琥珀

大学生/モデル/福岡

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最近の記事

とおくへ

騒がしい街だと思う。ただ、とぼとぼと歩いていると、おじいちゃんになったとき僕はどこでなにしてるだろうと気になった。70年くらい先だろうか。今いる街も人も変わっているのかな。咄嗟に僕は目の前の景色を動画に収めた。この動画すら、いつなくなるかわからないのに。この写真すらいつかは。街も友達も親も自分もいつか変わっていくし、いつかなくなってしまう。そもそも自分が生きた形跡すらなくなってしまうのかもしれない。だけどそのとき僕はずっと遠くにいるんだと思う。谷川俊太郎さんの詩「とおく」にも

    • ありきたりで自慰的な言葉が溢れる世界で、 きっと本質はあるはずで。 それを確立させたいわけではなく そっと知りたい。 尊い人生の糧に少しでもなれば嬉しいから。 それだけのことです。 本を読むのも文章を書くのも、 あえて理由をつけるとしたら そこに帰結するんじゃないかなと思う。 人間は強くて弱い生き物なんだよって、 それは軽薄なんじゃないかと思った。 でも今ならわかるんだけど、 よわい人間だってつよい時はあるし、 つよい人間だってよわい時がある。 だから貴方は、よわくて

      • ぼくらは子ども

        意味がわからない形の膨刻も、線を1本描いただけの絵画も、そこに製作者の何かしらの意味が込められているのなら、立派な美術らしい。現代アートの巨匠マルセルの代表作「泉」のように、それがただの便器だったとしても、そこには「力」がこもっている。美術の枠組みにちゃんと当てはまっている。僕が生み出す作品は、美術館に飾られているような作品たちと”あえて比較する“としたら、やっぱり込められた意味のベクトルの多寡はあるんだろうけど、そこに僕と、共作者(モデルさん・カメラマンさん)の力がこもって

        • おやすみ泣き声

          バイトが終わり、賄いを食べて、心地良い疲労感でクタクタになりながら、家のベランダで黄昏るこんな毎日は、いつまで続いてくれるんだろうか。僕の毎日にはほんとうに終わりはあるんだろうか。人間はみんなしぬから、いつか終わりはあるんだと思うけど、僕も街も貴方も、流れる時と一緒に変わっていく。あと何回変われるだろう。あと何度夜を越せるのだろう。そんなどうしようもないことを、夜風にあたりながら考えている。

        とおくへ

          ぷかぷかとあの空へ

          子供の頃、デパートなんかでもらったヘリウムガス入りの、ふわふわ浮かぶ風船で遊んでいたのを思い出す。そんな大切な風船なのに、空の下でそいつの紐を離したら、二度とまた手にすることなく飛び立ってしまう事実に、子供ながら残酷さみたいなものを見出してしまった記憶がある。 ここまま風船から手を離すと、宇宙までいってしまうような気が本気でした。そんな突拍子もないことをしっかり信じていたあの頃の僕は、必死に風船の紐に縋り付いていた僕らは、ほんとに風船のようにいつのまにかぷかぷかと飛んでいって

          ぷかぷかとあの空へ

          愛せている(たい)

          「多感」という言葉が、どんどん自分に相応しくなくなる人間たちでも、心揺さぶられるものはいつでもきっとあるはずで。 不可抗力によって感性が閉じこまってしまっても、貴方たちの音楽はどこまでも僕を戻してくれる。貴方たちの様になりたい。 ずっとそう思ってきた。これからも懲りずにそう思うと思う。だから自分を認めてあげることができる。愛せてますよ、ちゃんと。

          愛せている(たい)

          こんなことなら、もっと森を駆けていればよかった。

          「思考し過ぎないようにしよう」という思考を している渦中は、どうも脳の働きがうまくいかない。まるで世界がキュビズムに見える様で、抽象的で思い出せない概念だけが脳内を多分巡っている。ムダなものを削ぎ落として、必要最低限の思考だけをする方法がどうも思い出せず、まるでそのプロセスだけが自分の脳内からぽっかり無くなった動物のようでひどく辟易する。思考停止状態で過ぎていく日々に投げやりになろうと、きっとどうでもいい毎日では無いんだろうし、グラデーションの中にある楽観主義と悲観主義の観念

          こんなことなら、もっと森を駆けていればよかった。

          最期の歌

          生きる意味を失ったなら、どう生きていけばいいんだろう。生きる意味なんていりませんとかいう言葉の羅列を本とかでたまに見るけど、そういうことじゃねえんだよ。生きる意味を失うということはわたしにとって、生きる気力を失うということで。そんな無気力と喪失感に苛まれながら息をするのは、まさに生き地獄で。何をするにも億劫で、しにたいわけではないけど、生きる意味を呆然と失った傀儡に、果たして希望は残されているのだろうか。未来に希望なんてねえと、まだ、この世界に対して怒れたら。ワンワンと泣き叫

