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『敵は、本能寺にあり!』 第二十話『存命の罪責』

「何とも魔性の香り。これが蘭奢待らんじゃたいですか……」
信長が持参した香を焚くと、光秀はかぐわしい香りに身を委ね、心の奥深くで智覚。

「魂が抜けるようでいて、血がたぎり本能に立ち返るような……、掴めない香りじゃ」と満足気な信長は、自身の腕を枕にししとねに寝転がる。

「百年前、時の将軍 足利 義政が切り取って以来、幾人いくたりもの足利将軍が閲覧を希望しても叶わなかったと聞きます。この様な貴重な物を、有難き幸せにございます」

 信長は美しく頭を下げる光秀の膝に頭を預け、両手で彼の頬を優しく包み込んだ。

蠱惑こわくの香りに恍惚とする光秀の顔を、ただ見てみたかったのじゃ……」

 お市と顔を合わせ辛い信長は、光秀と甘蜜の月夜を重ね、岐阜城への帰りを遅らせる――。

 ◇

 お市は岐阜城に引き取られてすぐ産気づき、可愛い姫児を出産。
自身と三人の娘は、信長の庇護のもとに置かれたが、長政と前妻との間に生まれた嫡男 万福丸は、裏切りの見せしめとしてはりつけにされたのち、串刺の刑に処された。

 物の分かる歳であった長子 万福丸は、いつか復讐を企てる可能性があり、逃れた浅井の家来や敵対勢力の反乱の芽を摘む為にも、敢えて元服前の幼子に対し残虐な手段が講じられたのだ。

 岐阜城の庭では、久方振りに姫君の笑い声が響く――。
帰蝶きちょうは、家康の嫡男 信康のもとに嫁いだ徳姫を思い出し、息災を祈った。
高価なしゃぼん玉で惜しげも無く遊ぶ娘達のかたわら、沈んだ様子で冬苺の花を見つめるお市を気遣い、帰蝶は彼女の背に手を当てる。

「帰蝶様……。冬苺の花を見つけると、長政様は喜んで私を呼ぶのです」

「そうでしたか……」

「夫は人を愛する気持ちが強い分、愛されたい気持ちもことに強い人で……。期待された以上の努力を重ねようと足掻く程、信長兄上を慕っておりました。
繊細で傷つきやすく、人の賞賛や批判に右往左往する所があり、幼い頃より父への畏怖の念が拭えずに――。父からの評価を気にする余り自己保身に走り、革新的な兄上と共に挑み切る事ができず、あの様な……。
父に説得されたからと兄上を裏切った夫を、私は赦せなかった。兄上を助けたい一心で、間者に浅井離反の書状を預けたのです。
しかしそれから数年、私は兄上と夫との溝を埋める事ができず――。
長政様を死に至らしめ、私だけ生き残ってしまいました……」

「あの可愛いやや様を(赤ちゃん)身籠ったまま道連れになどできますまい。あの子の為にも助かって良かったのです。貴女の姫君達の為に、辛くとも生きてゆかねばなりませんよ。生きている事に罪の意識を持たずとも良いではありませんか。貴女を助けたいと願ったのは長政様です」

 しかしお市は帰蝶の言葉に涙をこらえながら、何度も何度も首を振る。

「長政様は私の裏切りを知りません――。もし知っていたら、助けたでしょうか。もし私があの時書状を送らなければ、長政様は死なずに済んだやも知れません」とお市が言い終わらぬ内に、帰蝶が言葉を返す。

すれば信長様は死んだやも――。
私とて、腹の中の罪を探せば切がありません。悪いのはいくさだと、思うより仕方ないのです。いくさの無い世を連れて来るのは信長様だと信じればこそ、罪を忘れた振りをして生きられるのですから」

「帰蝶様……」
お市は帰蝶の胸に撓垂しなだれ掛かり、幼女らに悟られぬよう静かに泣き続ける。
少し離れた場所で木々の手入れをしていた庭師が忽然と消えたのを、産まれたばかりの赤子だけが見ていた――。


✴︎次回、最終章『黒幕と真相』に入ります。



“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。
この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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