モーニンググローリー(仮) 第1部
イギリス・ロンドン
第1話
ロンドンの朝に雨はよく似合うと思う。
目覚まし時計の音がけたたましく月曜日の到来を告げる。右腕だけを伸ばし、いつものように止めた。あくびをしてから、朝の支度にとりかかる。日本にいるはずの俺の母親という女性が、窓際のフォトスタンドの中から微笑みかけている。
今日も明日も明後日も、昨日と何も変わらない日が始まる。この先の俺の人生はずっと同じことの繰り返しだと思うと、みぞうちがずくんと重くなる。リモコンひと押しで、売れないコメディアンが料理に挑戦するくだらないモーニングショーがテレビから流れてくる。
俺の目の前には日常と言う名の螺旋階段がある。首が痛くなるほど見上げてもキリがないそれを、ひたすら俺は昇り続けるしかない。生きるためには仕方がないこと、それだけをただ与えられたままやるしかない。俺は利口な男だ。世の中の仕組みを理解するには充分に賢いと思っている。しかし、俺の中にある本能は違うと叫ぶ。今すぐに俺はここから飛び降りたい。普段と代わり映えのない日常からはみ出し、誰も俺のことを知らない場所へ走りたい。俺は自由が欲しいだけなのだ。
俺はこんなところで終わる人間じゃない。与えられた仕事をこなし、ひたすら同じ日常を繰り返し、ただたた虚しく老いていく。俺はそんなつまらない人間じゃないはずだ。俺にしかできないモノ、俺だけを求めている人間は必ずこの世のどこかにある。今はただ、見付かっていないだけだ。きっと……。
冷蔵庫の在り合わせで腹を満たす。クロワッサンとハム。またいつものメニュー。出勤までだいぶ時間がある。俺は紅茶を淹れた。品の良い、さりげない香りが俺をメランコリックな物想いにいざなう。
明日、世界が滅亡すればいいのにと、わりと本気で思う。天災はどんな人間にも平等に降りかかる。誰のせいでもない。誰も恨みっこなし。
こんな普通の日々が永遠と続くと思うと、気が狂いそうになる。いっそのこと神様でも仏様でも何でもいいから、大きな力を持った誰かにこのつまらない世界を終わらせてほしい。外ではいつものように雨が降っていた。
第2話
哀しい真実だった。俺は自分が凡庸な男と気付くのに時間がかかった。俺の人生でたった一度だけ、これだけは譲れないと思える物があった。俺は歌が好きだった。ローリングストーンズやビートルズ、オアシス。彼らの作る曲は最高だった。まだ少年だった俺は彼らの新譜が発表されるたびにレコードショップへ駆け込み、貪るように買い求めた。レコード代のために食事を抜いても苦ではなかった。とにかく手当たり次第に聴いた。そしてゴミ捨て場から拾ってきたぼろっちいギターを片手に、あやふやなコードで歌った。演奏の出来は決して良いとは言えなかったが、歌っているときは最高にハイな気分だった。
ギターのコードをほとんど覚えた頃、俺は煙草のヤニくさいパブの片隅で流しを始めた。安っぽいジンとフィッシュアンドチップスが唯一の売りのその店は決して流行っているとは言えないが、週末の夜はほどほどに混んだ。およそ「ロンドンの善良な市民」とは思えない連中が、腕一面に掘られた悪趣味なタトゥーを見せびらかしにやってきていた。俺は奴らに言われるままに、ビートルズを弾いた。しくじると、すかさずコロナビールの空き瓶が俺の頭めがけて飛んできた。その一方で、最高のプレーをすれば拍手で称賛してくれた。いかついスキンヘッド、頭の悪そうな若い女、ジンをあおる老人、目の焦点が合わない男。こいつらが愛すべき俺のオーディエンス。
奴らは俺の演奏が気に入ると、必ずトイレに誘う。そして、魔法の粉をプレゼントしてくれる。そいつをおもむろに吸い込めば、どこにいようが俺はたちまち宇宙の果てに飛んでいける。
