。プライドが高く、他者に素直に助けてと言えない。
自分しか頼れるものはない、と信じていた時は、本来の自分自身を認めることは恐怖でした。だって、そこからめちゃめちゃ弱い自分やら、ずるい自分やら、汚い心やらが出てくるんです。恐怖ではないですか?
強くあらねばならない、そうじゃないと自分は生きていけない、と思い込んでいる時に、都合の悪い事実ばかりに向き合わなければならないのは恐怖です。
なので、自分は良い人間、強いのだ、と言い聞かせ、周囲に見破られないようずいぶん高い壁を自分の周りに築いて、心に鎧を着る必要がありました。本音と直球で接してくる人は苦手でした。どんどん踏み込まれそうで。本来の弱くいいかげんな自分を見透かされそうで。

今なら諸手を上げて認めます。白旗をぶんぶん振れます。自分ほど弱く頼りにならない存在はない、と。志や価値観も簡単にぶれます。にんげんだもの、それが当然だということも。それでいいということも。だから私にはイエス様が必要なのだということも。

三綿先生は動画の中で、ある問いを紹介されます。「あなたが‘’この不条理な世界に神なんていない”と信じる無神論の世界観は、あなたの人生で役に立っていますか?」と。

個人的な証をするなら、私の過去の人生では、その世界観はまったく役に立ちませんでした。それどころか害悪でさえありました。自分の力量を信じられなくなった時、無力さに苛まれた時、何を頼りに両足で立っていられるでしょう。自分に自信がなくなった時、ただ自分を圧し殺していればよいのでしょうか。

***
恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
イザヤ書 43章 1〜2節
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私たちを創ってくださった聖書の神様は「恐れるな」と言ってくれます。

神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。
詩篇 46篇 1〜3節

主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
詩篇 23篇 1〜6節

神様を信じた人に困難が来なくなるわけではありません。懲りずに過ちばかりを起こす、私たち未熟な人間たちの世界は不条理なことが起こります。

水や川の中を過ぎる時、火の中を歩く時、地が変わり、山々が揺れ、死の陰の谷をも歩む時、敵が目前にいる時も、私と共に神がいてくれる。必ずや守ってくれ、試練とともに脱出の道を備えてくれるという約束に、力と平安をもらっています。

小さな釣り舟で嵐に合った時、弟子たちは動揺し大慌てでした。舟の中で横たわって寝ているイエスに「先生!なんとかしてください!」とパニックでした。イエスはそんな弟子たちを「落ち着きなさい、信仰の薄い人たちですね」と穏やかに諭し嵐を沈めました。

私も時に舟の中の弟子たちのように動揺します。嵐に飲み込まれる!と恐れがやってきます。なので、嵐の中でも平安に寝ているイエスが、私には必要です。嵐が来なくなるわけでなく、嵐は来ます。でも嵐を沈めてくれるイエスが共にいてくれるのです。こんな平安はありません。

*****
それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
マタイの福音書 8章 23〜27節


















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