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#57 クヨクヨスンナ、オラガツイテルダゾ。 

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

俺がついてるぜ 俺がついてるぜ

TOY STORY 「君はともだち」

他人に「掛ける言葉」について考える。

ほとんどの人間は、たまに落ち込む。どんなに元気な人でも、どんなに明るい人でも、どこかで気分が沈む時がある。

むしろ、このクソったれな社会の中で懸命に生きる人にとっては、そもそも落ち込む事だらけだ、と言ってもいいのかも知れない。

そんな時、もちろんクヨクヨと落ち込み続けるのは個人の自由だ。どうやら昨今では個人の自由は無限に認められている。

だが落ち込んだ子供を懸命に励ましてくれるような人が、大の大人に四六時中いてくれる訳ではない。そして事実として周りの大人も実は皆、ある程度に落ち込んでいて、いつもかなり疲れている。

大人にとって、自分を励ましてくれ。というサインとして、悩みや落ち込んでいる気分を外へとアウトプットするのは、なかなか憚られるものだ。そういう事が素直に出来ているのは、最近だとちいかわのモモンガぐらいだろう。

だから家族や気の置けない友達と、自分の気持ちを常に説明しあうような関係が出来ている人は幸せだ。自分の心を言語化する事で、再認識し、分析し、落としどころへと誘導できるかもしれない。

ただこのやり方は、自分の心の安定の為に他人を犠牲にしているのではないかと思う事がある。その相談内容が重たければ重たいほど、聞いてくれる人の「心の負担」は大きくなるからだ。要するに申し訳無さが勝ってしまう。

そして仮に聞いてくれる人に「依存」するような形になると、話す側、聞く側の双方にとって、だんだんとそれは健全な関係性でなくなっていく。共依存という言葉もある。共依存は狂依存と誰かも言っていた。

今、社会は「責任を回避する」事が最優先だと言ってもいい。

人の悩みを聞いてあげるだけならば、聞き続ける事が責任を果たす事になるかもしれないが、もしアドバイスを求められる事があれば、そこからは突然また別の責任が襲い掛かってくる。

もし相談してきた相手から、「あなたの言う通りにしたのに、うまく行かなかった。」と言われたらどうだろうか。

「すまなかった、申し訳ない」で済まされればいいのだが。

この「言葉への責任」を持つことはほとんど不可能だ。そもそも本当は誰も、他人の人生の責任など持つことは出来っこない。

世知辛いようだが、他人の人生の責任など、文字通りに他人事(ひとごと)だし、はなっからとれっこない。だから他人の事は、他人事でいいのだ。できっこない事に悩んでも仕方がない。

悩みの9割は、実際には起こらない。

と聞いたことがある。そう考えれば、そんなものは薄ら笑いを浮かべながら、適当な事を言ってあしらえば良い。と言える。

なんだ、それでよかったのか。と思ったあなた。是非、このコマをご覧いただきたい。これがそのお手本だ。

ゴンスケの表情とセリフはいつだって我々が生きるためのモデルだ

念願だった宇宙への冒険に旅立った21エモンとモンガ―、しかしいつの間にかくっついてきていたのがゴンスケ。そして21エモンが彼の分のロケットの費用を払ったため、手持ちのお金がなくなってしまう。という状況になった時の1コマである。

自己肯定感という言葉をご存じだろうか。

自己肯定感とは、他人と比較するのではなく、そのままの自分を認め、尊重し、自己価値を感じることができる心の状態を指します。 人間関係やパートナーシップ、仕事や自己実現においても、自己肯定感が土台となり、幸福に大きく影響する感覚です。 自己肯定感の類語として「自信」が挙げられます。

インターネット検索より

ゴンスケの目線と言うか、ゴンスケの顔の角度を見て欲しい。完璧に上を向いている。右手だって上がっている。

そこには、お金がかかってしまって申し訳ないとか、黙ってついてきた事への負い目みたいな物は何もない。そんなことは、彼の自己肯定感を揺るがしたりはしない。

自分自身がトラブルの原因であるとしても、それと彼らにゴンスケという存在が一緒にいる事を天秤に掛けた時、圧倒的にゴンスケがいるという事の方が良い事であると、そのようにゴンスケ自身が自分を信じている事がわかる。

この圧倒的な自己肯定感は、ポンコツロボットだからとか、芋ほりロボットだからとか、田舎者でおおざっぱな性格だからとかのレベルではない。21エモンとモンガーには自分が必要だ、と疑う事すらないのだ。

