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#4 母との会話。45年間の誤解。

喫茶店までの5分間で溢れてきた思い、それを理解し整理した内容の一部を母に話した。その中には幼少期のこと、どんな状況で誰にどんな言葉を投げかけられたか、どんな話をしたかという点にも触れた。


それを聞いた母は、私の記憶力に驚いていた。
そして、「そういうところが人と違っていたのね」と呟いた。


母曰く、母が思う普通の人たちは、過去の出来事をそこまで詳しく覚えていられないらしい。また、1年前に私が帰国してからいろいろな話をした時のことを思い返し、母は私の話し方が、そこに疑問や言葉を挟む余地がないほどに理路整然としていて驚いたと言っていた。


母の記憶にある私の話し方とはずいぶん変わったと言う点も、驚きの理由の一つだったように思う。実際に、私の話し方は以前と異なっていた。

子供の頃から「年相応に。変に目立たないように。生意気と言われないように」話し方を加減していたからだ。

小学3年生の頃、遠方に住む親戚からの電話を受けた時に「高校生かと思った」と驚かれたことがある。頑張って大人びた話し方をしていたわけではなかった。しかし、9歳である私と高校生のような話ぶりのギャップは、確かに人にチグハグな印象を与えることは容易に予想がついた。そのため、それ以降は自分なりに小学生らしい話し方するように努めた。それは、20代、30代でも続いた。生意気と思われないように。変な誤解を与えないように。一般社会が期待する年相応の振る舞いから逸脱しないように。頭が悪い子供としての親に対する話し方もずっと心がけていた。それが実際にはどれほどの効力があったのかはわからないし、やっぱり生意気だと思われていたのかも知れない。しかし、流石に40歳を超えたら「40代女性の話し方」の定義なんてものはおそらく存在せず、もうそんなパターンに当て嵌めなくてもいいだろうと長年のストッパーを外したのだ。

(厳密にいうと、ストッパーを外したのは年齢的なことだけではなく、自己肯定感が以前よりも育まれたという理由もある。これについてはまた別の機会に。)




私は、「頭が悪い」という認識でこれまの人生を過ごしてきた。頭が悪いのだから、記憶力だって平均以下なのだろうと思っていた。それなのに、母は私の記憶力に驚いたという。驚いたのは私の方だ。この会話から、新たにいろいろな記憶が蘇ってきた。それは大きな発見につながっていった。




例えば、友達と話をした時のこと。

友達と会った時に前回と同じ話になっても、多くの人はその内容を覚えていないことが多かった。それがどんなに内容が深く、その時の双方にとって大切な話であっても、だ。そのことに、私は毎回静かに傷ついていた。記憶力が悪い私ですら覚えていることを、なんでこの人たちは覚えていないのだろう。私との話は、記憶するのに値しないほどのことだということなのだろうか。私との会話や時間とはその程度のものだということなのだろうか、と。そして次に会ったときには、結局はまた同じ話を繰り返すことになんとも言えぬ気持ちになることが何度もあった。私の存在はこの人たちにとってその程度なんだなと馬鹿にされているように感じたこともあった。

他にも、自分の発言や提案は受け入れられなかったのに、少し時間が経って彼らの理解が進んだときに別の人が同じことを言うと皆その人に同調する…と言う経験も一度や二度ではなかった。私はそれを、私が嫌われているからなのだと思っていた。



しかし…

もしそれが、性格の良い悪いや悪意のあるなしではなく、ただ純粋にその人たちが覚えていなかったとしたら。特定の物事を理解するのに、多くの人が場合によっては年単位での時間が必要になることが普通だったとしたら。そもそも、彼らは会話やコミュニケーションに私ほど重きを置いていなかったとしたら。




この気づきに伴い、別の経験も思い出された。

私は、地元で短大を卒業後、他府県のある有名大学に編入学した(この時は、人生を変えるつもりでそれはもう必死で勉強した)。
ここで出会った人たちは、会話の内容を忘れたり、論点がずれていくと言うことがほとんどなかった。話題を選ぶ必要もなかった。恋愛から政治経済、国際問題まで何でもござれであった。私の人生において、会話をこんなに楽しいと思ったことはなかった。これは私にとっては大きな衝撃だった。世の中にこんな人たちが存在していただなんて!

嫌がらせや仲間はずれもないし、人の意見を横取りして我が物顔で発表したり、大切な内容を忘れたりもしない。人を馬鹿にするような態度も取らない。彼らの頭の良さは当然のこととして、彼らとの関係で感じる居心地の良さの理由を私は「彼らの性格の良さによるもの」であると結論づけていた。

実際に、生まれてからの20年間で幾度となく経験してきた人間関係の面倒臭さや難しさは、編入先の大学ではほとんどなかった。会話の内容を忘れることも少ないし、人の意見には真摯に耳を傾けるし、人の意見を拝借する時にはしっかりとそのことに言及することも忘れず、礼節を弁えている人たちが多かった。そんなタイプの人たちに出会ったことがなかった私には(どんな環境で育ってきたのだと逆に驚かれそうですが…苦笑)、これまで経験してきた人間関係と彼らとのギャップが大きすぎて、「性格の良さ」に圧倒されたのだと思う。しかし今になって少し違う角度から思い返してみると、育ちの良さや性格が良さや、そして単に高校までの成績が良かったという紋切り型の賢さではなく、おそらく彼らは記憶力や思考・言語能力や情報処理能力なども優れていたし、知的好奇心も相当に強かったのだと思う。

当時の私は、憧れていた大学に入れたものの、自身の能力はその学部の底辺ギリギリだと思い込んでいたので、まさか「周囲の人々との知性のギャップがこれまでの環境よりも少なかったから」という観点は全く持ち合わせていなかった。

私にとっての居心地の良さやコミュニケーションのスムーズさは、性格の良さだけでなく、彼らの高い知性によるものだったのかも知れなかった。


(ちなみに、大学卒業後は親の意向に従い地元に戻り、結局かつてと同じような苦しみを繰り返すことになる…。苦笑)



これらを振り返ってみると、私はもしかしたら傷つく必要のないことに深く傷つき、それが自信のなさに拍車をかけるというスパイラルを何十年も続けてきたのかも知れなかったことに気づいた。



この時の気づきは、その後の人間関係の築き方や人への接し方に大きく影響を与えることになった。




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