俺は自由だ。誰にも邪魔されない。俺は最高に無敵な気分だ。きっと今なら誰に何をされても死なない。俺の精神は、肉体は輝いて地球を明るく照らす。アメリカのレストランで一キログラムのビーフステーキにかぶり付く親父も、アフリカの集落で指をくわえる子供もまんべんなく照らす。全てを白日にさらすとはこのことだ。この矛盾ばかりの世の中をあぶり出してやる。現実がいかにゴミに溢れた下らない世界かをお前らに教えてやる。俺はさらに高みへと昇ってゆく。お前らに真実を、この世の厳しさを、思い知らせてやる。よく見ておけ。目をそらすなよ。今まで俺の存在を無視してきた人間を、俺を捨てて逃げた人間を全員見返してやるんだ。俺を嘲笑ったあいつらが猿のごとく交尾に夢中になっているところを暴いて、全地球上の人間に知らせてやる。ざまあみろ。
俺は高笑いした。俺には見える。俺には分かる。あいつらの顔が、たちまち真っ赤になって行く様が。そうかと思えば次の瞬間に真っ青になり、泡を吹いて崩れ落ちる様が。俺には聞こえる。地球上に生息する全生物から発せられた称賛の声が。
「よくやった」
「お前はヒーローだ」
「お前は誰の手にも負えなかった偉業をやってのけたのだ」
怠け者も、兵隊も、アメンボも、口々に俺を讃える。彼らから発せられる割れんばかりの拍手喝采が俺に向けられる。その音が宇宙いっぱいに響き渡ってぱちんと音がして宇宙が壊れる。俺は飛んでいられなくなり、とんでもない速さでたちまち地球に落ちてゆく。雲を突き抜け、テムズ川の濁った水面が光り、ビッグベンのとんがりが次第に見え、ゴミに溢れた地面が俺の鼻先に迫る。
そこで俺はいつも目が覚める。気づくと俺はまたいつもの殺人的に平凡な日常に戻っている。ここにきて初めて俺は涙を流す。ふと、日本という国はどんな形をしていたか思い出そうとしたが、思い出せなかった。
第3話
ロンドン市内の小さなビルに、俺がシステムエンジニアとして働くオフィスがある。尻が痛くなるくらい椅子に一日じゅう座り、パソコンに向かってプログラム処理をし続ける。
馬鹿な息子が場末のバーでギターを弾き、魔法の粉でハイになっていた頃、エンジニアだった父はこのオフィスで黙々と働いていた。
俺は長い間、彼のパーソナリティーについて、ただの無愛想で勤勉な男だと思っていた。週六日、不規則なローテーションで単調な作業に没頭し、帰りにはスーパーマーケットで売れ残りのケーキを家族に買って帰る。休日には愛犬を膝に乗せてテレビを観るのが唯一の楽しみで、平凡だが家族を愛する穏やかな性格の男だった。
母が精神に異常をきたしてから、俺たち家族の生活は一変した。
母は留学時代に父と出逢い、結婚してロンドンに住んだ。学生時代から、日本とあまりに違うイギリスの暮らしに母はうまく馴染めていなかった。根が素直で真面目ではあるが、要領が悪く決して器用ではなかった。
彼女はロンドンの街はごみに溢れ、人々は部屋を土足で歩き回り不潔だと顔をゆがめた。父は異邦人特有のノスタルジーな感情だろうと、当初は特に気にしていなかった。時間が経てばそのうち収まると楽観的に受け止めていたのだ。
しかし彼の予想も空しく、母の症状は年々悪化し続けた。彼女のヒステリーは回を追うごとに過激になり、しまいには「イギリス人は信用できない、私を指差して全員で嘲笑っている、もう道を歩きたくない」と泣き出す始末だった。俺が小学校にあがる頃には、母はこの世に生きる人間とはかけ離れた、狂気に満ちた化け物へと変わっていた。
父がこんな極端に神経質で潔癖な日本人女となぜ付き合う気になったのかと聞いたことがあった。敬愛するビートルズのジョン・レノンがオノ・ヨーコと結婚して、俺も日本人の女に興味を持ったからだという答えだった。あの寡黙で地味な男がこんなミーハーな理由で母を選んだというのだから驚いた。
壊れていく自分の妻に成す術も無く戸惑うばかりの父親だった。彼女を然るべき施設に受診させるにも、本人が自身の正常であることを主張し、なかなか首を縦に振らなかった。
「私はまともだ、おかしいのはお前らだ。私を狂人扱いして楽しんでいるのか」
彼女の被害妄想に俺と親父は根気よく付き合わなければならなかった。
「分かったぞ。お前らの真の姿は英国から雇われたスパイで、私を監視するためにビッグベン地下の秘密基地に連れ込むつもりだな」