セリフをひも解いてみよう。
「クヨクヨスンナ、オラガツイテルダゾ」

すこし読みやすくするとこうなる。
「クヨクヨすんな、オラが付いてるだぞ」

ポイントは、後半のセリフだ、もう少し読みやすくする。
「オラが付いているんだから。」

前後の脈絡もないばかりか、何の理屈もないのがわかるだろうか。

人に掛ける言葉について考えた時、その言葉がどのように相手に伝わるのかは非常に大事な要素だ。コミュニケーションの基本である。

だから、なんらかの理屈が欲しいし、ロジックがあってこそその言葉の真意が見えてくるものである。

しかし、この「オラガツイテルダゾ」には、そんなこざかしい理屈や、もっともらしいロジックなどない。

実は、このセリフの本当の意味はこうなる。
「俺がいるんだから、もうクヨクヨするのは辞めろ。」

なんて自分本意。相手の事を考えていやしない。
クヨクヨするお前を俺に見せるな。と言わんばかりである。
ここまでくると、そこに痺れるし、憧れる。

呆れた21エモンの表情と、セリフ、そしてモンガーの困った顔も良い。

「人ごとみたいにいってら」

誰かの悩みなんて、所詮は人ごとであって、深刻に受け止めすぎる理由は何にもない。例えその悩みの原因を自分が引き起こしたとしても、それが、わが身に起こっていることでも。

こういう本質的な事を言うと、人情味が無いとか、そうはいっても現実的には同情した振りをしないといけないとか、そういう意見が出てくる。

確かにそうかもしれない。人間関係を潤滑にするためには、僕らは人ごとを自分の事のように捉えなくて行けない事が多々ある。内心は知らねぇよと思っていても、大変だったねと言わなくてはいけない時があると思う。ポーズはしなくてはならないというやつだ。

そんな時でも心の中にゴンスケと芋畑がある人は、このセリフを言う事が出来るかも知れない。かなりいい加減だけど、実は悩んでいる人に対して言わなくてはいけない言葉はこれ一択なんじゃないだろうか。とも思える。

あれやこれやと思案して、理屈をこねたり、ロジックを構築してアドバイスをしてみたところで、何でもかんでも「なるようにしかならない」のがこの世の本当のところの真実だ。

何を言っても机上の空論や、仮説、想像、想定でしかない。そこに”真”は無い。だけど、だからこそ、数少ない”真”である事実を伝えるべきなんじゃないだろうか。

それこそが「オラガツイテルダゾ」なんじゃないだろうか。

出来る事ややれる事、なには無くとも、自分が君のそばについている。
そう言ってやるべきなんじゃないだろうか。それは嘘ではないハズだ。

不要かもしれないアドバイスを言って、後から責任の所在を押し付けられたりするよりも、ただあなたのそばにいるというのが、数少ない出来る事なんじゃないだろうか。

もし、その悩みによって何か問題が生じたとしても、私があなたの元を去るような事は無い。とそう伝えてあげる事は、悩んでいる人にとっても心強い言葉になり得る。

そういう意味が込められているのではないだろうか。

お金は無くとも、僕はあなたのそばにいる。
だから、クヨクヨする必要は無い。
と、そうゴンスケは言っているのだ。

もしそうならば、そこには理屈もロジックもあったという事になる。問題があったとしたら、それは人ごとみたいに聞こえたというところだ。

もちろん、当事者がいうべき言葉ではないかも知れない。しかし悩むという事自体の原因には、メタ認知が出来ていないという状態がある。

「メタ認知」とは、自分が認知していることを客観的に把握し、制御すること。つまり「認知していることを認知する」ことである。

F先生もA先生も手塚先生も好きなメタ表現だ。このコマもそう。

「このマンガ」、「二ページ」はメタ表現。
読者と同じ客観視点で語られている。

どういうことかと言うと、自分の悩みに囚われすぎて、客観視できないため、悩みが自分の中でどんどんの大きく成っていき、自分ではどうしようも出来ない程膨らんでしまう事がある。

この状態を抜け出すためには、自分が今こういう事で悩んでいて、その悩みによってこういう良くない状態にあるんだな。という第三者的な視点で自分を見る事が、解決の第一歩であると聞いたことがある。

つまり、ゴンスケは自分の事でも人ごとであるかのように捉える事で、分析し、理解して、次の行動を考えるためのステップである「メタ認知」を促しているのである。

もしそうだとしたら、高性能すぎるぜゴンスケ。お前、芋ほりロボットなんだろ?と言いたくなる。やはりダンチでカッコいい。


悩み多きこの時代。

あれやこれやと悩んで見ても、もしかしたら悩んでいる自分に酔っているだけという可能性もある。しかしそれを他人が指摘したところで、自分で気が付かなくてはそれを理解できないということもある。

もしくは指摘してくれるような人すらも周りにはいないかもしれない。さらに悪い事には、聞いてくれる友達も周りにいないかもしれない。

だから自分の心の中にゴンスケに芋畑を作らせておく必要がある。

そしてもし悩んだ時には、ゴンスケに自分に対してこのセリフを言わせるのが良いのかも知れない。

「クヨクヨスンナ、オラガツイテルダゾ」

掛ける言葉として、少なくともそれは嘘ではないのだから。


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