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人間関係「トラブル回避」の極意

ひとに期待をしないこと。人がこうしてくれないとか、ああしてくれなかったとか、誰それが悪いんじゃないか、とかなるのは「期待」するから。

期待する分だけあとで自分が振り回される確率もあがっていく

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人って「群れる」っていう手段で生き延びる生き物。

だから、これを言ってしまうのは残念な考え方でもあるんだけど、ひとに期待をしないことが人間関係でトラブルを生まない極意だと思う。

お互いに期待してお互いに応えていくのが関係を長く続けるために必要なこではある。

それは、社会生活のステージが当面おんなじであるとか、価値観の範囲が共有されているとか、共通の目的やゴールがある場合、かと思います。
利害一致している場合もそうだよね。

これは私の場合の話ですが。最近でも、身近な人だったり、仕事でも相手もHSP的な優しい人だったりすると、「この人だったら」「やってもらえそう」なこと、をついつい期待して当てにしてしまう瞬間はある。

ただし、自分がその状態でいるとなぜか小競り合い(気のせいか?)が起きたり、やってもらえても感謝がわかず当然と思ってしまったり、やってもらえなければガッカリもしてしまうっていう感情も起きた。

へんな話、忙しかったりで電化製品ですら乱暴にコキ使う気持ちがあると、絶妙なタイミングで機嫌がわるくなって動きが悪くなるもんだから、笑えない。

これは私固有の課題だっていうこともわかってるんだけど、じゃまが入る感覚っていうのは、人からも電気製品からも感じる時がある。

期待値ゼロがラク

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そういうのも含めて。期待値ゼロからスタートなら、やってもらえれば思ってもみないラッキーだし、嬉しいし、感謝もわくもんね。

期待値ゼロで過ごすことの重要さは、昔から心がけていたことでした。

自分の自立心が続いてくれるし。それはいくつになっても成長の原動力になる。

もっと成長したいとか、自己「変革」レベルの変化がもし欲しいなら、退路を経って自分を逆境に追い込む人も居ますし。

薄幸な人にみえるかもしれないけど、その先にゴールがあるならチャレンジと呼べます。その人の心にはその先の幸せがリアルに見えている。

快適さは捨てて「次」を目指す

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そうはいってもやっぱり自虐なのかな?っていう言葉もよぎるけど、私もいつまでも今ある快適さは捨てていくサイクルを採用していきたい。

例えば、誰かを踏み付けにしたり犠牲になってもらったりして、その上であぐらをかくのが快適だと思い込んでいる人、居るんじゃないかと思います。それってセンスが悪いし趣味もよくないと思う。

人に立ててもらってやっと保てる人格ってなんぼか自己評価したらいいし。

そのことに罪悪感とか、うすうす違和感感じてるならまだマシだけど、本気でそれが快適さだとか幸せだと信じて疑いがないなら、壊れてる。考え直した方がいい。

他の選択肢が見えていないのが原因なんだから、いろんな人の話を聞いたり本を開いたり、先入観抜きで、体系的な知識や情報を増やすことだと思います。

自己評価が低いなー、というのであればプライベートにも仕事にも自分の「強み」を使って生活してみるのもとてもおすすめです。

私も生活者なので、そういった仮初の快適さにうっかり納得しそうになることもある。世間様と比べて普通かどうかとか、ちょっとはアドバンテージとっていたいっていうエゴも出る。それも生きる原動力だし、個人の自由な選択の範囲かと思います。

「温室」にとどまる代わりに崖から飛び降りるぐらいの勇気でいつもゴールを設定し直して行動していきたいな、と常々思っています。

ただ、自分でも気になっていたのが「人に対する期待値ゼロで居る」をわざとやるっていうことは

人との繋がりからの孤立とか分断に自ら突っ込んでいってないか?っていう気がかり。

しかも、「ひとりで抱え込まないで」ていう言葉を投げかけてくる人が時々だけどいるもんだから気持ちがグラつきます。

ひとりで抱え込まないで、の文脈にも色々あるとは思うけど、不可解感があって意味を長年考えていまして。

今のところ出た答えは、やっぱりよくわかんなかったけどこういう意味なんじゃないか?っていう言語化はできそうなので、次の記事に続けてみる。


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