遂に俺達をジェームスボンド顔負けのスパイと決めつけ、一緒に暮らしているのに部屋中を漁って盗聴器を探し始めた。被害妄想もここまで奇想天外な内容だと笑うしかない。
「私を監視しても無駄だ、変装していてもお見通しだ! お前らは本当の家族じゃない」
俺達は上気してまくし立てる彼女をいつまでも無言で見つめていた。
第4話
父親が母を殴ったのは、それからさほど経たない頃だった。
俺が小学校から帰ると、翳りゆく部屋の中で丸く佇む大きな塊を見た。次に生臭い血の匂いが俺の鼻をかすめてきた。一瞬で俺は全てを悟った。口から飛び出るかと思うくらい心臓が跳ね上がった。その塊は二人の人間だった。男の顔には無数の切り傷が刻まれ、血にぬれた腕には女が抱かれていた。二人のそばには包丁が鈍い色を放って転がっていた。
頭に響く悪魔の声に耐えられなくなった母は、俺の父を包丁で刺し殺そうとした。もはや冷静さを失った母は悪魔のささやきに従順してしまった。
「その男を殺せ。その男がお前を苦しめる」
包丁を振りかざす自分の妻に父は説得を試みたが無駄だった。抵抗むなしく壁際に追い詰められた父は本能的に彼女を思い切り殴った。小柄な母は衝撃で吹き飛ばされて向かいの壁にその身を打ち付けた。
しばしの静寂が流れた。
どのくらい時間が経っただろう。
自分の口からむせび泣く声が聞こえてきた。
「どうして。どうして」
父は泣いた。
うずくまる女はもはや自分がかつて愛した妻では無かった。ありもしない妄想に取りつかれ、自分を殺そうとするケモノとなり下がった。しかし彼はずっとずっと残酷な真実を信じたくなかった。信じられずにいた。四つん這いで倒れた妻のそばに行き、彼女を抱きしめながらいつまでも泣いていた。出逢った頃、自分が夢中になった可愛い女が精神の死を迎えたのだと、ようやく彼は理解した。
俺は男と女は自分の父と母でありながら、もはやこの世の存在ではないと感じた。二人は渾然一体となって闇と同化し、やがては消えてゆく気がした。
第5話
「お先に失礼します」
後ろから響く声に俺は我に返った。時計を見ると既に五時だった。どのくらい物想いにふけっていたのだろう。パソコンのモニターにはうっすらと三十代半ばの皮膚がくすみ髪の毛もくたびれた男が映っていた。一目で覇気の無い表情をしているな、と分かる。
「先輩、お疲れ様です」
声の主が俺に帰宅の挨拶をした。ゆっくりと俺は振り返る。デーモンが怪訝そうな顔をしてデスクの横に立っていた。俺よりずっと若く、数ヶ月前に業務経験者として採用された男だった。デーモンは右手に仕事用バッグを抱え、左手にピンク色のリボンでラッピングされたプレゼントを持って今にも走り出したい様子でいた。
俺が振り向いたのを確認すると、デーモンは口の端だけを上へ吊りあげた。愛想笑いのつもりだろうが、いつも目だけは笑っていない、この中途半端な表情が俺を不快にさせた。
デーモンは昼休みに女子社員が噂するくらい端正な顔立ちをした男だった。バラ色の頬にすべすべした肌と薄い金髪は陶器で造られた人形を連想させ、神秘的ですらあった。社内での評判とは裏腹に、俺は以前からこの男の狡猾な笑みが嫌いだった。この男はいつもそうだ。『みなまで言わせるな。俺は大事な約束があるから急いでいるんだ』こいつの考えはさしずめこんなところだ。自分から事情は話さず、いつも周りが察することを求めている。
後から入ってきたくせに、すこし仕事ができるくらいで調子に乗るな。
「おい、デーモン」
小走りでオフィスを去ろうとするデーモンを俺は立ちあがって呼びとめた。奴は制止されるのがさも意外であるという風にドアの前で止まった。
「お前、たまにはもう少し遅く退社したらどうなんだ。ここにいる連中はお前より入社が早い先輩ばかりだぞ。彼らを差し置いて下っ端のお前が定時上がりで女とデートか。職場をなめんじゃねぇぞ」
