とても好きなのだけど、好きな理由を述べろと言われるとうまく言語化できないことがある。 僕の場合はとあるバンドがそうで、彼らが生み出すものに触れるととても安心する。 けれども、昔からそのバンドは好きなんだが、何故わたしはこんなにも好きでいられるんだろうと、漠然とした思考に陥ることがある。 そこに「好きな理由」である明確な解が無い。好きになった衝撃的なきっかけや出来事があったわけでもない。 でもそういうのは時間が咀嚼しある日ふと、これがこうだから、わたしはこれが好きなんだなと、わ
日々を営む中で、いったい自分は何を考えながら生きていけばいいのか、わからなくなることがある。これから先の人生を納得できるものにするためには、自分はいま何を意識したらいいのか。漠然と、わからなくなる。それは狭いのか長いのかわからない、暗闇の空間にいるようで。わからないので、普段いかない街に行ってみた。初めて訪れる飲食店では、ひどく脳が辟易していたのか、あまりチキン南蛮の味がわからなかった。ご飯を食べてなんとな〜くふらついていると、動物園があった。最近動物を見てないなと思って、入
イヤホンがない。ワイヤレスのタイプとか特に 無くしがちで、しぶしぶ新しいものを購入するムーブをこれまでの人生で何度も重ねてきた。物はやっぱり大切にしたい。小さいころ、大人からそう習った気がする。戦時中など貧しい時代を経ての教訓でもあるんだろうなと受け取っていたし、たしかに物に愛着を持つという行為は大事だなと思って生きてきたので、その教えは未だに僕の中に残ってる。でも生きてるとそうも言ってられないことだってあり、部屋に堆積した物たちを断捨離するときなんかは、かなり心が痛い。命が
好きなものがあるとして、それが薄っぺらいものであろうとそうでなかろうと、どっちでもいいよな~と思う。例えば、中身のないありきたりの恋愛ソングも、稚拙な言葉を並べた文章も、本質を追求していけば結局「人の生き方」に帰結すると思っていて、それは僕もあなたたちも毎日行っている生命活動そのものなわけで。そこを否定するのはナンセンスかなと感じる。意義や社会的価値が見出せないものでも、そのコンテンツが好きだと感じるなら、生活のどこかの場面で愛せば良い。 「好きなものが好きな自分」がその人
自分の価値観が変わっていくと、今までぬくぬくと過ごしていた生活の構造そのものが気持ち悪く感じてしまったりする。 でもさらに自身のキャパシティを広くしていくことができれば、その気持ち悪ささえ許容することができて、しまいにはすっかり気にならなくなる。 逆に戻りたくなかった環境にいざ無理やり戻ってみると、案外心地良かったりもする。 自分の気持ちのベクトルや価値観の変動を少しで良いから認知していれたら、生活に対して違和感を感じることが少なくなると思う。
福岡までまだ200kmあるというカーナビの表示に、深夜の高速道路でトホホと笑ってしまう。夜はなんだか思考が深いところに行きやすくて、生きにくい。んでも、自己内省という意味ではディープなところまで思考できるので、そこはありがたい。広島から福岡まで、200kmの道のりを友人と一緒に語り合う中で、脳の構造の話になった。 当たり前だけど、脳の構造は人によって違くて、脳の思考回路によって織りなされる行動、その行動がつくっていく人の人生は、まさしく十人十色なわけで、非常に面白い。脳の構造
木になっている枇杷の実を見て、もっと何かを想像できる人でありたかった。深緑の葉と、黄金色にも似た枇杷の実を見て、例えば詩が書けたなら。 否、もっと丁寧な生き方の中で、道端の花に気づけるような感性であったら、詩も音楽も書けるんだろう。 それは精神状態次第で可能な気がする。 丁寧に生きるには、ある程度自分の機嫌を保っておかなければならないらしい。 丁寧に生きるということは、道端の花も愛おしいと思えることだ。 世界では戦争がおきているのに、芥川龍之介の詩は美しいと思うし、花を愛で
何もわからないね。自分もあなたも。 モデルだって被写体だって作品作りに対してだって何もわかっちゃいない。 イヤになるけど、それでも続けたいと思った。 結論、被写体をする理由、創作をする理由って幸せになるためなんです。簡略的だけど、幸せになるためにしている。 創作・承認欲求を満たして一時的な幸せを得る。 それだけじゃなくて、創作をする中で、自分の感性をブラッシュアップしていけたらいいと思う。 そうすると、日常の小さな幸せに気づきやすくなるから。人生を生きやすくもなる。 「世
