坂口恭平『躁鬱大学』鬱の奥義をみる

相変わらず鬱や身体症状が辛い。吐き気や体の痛み、痒み、違和感のようなものが気になる。鬱になって2年程経つが、この間全身に何らかの症状がでた。それで不安になって病院に行って検査してもらうのだが、ざっくり言うと大したことないのだ。胃だけはどちらかというと悪いらしく、一応薬を飲んでおいてくれ、と言われているが治っている気がしない。おそらく、精神的なものなのだろう。ご飯を食べると気持ち悪くなるので参ってくる。僕の飲んでいる薬はネットの情報によると、すごい食欲が出て太ったとか書かれているのだが、僕はむしろ痩せたくらいなのだ。だから薬の副作用というものは本当に人によると思う。何にせよ、鬱が悪さをしているのだ。また、身体症状は身体症状で辛いとして、これは何かの病気なのではないかという不安が一番辛いのだ。これは不安が悪さをしているのだろう。この不安と折り合いをつけない限り僕は身体症状に悩まされるのかもしれない。

それはいいとして、坂口恭平の『躁鬱大学』で鬱の奥義が紹介されていたので、これについてみていこうと思う。

鬱の奥義その1
「躁鬱人が鬱状態で苦しんでいる横で、非躁鬱人は躁鬱人がおとなしくなって、とりあえずホッとしている」

坂口恭平『躁鬱大学』

僕は一応双極性障害と診断されているが、今の主治医はどちらかというと分からないという判断をしている。というのも、働きながら通っていた病院では、不安障害と診断されていたが、1年くらい経って診断が双極性障害に変わった。それで気分が上がって転職しようと思い仕事を辞めたら鬱になってしまったのだ。それで症状的に以前通っていた病院に通えなくなったので、今の病院に転院したのだが、双極性障害かどうかは分からないと言われた。そりゃそうで、うつ状態で転院してこられても、すぐに双極性障害と断定できないだろう。確かに気分の波はあるが、僕の場合そんな教科書的な極端な躁状態を経験したことはない。おそらく、気分が上がっている時に周りに迷惑がかかるようなこともしていない。電話をかけまくったりもしていない。また、家族からしたら鬱で引きこもられる方が迷惑だと思うので、この奥義1は僕にはあまりピンとこない。

鬱の奥義その2
「孤独を感じたときは常に鬱状態である。つまり、孤独だから鬱状態になったのではなく、鬱状態だから孤独を感じるのだ」

坂口恭平『躁鬱大学』

鬱というのは物凄く孤独なものである。僕は一人暮らしをしている時に仕事を辞めて鬱になったが、その時は孤独で本当に気が狂うかと思った。これではマズイと思ったので実家に帰ってきた。家族と住むことで、確かに孤独ではないのだが、鬱の症状との戦いは間違いなく孤独なのだ。症状というのは主観的なものであり、その辛さは誰にも伝わらない。主治医にも伝わらないと思っている。ひたすら孤独との戦いなのだ。ただ、坂口は「鬱状態だから孤独を感じる」という。鬱状態にあるから、ネガティブな症状が生じているという視点の切り替えはとても重要な事だと思う。本来孤独ではないのだけど、鬱がそう思わせている。僕は鬱と戦っている時に、ああこのままだとマズイなという時があるが、これは鬱だからこういう風に思ってしまうのだ、と客観的に解説している。これが出来るようになったのは坂口恭平のおかげだ。

鬱の奥義その3
鬱のときは反省禁止。その反省も躁状態ではすべて忘れてしまい、今後の人生にいっさい反映されないため、反省するだけソン」

坂口恭平『躁鬱大学』

鬱の時はこれでもかというくらい反省する。僕は保育園から社会人に至るまでタイムスリップして反省していた。それがフラッシュバックのように唐突に浮かんでくるのだ。ただ、もう済んだことなので仕方ない。坂口の言うように気分が上がっている時は、反省する余地がなくなるので反省するだけ無意味なのだ。