          最期の歌

          混在

          人の思想、というより私の思想は随分といろんなものや欲が混在しているようで、あれもしたいしこれも叶えたいという類の欲求から、夢、嫌悪、憎しみ、ネガティヴ、知識、勇気などあらゆるものが脳という器を混ぜ駆け巡って大変に騒がしい。せっかくこの世界に生まれたものの、上手く生きれないんだから苦しいね。どっかの隠れ家的なバーでワンワンと感情を流して泣くドラマの登場人物を見たことがあるけど、今日になった今、まさにわたしが余裕でその登場人物になり得そうで深く怖い。どうしたって、彷徨ってしまうね

          大衆とひとり

          この世界の真実なんて知らねぇけど、時間でも出来事でも、何かしらが過ぎ去ったこと、その事実に安堵感を覚えることがある。ちゃんと真実はそのまま真実として過ぎ去ってくれた。僕の人生にそうやってたしかに堆積していくその感覚はなんだか歯痒いけれど、この世界の実体を証明してくれる唯一のものだと思っている。 過ぎ去る情緒も選択も、大衆も恋心も、思い出も芸術も社会もすべて、過ぎ去ったのならそれは真実。

          大衆とひとり

          創作はつづく

          「創作」は個性とか感情をそのまま表現するってのが定説だし、でも批評家エリオットの没個性論なんて、その常識を覆すもので困惑するけど彼のその提唱もそれはそれで納得してしまう。 創り手の個性がでてるのが芸術というのはその通りなんだけど、創作過程における個性表現の立場って案外違うところにある。 人間新しいことを生み出すのに、全て自分の頭の中から絞り出せるわけなく、既にあるものを化合させて新しいものを生み出す。だからゼロから何かを生み出すって苦しいっすよね。 既にこの世界や自分の

          創作はつづく

          心にくるもの

          無から何かを生み出すという工程はやっぱり苦しいものがある。ラディカルに進まない創作活動が億劫になることもある。だけど僕の創作の起爆剤は例に漏れず、ネガティブであったり、心揺さぶられた誰かの何かのインスパイアだったりする。センスのアウトプット欲だったりもする。そのあたりのエネルギーに助けてもらいながら、作品を創り続けたい。もっと、もっと、熱と、高ぶる意志と。孤独じゃなくてもいいから、誰かに助けてもらいながら。 クリエイティブの正解は無いのかもしれないけど、消費される作品だけで

          心にくるもの

          孤独と生活

          わたしはもう強くなったと思っていた。 だけどそれは、人生で起こりうることや、感じることぜんぶをその強さで打ち勝とうなんて、ちっぽけな人間が考える調子のいい妄想だった。 でも確実に人は、強くなれる部分はあって、いつまでも弱い部分があって。だからこそ人間は強くて弱い生き物だという曖昧な文句にひどく納得してしまう。 孤独を感じる時も、俯瞰してみるとほんとうは孤独じゃないのかもしれない。だけど本人が孤独だと感じる以上、それは孤独なんだと思う。手を差し伸べる先もわからず、自分の機嫌の取

          孤独と生活

          ノスタルジックを掴むな

          どこか知らない町にある家の子供部屋とか。 遠く離れた島の、真夏のバス停とか。 雪山の奥地にポツンと建っている明かりの灯ったログハウスとか。 ノスタルジックなものはノスタルジックのままでいい。 そう思う時がある。 自分がロマンチックに感じるもの。 写真を通してそれらに触れることができたら。 とっても素敵なことだなと思う。 幻想は、ある程度幻想のままが、ちょうどいいんだろうな。 ぜんぶを手に入れたらつまらなくなっちゃう気がして。 この写真というツールを使って、自分が好きだと

          ノスタルジックを掴むな

          総括2月

          2月の総括!!いや、あっという間だった。1月はゆっくりだったけど!スケジュールを詰め過ぎてしまったから早く感じたんだと思う!忙しいのはいいんだけど、忙しいを言い訳にして、自己成長の振り返りとか現状の整理とかの思考時間を疎かにしてしまった。心に余裕がなかった。わるいくせ。 
なんだか気持ちも不安定だった。学びたいことや、やりたいことが多過ぎて、変にエネルギーが分散してしまい中途半端になった。あとは、受け取る情報の多さに眩暈がした。
自分が「これをしたい!」ということを確立し、そ

          総括2月

          気持ちよくありたいけどありたくない

          当たり前だけどね、表現というのは自分の中にあるものしか表現できない。そんな見知った事実に、未だに打ちのめされることがある。生まれてから享受されてきた経験の寡多をステータス化するのはナンセンスなことだと分かってはいるけれど、チョコレートパフェをおいしいと感じれるような甘ったるい人生を生きてきた責任なんてのをどうも感じてしまう。あったかい。布団に包まれながらこの文章を書いているけども、布団がこんなにあったかいなんて、感じて、いいのかな。バチは当たらないかな。鳥居とか神社を見るのも

          気持ちよくありたいけどありたくない