俺は努めて冷静に話したつもりだが予想外に声が大きく、同僚や上司たちの動きが止まってしまったくらいだった。突如として始まったきな臭い説教ムードにオフィスはしーんと静まりかえった。その場の全員が息をひそめ、好奇心に目を丸くして俺とデーモンの様子をうかがっている。
予期せぬ展開にデーモンは一瞬だけ顔がこわばったように見えた。が、しかし、この小癪な後輩は余裕の笑みを浮かべ、ゆったりとした動作で身体を俺の方に向けた。そして口を開いた。
「僕は本日の業務を就業時間内に全て終わらせたため定時に退社しているだけです」
「そういうことを言ってるんじゃない。気持ちの問題だ。一番後輩なんだから、予定より早く仕事が終わったら他の人間の仕事を手伝ったりしたらどうなんだ。そういう気遣いもできないのか」
「それも、終わりました」
デーモンはそう言って、奥のデスクに座る人物に目くばせした。俺の同期のアレックスだった。アレックスは俺と目が合うとバツが悪そうにファイルで顔を隠した。
「あいつ……」
俺はひそかに舌打ちをした。デーモンは勝ち誇った様子でふふんと笑うとこう続けた。
「僕の退社がいつも早いのは、僕の仕事が正確で早いからです。ご自分のお仕事のペースがゆったりされているからといって、八つ当たりは勘弁して下さい」
デーモンが言い終わるや否や、あちこちからどっと笑いが起こった。アレックスの頭上に乗せたファイルが小刻みに揺れている。上司の咳払いでようやく笑い声は収まった。
憎たらしい後輩は意気揚々とドアを開けて帰って行った。去り際に奴の目が俺をとらえた。スカイブルーの瞳に嘲笑と軽蔑の色が浮かんでいた。
小賢しい、減らず口野郎め。
屈辱感が全身を駆け巡り、俺の身体をわなわなと震わせた。一部始終を楽しんだヤジ馬どもは何事もなかったように業務を再開し始めた。
「あのやろう……」
俺はそばにあったゴミ箱をおもむろに蹴飛ばした。あたりに紙くずが散乱したが、構わずに俺は休憩室へのドアノブを掴んで壊れるくらい強く閉めた。俺を採用した上司が禿げあがった頭を抱えてうなだれる様子が背後から伝わってきた。
東京の夏は思っていたより雨が多い。
中野のアパートに帰宅した俺は電気を点けながらそう思った。しとしとと降る雨の音が聴こえる。そろそろ本格的なレインブーツを用意するべきだ。気づけば真夏の気配がすぐそばまで来ていた。
デーモンとの一件があって、しばらくして俺はシステムエンジニアの仕事を辞めた。俺を採用した上司に退職の旨を伝えに行くと、拍子抜けするほどすんなりとそれを受け入れてくれた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
俺はそう言って頭を下げた。
「そうか。今までごくろうさん」
当たり障りの無い労いの言葉の後で、上司は目を伏せてしばらく沈黙し、やがてぽつりと聞いた。
「お父さんはその後、ご健在かい?」
不意を突かれたような気持ちになり、頭を上げた。
「私から君のお父さんによろしくと、一度でいいから伝えておいてくれ」
俺は、禿げあがった上司の頭部をぼんやりと眺めた。
第6話
労働者階級出身のミュージシャンの歌詞には、驚くほどに酒や煙草がよく出てくる。例えば俺が敬愛するオアシスも『シガレット&アルコール』というそのモノずばりの曲を作っている。
二十七歳の若さで急逝したエイミー・ワインハウスの出世作『リハブ』も俺の好きな歌だ。主人公の女がアルコールや薬物中毒者を更生させるリハビリ施設、通称「リハブ」から逃げ出したい胸の内を吐露した曲だった。
「私はまともよ」
「こんなの時間のムダ。私には必要ない」
九十年代、イギリス全土を席巻したブリットポップ・ムーブメントのさなか、多感な少年の俺はふと疑問に思った。なぜこんなにもイギリスの労働者階級の人間は酒や煙草に頼るようになるのだろうか。
「現実から逃げ出したくなるからだよ」
ある日の休日の夕方、愛犬のベスを膝の上でなでながら親父はそう教えてくれた。
「俺はロンドンの中流階級で生まれ育ったが、マンチェスター出身の友人を何人も知ってる。奴らは皆、自分の人生に希望を見いだせないでいる。働いても、得られる物はたかが知れている。無意識のうちに諦念を抱いているんだろう」
