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『敵は、本能寺にあり!』 第四話『氷塊の心胆』

 鳳蝶あげは伝五でんご甲賀こうか(滋賀南端)惣国そうこくって数日後――。
信長は帰蝶きちょうを迎えに、湖北こほくへと(滋賀北東)馬を走らせた。

 二人は成菩提院じょうぼだいいん境内けいだいで、赤や黄に染まる紅葉の下をしばし散策しては、静かに言葉を交わす。

鳳蝶あげはは息災に暮らしているでしょうか……」

「あぁ、健やかに過ごしておるはずじゃ」

 何の根拠もない慰めが、帰蝶の心をざわつかせる。
「……。鳳蝶あげはとの別れの日、どうして来てくださらなかったのですか」

「光秀に任せておけば大事ないと言ったのは、其方そなたであろう」と、信長はまやかしを口にした。
“決心が揺らぎそうで足が進まなかった”とは悟られたくない男の虚栄から、思いのほか心無い返答となってしまう。
しかし小さな胸間きょうかんさえ汲み取れない彼女の躰は、鬱屈うっくつとした空気を纏った。

「そうですが……」

「なんだ。はっきり申せ。それが帰蝶の良い所ではないか」

「……私が、人生で一番寂しかった日、ただ側に居て欲しかった……」

 余りに苦く悲痛な声に、自分の事ばかりで彼女の気持ちをないがしろにしたと気付き恥じる。
父 政秀が亡くなり、其の翌年には義父 道三も討たれ、意図せず二つの家督争いに於いて台風の目となった信長は、誰かを思い遣る余裕を無くしていた。

「帰蝶……。誠に、思い至らず悪かった。許してくれ――」と細い肩を抱き寄せた厚い胸元を、彼女は両手で押し退ける。
信長は自身を真っ直ぐに見つめる悲しみの色が、夜叉の瞳に変わる瞬間にひるんだ。

「側室をお迎えになったと聞きました。父上が亡くなった途端、私をこの地へ追いやり、めかけ清洲城きよすじょうに――。所詮、私達は和睦わぼくの為の政略結婚……」

「――! それは、本心か……」
息を呑み悲愴な面持ちで尋ねるが、帰蝶は物ともせず無言のまま睨みつける。
「……帰ったら、引き合わせようと思うておった」と臆しながら彼女へ返された言葉も、「要りませぬ」と手酷く叩き斬られる。

「そう言うな。夫を亡くし弱っておるのを、励ましてやっただけ。幼い頃に遊んだ仲、……帰蝶にとって光秀のようなもの」

 帰蝶が留守の間に側室となった吉乃きつのは、信長の四つ上の幼馴染で、夫が戦死し実家に戻って来ていた所、心配した信長が訪ねた。
しかし其れが純粋な優しさで無かった事は、自身が一番理解している。精神の糸が限界まで張り詰めた肉体を預け、傷の舐め合いから始まった結び……。

「励まして差し上げたら、身籠みごもるのですね」
凍てつくような冷たい眼差しを向けられ、信長は目を伏せる。

「――いや、……」

「どうなさいました。あぁ。貴方様のお子かどうかは――」

「ん……! 吉乃きつのを愚弄するか」

 一気に張り詰めた夫の威勢に、苛立たしさは頂点に達す。
「もう結構。清洲へは帰りませぬ!」と強く吐き捨て、肩で風を切り、振り向きもせず寺へと入って行った。
そんな帰蝶の背中を、信長は打つ手無く茫然と見つめる。政略結婚という根底の上に積み重ねてきた愛を眼前で迷いなく否定され、追いかける勇気など持てるはずもなく、ただ立ち尽くすのだった。

 ◇

 二度目となる謀反むほんを企てた弟 信勝に対し、自身を病と偽り見舞いにおびき出し謀殺ぼうさつ
禍根かこんを絶てば、帰蝶とも雪解けの春と安易に捉えていた信長だが、毒巣どくそううにげ替わっている彼女が戻る訳もない。

 他方、信長と吉乃きつのは、信忠・信雄・徳姫と、毎年子宝に恵まれた。
陽気で社交的な吉乃は、すぐに清洲城の皆とも打ち解け、多くの人に囲まれながら幸せな日々を送る。
れど心の内では帰蝶の事が気掛かりで、寺へ挨拶に参ろうかと何度となく思いはしたが、結局は臆病に蓋をしたまま数年が経ってしまった。

 帰蝶が身を寄せる湖北の寺にも、二人の仲睦まじい風聞ふうぶんは届き、信長が幾ら訪ねて来ようとも、彼女は益々頑なに撥ね付けた。そして諦めて帰る姿を目に焼き付けては孤独に震え、感情の嵐はひょうをも吹きすさぶのだ。

 しかし熱心なふみだけでなく、刺客に襲われるかも知れぬ湖北までの道のりを、命の危険も顧みず何度も行き来しているという事実が、十分すぎる程の愛を物語っていた。政略結婚であるならば、和睦わぼく反故ほごにした美濃みの(岐阜)、帰蝶を追い返せば良いのだ。
財力と情報力に富んだ土豪の娘 吉乃を側室に迎え入れたのも、美濃を攻略する為の足固めである事は想像に難く無い。

 うと分かってはいても、帰蝶は吉乃がうとましかった。信長と子らと共に、城で温々ぬくぬくと過ごす彼女をふうに浮かべては心の内で罵倒した。

 困り果てた信長は、美濃攻めの拠点として築城した小牧山こまきやま(愛知北西)吉乃を移し、辛うじて帰蝶を清洲城へ連れ戻せたのである。

 くの如き騒動から幾許いくばくも無く、吉乃は短きせいを閉じる――。



“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。
この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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