『お気持ち』暴論の迷惑性

現代文でよく小問で聞かれたことを思い出して欲しい。登場人物の感情,場面の事実,これらは全く別物であったことを覚えている人間が実際どれだけ居るだろう。

さて,前置きなど要らない。私が嫌いなものはいくつかあるが,そのうちの大きな部類に『感情』と『事実』を混同する人間ないしはその類の話が挙げられる。

分かりやすく言えば『相談』と言いながら本質は『愚痴』だとか,『解決策』を求めている体を装いながら聞き手の『共感』待ちだとかだ。擬態だ。罠だ。偽装罪に問われて欲しい。

この手の場合,全く話し手は聞き手の立場を考慮していないと言える。会話や建設的な議論というのは相手ありきであることをどうして忘れてしまうのか。相手の時間と労力を頂戴していることを忘れてしまってはいないか。結局,その対話に何を求めているのかを自らが分かっていないまま話を続けた挙句,『あなたは何も分かってない』と拗ねる大人の多いこと,多いこと。これぞまさにお気持ち暴論だ。

もちろん,他愛のない話というのはあるがこれに於いて会話のゴールは決して必要はない。がしかし,今回話題に挙げているのは『聞いて欲しい』と持ち込んで相手の時間と真剣な対応を頂戴した結果,勝手に落胆しては相手が悪いと憤るのは大変身勝手かつ非常識であるとハッキリ申し上げたい。

また,『察し』の文化についても言及しておかなければならない。決して『察し』を否定する訳ではなく,むしろ一定の距離感においてお気持ちを直接的に伝えることがマイナスに働きかねない場面で有効であり,関係に円滑性を持たせる効果がある。しかし恐ろしいことに,私たちは常に相手が自分のお気持ちを察してくれると誤解しがちである。そう誤解したまま,察してもらえなかった場合に憤ったりもする。なにせ,『察し』の能力は個人差が大きい上,状況や非言語コミュニケーションの条件次第が発揮されるかどうかに関わる。そんな環境依存性のスキルに強力に頼るなんて,明らかに不毛である。意図的な婉曲を理解できない相手側に非があるわけではなく,相手に十分に伝えられなかった話者の問題だ。実際『私はこういう感情です』という事実を伝えたら案外すぐに理解されて済む場合もあるわけで,『察し』て分かってもらおうと唸るよりよほど良い。『察し』ありきの,前提としたコミュニケーションは絶対に健全ではない。

ともかく,私が会話において長く気をつけていることをここに書き留めておく。

❶『相談』を持ちかけるとき,『解決策』を求めている旨を伝える。また『愚痴』であれば『聞いて欲しいんだけど』と言って,『共感』あるいは『同情』を求めている旨を伝える。

❷相手に説明するとき,『事実』とそれに対する『解釈』と想起された自らの『感情』をハッキリと分けて伝える。ただしこの場合,事実に主観性が含まれることの考慮は自由である。

❸『あなたを信頼していて,私はあなたの意見を聞きたい』という意思を伝える。この対話に意味と価値があることを示す。


簡単な意識付けであるが,これだけで大きく変わるはずだ。

なお以前彼氏と議論(喧嘩?)した際,違う話題に逸れて無駄な流血と口論を避けたいため,建設的な意見交換を意識しながら進めた結果,『なんで恋人間でこんな理系的なディスカッションをしなければならないんだ』と冷められた私だがむしろ感謝して欲しいと思っている。というかそもそも理系的だとか文系的だとかに関わらず,『論理的』な思考を身に付けていないことは非常にヤバいのだ。生産性のない議論が多くの時間と労力を奪った挙句に何の結果も得られないことを,どうして真似できようか。

議論をするということはつまり答えを共に見つけるという共同作業であって,お互いの主張の中に妥協点を探り当てる行為であるのに,これを感情的なエネルギーの衝突で掘り当てられる訳がない。けれども感情は決して無視できず尊重し合うべきであるから,それはそれで状況に則して考慮すべきであって,ここで現実問題と混同してはむしろ事態を悪化させるだけである。

と,ここまで書いたのも母親がそういう混同型で長時間の口論を何度重ねても無意味であることに気付かないために永遠に苦労中だ。然るところ,愚痴である。ああ,野暮だ…

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