俺はこんなに饒舌に語る父親を目の前にして仰天した。珍しいこともあるもんだと思った。
親父は戸棚から一枚のコピー紙を取り出し、俺に見せてくれた。古い版画の模造品で、描かれていたのはこの世の地獄みたいな混沌とした世界だった。背景の建物は崩壊寸前で、その前で大勢の人々が何かをしている。棺桶を担ぐ男。鍋を差し出す夫婦。それをルーペで鑑別する、おそらく質屋と思われる男。彼らの手前では暴徒と化した群衆が酒屋を襲い、その傍らでは、あろうことか幼女が二人で盃を掲げている。
絵のなかでもひときわ目立つのが最も手前に位置する女だ。階段に座り、何やら嗅ぎ煙草のようなものを嗅いでいる。とろんとした表情は見るからに理性を失い、彼女の腕から子供が階段下に転落していく様子にも気付かない。この絵のなかで最もぞっとする人物だ。
「これは十九世紀ロンドンの下町を描いた風刺画だよ」
すっかり青ざめて表情が引きつった俺に親父はそう教えてくれた。
「絵に登場する彼らは第二次エンクロージャーで土地を地主に奪われ、仕事を求めてロンドンにやってきた元小作人たちだ。時代は産業革命の真っ最中で、彼らは法外に安い賃金でこき使われた。過労で身体を壊せば、工場主からボロ雑布のように捨てられる。ホワイトチャペルみたいな下町には働けなくなった失業者が溢れ、彼らは浮世の辛さを忘れるために安いジンを浴びるほどかっくらい、辛い現実から逃げようとした」
過労死した人間を運ぶ葬儀屋、ジンの金を調達するために日用品を質に入れる夫婦、お金が無くてやむなく酒屋を襲撃するアルコール中毒者による暴徒。そして、酒と煙草で廃人寸前となってしまった売春婦と、そのために墜落するその赤ん坊。さらに注意して見れば、幼児にジンを飲ませる女や、質の悪い酒に失明して倒れた兵士までいた。
なんて気味の悪い絵だ。この絵のモデルの街が、自分が生まれ育ったロンドンのかつての姿だったなんて。俺にはにわかに信じられなかった。しかし、俺の絶望的な気持ちとは裏腹に親父は衝撃的な事実を告げた。
「これは昔話なんかじゃない。二百年前と今、ロンドンで起こっている出来事は何ひとつ変っちゃいないんだよ」
街には失業者が溢れ、犯罪が横行しロンドン市内の治安は悪化。低所得者が暮らす下町ではスリや強盗が日常化し、女性の夜間の独り歩きなんてとてもできない。
一八八八年、イギリス全土を震撼させた切り裂きジャックが現代に蘇り、ホワイトチャペルを闊歩していてもおかしくない。
過酷な現実を束の間でも忘れるため、人々は酒をあおりクスリを手に入れ、最後は前述した更生施設・通称「リハブ」のお世話になる。
「お前は、こんな時代だからこそ自分の信念に従って生きなさい。世の中や他人がどうであれ、お前が正しいと思うことに集中し、それに真剣に取り組みなさい。そうすればきっとうまくいく」
モスグリーンの瞳にはっきりと聡明さを宿らせていた中年の男は、俺に確かにそう言ったんだ。
幼い俺に大事なことを伝えてくれた親父。数年後に彼がリハブの住人になるとは、少年の俺も、この時の彼自身にも予想できなかっただろう。
第7話
今夜はハイドパークで大きな野外音楽フェスがある。俺の好きなバンドも出演するので興味はあったが、チケットは瞬く間に売り切れてしまった。運よくチケットを手に入れたであろう、ハイスクール帰りの少女たちがお揃いのタオルを手にして小走りで大通りを駆けて行く。
オフィスを出てから、一時間くらい俺はぼんやりと歩いていた。大慌てで走る女子高生と肩がぶつかる。衝撃と鈍痛で俺の思考がようやく現代に戻ってきた。少女たちは俺にぶつかったことなど気に留める様子もなく、中年まで一歩手前のくたびれた男を後に残して去っていった。ふいに頬に冷たい感触があった。雨だ。顔を上げると曇天の遠くに光の輪がかすかに見えた。何の予定も無い俺はそこに行ってみることにした。
自分の両親がこの世の存在ではなくなったと感じたあの日。ほどなくして二人は別れた。