鬱の奥義その4
「あなたが嫌だと思っているあなたの状態は、あなたの性格ではない。すべての鬱状態の躁鬱人に共通の特徴である」

坂口恭平『躁鬱大学』

まあ、これも上に書いたように、ネガティブな性格だからどうこうではなくて、鬱状態にあるからネガティブな状態に陥っているということだろう。この視点は本当に大事なのだ。ただ、双極性障害の人のことを「躁鬱人」と一括りにされており、それは「共通の特徴」とされているが、これは正直なところ分からない。双極性障害だからこういう性格だとか、こういう気質だとかは正直なところよく分からない。同じ双極性障害といっても人によって症状が異なれば性格も異なると思うので、何ともいえない。まあここで書かれている通り、鬱状態にあるから嫌な状態に陥ってしまっているということなのだろう。そして、それは鬱状態を経験している人に共通の特徴なのだろう。

鬱の奥義その5
「鬱状態だから頭の回転が鈍くなるのではなく、ただ興味のないことを頭に入れようとは思わないだけだ。むしろ興味があることだけが、頭に入るようになっている」

坂口恭平『躁鬱大学』

これは本当にそうだ。どう見積もっても、元気ややる気がでなくて横になっているしかないのに、鬱に関することなら永遠と調べることができる。もうそれ以外のことに関心が向かなくなっているのだ。僕も鬱状態が治らないので、本やネットで鬱に関することを調べまくった。他の本は全然読めないのに、鬱に関することならみるみる吸収できた。だから鬱に関することしか興味がいかなくなっているのだ。それ以外に関することはどうでもよく、全く頭に入ってこないのだ。これには中々気づくことはできないので、坂口恭平という人は鬱についてとことん考えた人なのだなと思った。

鬱の奥義その6
「鬱状態のとき、好奇心がなくなったとかならず嘆く。しかし、実は持てるすべての好奇心を『躁鬱人とはなにか?』という問いの探求に注いでしまっているため、他に充てる十分な好奇心が不足しているだけである」

坂口恭平『躁鬱大学』

これは奥義5に似ている。例えば、双極性障害と診断されていて、鬱状態が中々治らないと、双極性障害についてとことん調べる、つまり探求してしまっているということなのだろう。僕は鬱になって友人や知り合いに相談したことがあったが、決まって「~をやったら?」と言われるのだが、こちらからするとそんなことをやっている場合ではないという気分なのだ。確かに、一見すると好奇心が無くなったかのように見える。ただ、双極性障害あるいは鬱に対する好奇心は半端なものじゃないので、とことん本やネットで調べるようになる。だからこれはよく分かる。ただ、僕は結局素人なので、双極性障害について色々調べた結果、よく分からない、ということが分かった。むしろ、変な知識がついたせいで、余計に拗らせたと思っている。双極性障害に関する本は往々にして病気として書かれているので、根本的に解決しないのだ。また、体験談のような本も読んだが、なんだか重苦しい雰囲気が漂っていて読むと参ってくるのだ。北杜夫さんの本も読んだことがあるが、躁状態の出来事をユーモアのある文体で書かれているだけで、知りたいのはそういうことじゃないんだよな、と思ってしまった。内海健さんの書かれた『双極II型障害という病 -改訂版うつ病新時代-』は確か病気的な視点や人文学的な視点で書かれていて興味深かったが、難解で読んでいて気楽になるような本ではなかった。当事者が読むというよりかは研究者向けだと思った。だから僕は、色々調べたからこそ思うのだが、あまり調べなくても良かったなと思った。むしろ調べすぎることによって拗らせてしまった感覚がある。目の前の主治医を信頼して、自分にできることをコツコツやっていくのが一番の近道なのだ。双極性障害に関して唯一読んでよかったなと思ったのが、この『躁鬱大学』であり、また、この本で紹介されている『神田橋語録』だった。ただ、これも結局のところ、坂口恭平の解釈であり、神田橋先生の解釈にすぎないなとも思う。

とにかく、『躁鬱大学』は読んでいて気分が楽になる。ざっくりいえば、坂口恭平的双極性障害論なので、当てはまる面もあれば当てはまらない面もあると思う。まあ副題に「気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません」と書かれており、緩い自己啓発本みたいな感じなので、双極性障害ではない人にも当てはまるかもしれない。あまり傾倒するのではなくて、こういう視点もあるのかくらいで読むのがいいのかもしれない。ただ、双極性障害に関するこういう本は無かったので、坂口恭平が『躁鬱大学』を書いてくれたのはありがたい。坂口恭平は薬を飲んで寛解を目指すのは窮屈だという。彼は本気で治すつもりでいると、動画で言っていた。坂口恭平は双極性障害の希望なのだ。

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