騒がしい街だと思う。ただ、とぼとぼと歩いていると、おじいちゃんになったとき僕はどこでなにしてるだろうと気になった。70年くらい先だろうか。今いる街も人も変わっているのかな。咄嗟に僕は目の前の景色を動画に収めた。この動画すら、いつなくなるかわからないのに。この写真すらいつかは。街も友達も親も自分もいつか変わっていくし、いつかなくなってしまう。そもそも自分が生きた形跡すらなくなってしまうのかもしれない。だけどそのとき僕はずっと遠くにいるんだと思う。谷川俊太郎さんの詩「とおく」にも
ありきたりで自慰的な言葉が溢れる世界で、 きっと本質はあるはずで。 それを確立させたいわけではなく そっと知りたい。 尊い人生の糧に少しでもなれば嬉しいから。 それだけのことです。 本を読むのも文章を書くのも、 あえて理由をつけるとしたら そこに帰結するんじゃないかなと思う。 人間は強くて弱い生き物なんだよって、 それは軽薄なんじゃないかと思った。 でも今ならわかるんだけど、 よわい人間だってつよい時はあるし、 つよい人間だってよわい時がある。 だから貴方は、よわくて
意味がわからない形の膨刻も、線を1本描いただけの絵画も、そこに製作者の何かしらの意味が込められているのなら、立派な美術らしい。現代アートの巨匠マルセルの代表作「泉」のように、それがただの便器だったとしても、そこには「力」がこもっている。美術の枠組みにちゃんと当てはまっている。僕が生み出す作品は、美術館に飾られているような作品たちと”あえて“比較するとしたら、やっぱり込められた意味のベクトルの多寡はあるんだろうけど、そこに僕と、共作者(モデルさん・カメラマンさん)の力がこもって
バイトが終わり、賄いを食べて、心地良い疲労感でクタクタになりながら、家のベランダで黄昏るこんな毎日は、いつまで続いてくれるんだろうか。僕の毎日にはほんとうに終わりはあるんだろうか。人間はみんなしぬから、いつか終わりはあるんだと思うけど、僕も街も貴方も、流れる時と一緒に変わっていく。あと何回変われるだろう。あと何度夜を越せるのだろう。そんなどうしようもないことを、夜風にあたりながら考えている。
子供の頃、デパートなんかでもらったヘリウムガス入りの、ふわふわ浮かぶ風船で遊んでいたのを思い出す。そんな大切な風船なのに、空の下でそいつの紐を離したら、二度とまた手にすることなく飛び立ってしまう事実に、子供ながら残酷さみたいなものを見出してしまった記憶がある。 ここまま風船から手を離すと、宇宙までいってしまうような気が本気でした。そんな突拍子もないことをしっかり信じていたあの頃の僕は、必死に風船の紐に縋り付いていた僕らは、ほんとに風船のようにいつのまにかぷかぷかと飛んでいって
「多感」という言葉が、どんどん自分に相応しくなくなる人間たちでも、心揺さぶられるものはいつでもきっとあるはずで。 不可抗力によって感性が閉じこまってしまっても、貴方たちの音楽はどこまでも僕を戻してくれる。貴方たちの様になりたい。 ずっとそう思ってきた。これからも懲りずにそう思うと思う。だから自分を認めてあげることができる。愛せてますよ、ちゃんと。
「思考し過ぎないようにしよう」という思考を している渦中は、どうも脳の働きがうまくいかない。まるで世界がキュビズムに見える様で、抽象的で思い出せない概念だけが脳内を多分巡っている。ムダなものを削ぎ落として、必要最低限の思考だけをする方法がどうも思い出せず、まるでそのプロセスだけが自分の脳内からぽっかり無くなった動物のようでひどく辟易する。思考停止状態で過ぎていく日々に投げやりになろうと、きっとどうでもいい毎日では無いんだろうし、グラデーションの中にある楽観主義と悲観主義の観念
生きる意味を失ったなら、どう生きていけばいいんだろう。生きる意味なんていりませんとかいう言葉の羅列を本とかでたまに見るけど、そういうことじゃねえんだよ。生きる意味を失うということはわたしにとって、生きる気力を失うということで。そんな無気力と喪失感に苛まれながら息をするのは、まさに生き地獄で。何をするにも億劫で、しにたいわけではないけど、生きる意味を呆然と失った傀儡に、果たして希望は残されているのだろうか。未来に希望なんてねえと、まだ、この世界に対して怒れたら。ワンワンと泣き叫