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『with -holic』(3)

          〇
 不意に目が覚めた。あたりは真っ暗だが、知っている天井だとわかる。そうだ。自室だ。特に暑くも寒くもないのに、いきなり目が覚めた、ような気がした。
 喉の渇きを感じたので、億劫だが起き上がってキッチンに向かうことを決めた。次第に暗さに目が馴染んできた。踏ん切りをつけるつもりで、掛け布団を足で跳ね除けた。
 上体だけを起こし、床に置いたはずのスリッパを足で探す。ひんやりとした感触の中、生ぬるい温度を指先に感じ、思わず足を引いた。スリッパは諦め、素足で立ち上がると、目の前に元カノの三久が立っていた。その虚ろな目は、もう見慣れたものだった。
「あなたの好みのタイプになって帰ってきたよ」
三久が微笑みながら言うものの、その感情は部屋の暗がりに溶け出している。部屋の闇を三久が全て引き受けているようにも見える。腰を抜かしてベッドに後退ってもおかしくなかったが、立ち上がったその場に突っ立ったままで三久の目を見返す。
「俺の好みのタイプ?」
「全部わかってるんだから」
「俺だってわかってないのに」
不思議と、会話には緊張も怯えもなかった。
「私にはわかるんだって。それに、ホントにわかってないのかな?」
笑顔で語りかけてくる。色を失った瞳の全く動かないその笑顔は、今でもトラウマとしてラベリングされている。脳が起き始めたのか、そのラベルが貼られた記憶が、引き出しの一番上に再び戻ってきた。
 暗闇でも、目はもう慣れきっている。その中で三久の輪郭はハッキリしているのに、視線を捉えることができない。三久は俺を見ているのか。俺は三久を見ているのか。 また夢を見ているのか? …また・・
「どんな女に会おうとしても、全っ部お前が来る」
「私も会いに行ってるけど、あなたも会いに来てるじゃない」
「物は言いようだな」
「人の数だけね」
「嫌というほど過ごしたのに、夢にまで見て…。そんで今、目が覚めたら部屋にお前が居る。ここまできたらもう、現実でも夢でもどっちでもいい。…どうでもいい」
「覚めなければいいのに」
「…もういい。夢の中で、頭の中ぐちゃぐちゃになりながら叫んでた」
「何を?」
訊ねる三久の横を抜け、部屋を出る。案の定暗いが、電気を点けないでも歩ける。体に沁みこんだ感覚に従って、玄関を目指す。ずっと逃げて来たような気がする。追い立てられて、空を掻いて。でも少しだけ、後ろ髪を引かれるような気持ちもある。
 なんとなく三久の所在が気になり後ろを見る。さっきの輪郭は溶けてしまったのか、廊下に立っているのかどうかさえ怪しく見える。こんなにも気にしなければいけないなんて。何もかも不服だ。なんだってここまで三久に付き纏われなければならない。この世に三久しかいないわけじゃない。だというのに。
「いつまで逃げるんだ。…いつまで追うんだ」
 ドアを開けると、時間の止まった夜空の中心に月が映えている。サンダルをつっかけて廊下を進む。階段を上る。足を離した後ろの段にガラス質のものが落ちて割れる音がした。このマンション全体に音が響いているような気がした。
 ふと見た手には、汗がにじんでいた。その手を閉じて振り返ると、上から差し込む月明りで、階段が琥珀色にヌラヌラと湿っているのがわかった。自分の足跡からいい香りがする。
 既にそれなりに上ってきたので、軽く肩で息をしている。大きく息を吐き出しながら、最後の一段を終えた。
 屋上に設置されている白く塗り立てられた柵に手をかけ、街を眺める。後ろに気配を感じたので振り返ると、階段からすぐの所に、三久が立っていた。暗くて細かな様子まではわからない。ただなんとなく、こちらを見ているのだろうとはわかる。
「どんなのでも、誰でもいいんだ?」
「お前じゃなければ…」
 夢であってほしいと思うのも飽きた。お前じゃ、三久じゃなければ。なければ、何なのだ?
「なんでこんなこと…。なんで、俺なんだ。どうすりゃいい…」
 片手に握っていた瓶が、手から滑り落ちる。しばらくして、下の方から甲高く少し水っぽい音がした。下を覗き込むと、そこには三久の目があった。暗くて黒くて、空っぽだった。
「わかってるくせに、全部」
 少し風が吹いた気がした。体全体で風を切りながら、白い柵が遠く離れていくのを見上げる。
「チェンジだ、チェンジ、こんなの、要らない」
 全くもって、結構だ。

        (完)

inspired by 「デリヘル呼んだら君が来た」/ナナホシ管弦楽団 https://www.youtube.com/watch?v=YVFkEsuwAWc

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