母は日本の両親に引き取られ帰国した。その後音信不通となり、現在は行方が分からない。どこにいて、何をしているのか。元気に暮らしているのか。それともまだ生きているのかもさっぱり解らない。
小学生の俺は父と二人で暮らした。俺が中学に上がる頃、父は古い友人の勧めで一度再婚したが、長く続かなかった。寡黙な男は時折見せる饒舌さも影を潜め、何も話さなくなり、代わりに以前より酒を飲む機会が増えた。思えば、彼は自分自身をずっと責めていたのだろう。
「俺は幸せになってはいけない人間なんだ」
空いた無数のウォッカの瓶と、こんな後ろ暗い口癖だけがアパートメントの床に転がった。
光の輪の正体はロンドンアイだった。単なる観覧車だが、その形状が人間の目に似ているため「ロンドンアイ(ロンドンの瞳)」と名付けられた。
世界的都市ロンドンに突如として生まれた巨大な瞳。
「こいつに嫌われると瞳から発射する熱ビームで黒こげにされちまう。だから良い子にしてるんだよ」
三歳の頃、親父にそう脅された記憶が蘇る。俺は券売機で切符を購入して係員に渡し、おもむろに観覧車内に滑り込んだ。
第8話
俺の容姿は日本人である母親に似ている。正確に言うと年齢を重ねるごとに瞳は濃い茶色に変色し、亜麻色だった髪の毛も黒みがかりどんどん似てきた。幼稚園の同級生と比べても東洋人特有の平べったい顔立ちをしていた。俺はよくクラスのガキ大将に「アジアンの子供」として園でからかわれた。
まだ純粋な心を持っていた五歳の俺は、クラスの連中にそのせいで除け者にされようが、自分の東洋人的な容貌に不満を持っていなかった。不満どころか、俺が母親に似ていることで家族との絆が繋がっているように感じていた。
頭のなかをまだ悪魔に支配されていない頃の母親は優しかった。俺は園の砂場で悪ガキにいたずらされ泥まみれで泣いている時間が多かった。迎えにきた母は俺の姿を発見するたびにそっと抱き寄せた。帰宅して俺をシャワーに連れて行き、いつもバスタオルで頭を撫でるように拭いてくれた。温かく慈愛に満ちたそのしぐさが好きで、いじめられるのも悪くないなと心ひそかに思った。
広々とした観覧車内に客は俺一人だった。
閑散とした空気が漂う。俺はじっと動かずに座っていた。初夏だと言うのにしんしんと寒さを感じた。小降りだった雨は次第に強くなり窓を叩く音が響く。
生まれ育った街に光がぽつぽつと点り始めた。あの光のひとつひとつに人々の生きる希望が現れている気がした。俺にとってはただのオフィスや民間の灯りではなく、そこで日常を暮らす人の人生で忘れられない想い出やぬくもりに灯された燈なのだ。
ハイドパークの音楽フェスティバルが最高潮を迎えたようだ。会場から放たれたいくつもの光線が夜空をまっすぐに突き抜けた。色とりどりの光線は雨露を反射させてきらきら輝き、ロンドン上空の鈍い曇天に華やかさを添えた。
光線の中心には何万もの人生が身を寄せ合っている。この瞬間、熱気と興奮と喜びと、一抹の寂しさが会場にあるはずだ。
俺もいつかあそこに加わりたい。
同じモノを見て聴いて感じたい。
終わる喪失感とまた逢える希望を、多くの仲間と一緒に体感したい。
いつか来るその日まで、しばしのお別れだ。
観覧車がロンドンアイの頂点に着く頃、俺は日本に行こうと決心していた。頂上に到着すると、俺は車体が揺れるのも構わずに椅子の上に立って大声で叫んだ。
「グッドラック!」
雨と低気圧に愛されたふるさとに一端の別れを告げた。
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中編小説 モーニンググローリー(仮)
(What's The Story) Morning Glory? あらすじ イギリス人の父と日本人の母の間に生まれた「俺」は、幼少期…
取材費や本を作成する資金として有り難く活用させていただきます。サポートいただけたら、きっとますますの創作の励みになります。どうぞよろしくお願い致します。