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オープンチャット3日目記録(4/5)

オープンチャット3日目です。二日目は、システムから脱却するためには「愛」しかないと言いつつも、結局「愛」とされているものは代替可能で、システムの中に組み込まれているだけなのでは?という疑問に至りました。

また、大きな物語を失ったものたちが日常を過ごすための「対幻想」とはなんなのか、という話で3日目を迎えます。

※3日目は2日目の終わりから地続きの深夜スタートです。ちょっと深夜のテンションが入りつつ、始まります。

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3日目スタート

田村:「対幻想」は幻想だとしても、一対一の関係性を信じてみるしかないということなのでしょうか。

萩谷:これは僕の考えなんですが、やっぱり信じるしかないのかと。関係性って、お互い信じ合うことで産まれていくのかなと思いますし。田村さんどう思います?

田村:例えば、私のお芝居は好きだけど、私の書く論文はなんとなく難しくて読まないし興味ない、とか、そういうことを言われたりすると、自分の言葉はまだ全然人に届かないんだなーとか思ってめちゃくちゃ悲しくなります、、そういうことが多いから、余計人を信じるっていうこととか、人とわかりあうってことは難しいよなあと思ってしまう、、、

萩谷:パートナーだとしても他人である以上、ある程度は言葉を媒介にしないといけないですもんね。それがないと信じるのって確かに難しいかも。僕も「自分を構成してるもの全てを好きになって欲しい!」というのは不可能だから思わないけれど、大切なものをスルーされてしまうと悲しいなぁ、というのはあります。

田村:なんていうか、結局「好き」って言われたとして、「あなた私のこと全然知らないしそれって私の本質を好きじゃないじゃん」とか思っちゃう。

私は昔、本当に話が通じない人と付き合ったことがあって、「休日何する~?映画観る~?」ってなった時に、「私コレ見たい!」って言ったら「たぶん俺、優依の好きな感じの映画好きじゃないから」って言われたことあって、めちゃくちゃムカついたんですよ。

その人には別に好みなんかなくて、映画なんでもいいみたいな感じだったんですけど、「えっっ歩み寄りもしようとしないの!?!?」と思って、、、笑笑 それ本当に私のこと好きなの???って思いました笑 さっきの話にもあったんですけど、なんか幻想を抱かれがちなんですよね、私、、

萩谷:幻想を抱かれるって、「田村さんはこういう人のはず!」と相手に強く思い込まれてしまうってことですか?

田村:うーん、、、まあ、そうでしょうね、、だから前に付き合ってた人も、私のイメージに当てはまらない部分は受け付けなかったんでしょうね、、自分勝手だなーとか思っちゃいますけど

萩谷:イメージに隠されて当人が見えなくなってしまうってありますよね。人って表面は属性に溢れてるじゃないですか。僕なら「日本人」とか「男性」とか「30歳」とか「演出家」とか。人って最初はそういうラベルが表面にベタベタ貼ってあって、個人は見えなくなってると思うんです。これは、僕の努力目標でもあるんですが、コミュニケーションってそのラベル剥がしの時間なのかな、と、思ってて。

田村:もちろん、例えば表面的なもの、外見なんかは整形したり誰かの真似をしない限りはその人特有なものだから(元々誰かに似てるとかはあるかもですが)、それを「好き」というのはまだわかる…けど、なんだか私の場合、外見から連想されるイメージを勝手に付与されることが多いですね…

田村:例えば、私街のクレープ屋さんで働いてたことあって、すごい可愛らしいクレープ屋さんだったんですけど、中にいる従業員の人たちはめちゃくちゃサバサバしている人とか気が強い人が多かったんですね。クレープ屋さん、生地を一度にかきまぜたりとかを繰り返さなきゃで、めちゃくちゃ重労働なんです笑

そこで働いてる人たちに、「田村さんてハロウィンにコスプレしそうだよねーー!(私達はそんなことやらないけどw)」と若干馬鹿にされたことあって、私そういうイメージ持たれてるんだ~とびっくりしたことがあります、別にその職場で仲を深めたわけでもないし、私もいわゆる「女の子らしい」(嫌ですねこういう表現)ふるまいとかをしていたつもりはなかったのですが…

萩谷:演出家やってて気を付けてるのは、なるべく俳優の個人イメージを勝手に付与しないことなんです。演技やテキスト解釈などを含めた稽古場でのコミュニケーションを通じて、その俳優ってどういう人かをきちんと認識しないと、勝手なイメージ付与が起こってしまう。これは、まあ、でも、意識してもなかなか難しいんですよね。

田村:そこが何と言うか私にとって難しいところで、私の場合、俳優という職業も持っているので、逆にイメージづけされるのはいいことなんですよね…こういうイメージの役にハマる人が欲しいときにわかりやすいイメージを持ってた方が、俳優としては有利なんですよね。特にオーディションとかテレビの場合… そしてそういうイメージの役ばかりをやることになるから、より、その人のイメージは強まっていくんだけど、実際はそうでもなかったりする。

私の場合は、例えば一つ「女の子らしい」イメージがあるとして、それがすごい有利になるときがあれば、実際はそうでもないから日常生活では傷ついたりすることもある…ジレンマです…クレープ屋は作ってるものは可愛いし美味しいけど作ってるこっちは汗まみれだしどろどろの最悪の環境で作ってるんだヨ!!!みたいな笑

萩谷:クレープもイメージがありますもんね。商売的に、どろどろの環境を開示する訳にはいかない笑

萩谷:俳優のイメージに関しては、確かにそうですね。僕も配役考えてるときなんかはイメージを使ってると思います。矛盾してるかもしれませんが笑 稽古場でコミュニケーションとる時には、そのイメージよりも、俳優から出てくるものを大切にしたいんですよね。オーディションとか配役はイメージで、その先でそのイメージを脱構築していく感覚なのかな、、、

オープンチャット参加者からのコメント:愛は行動で感じるものかなぁ。愛してくれてる人は私を強く抱きしめてくれるだろうけど、連絡もくれない様な人は私を愛していない。自分都合で動く人には愛を感じないですね。相手の趣味嗜好をよく知りもしないで好きだって言う人は、おそらく外見が好きなだけですね。

田村:ノートに感想書いてくれてた方がいらっしゃってて(ありがとうございます☺️) 愛は行動で感じるということを書いてくださってたのですが、萩谷さんこれについてはどう思います??

萩谷:そうですね。「幻想」というものを「実感」に変えてくれるのが行動なのかな。

田村:「幻想」を「実感」に変えてくれるとはどういうことでしょう?

萩谷:「対幻想」の話に戻るんですけど、「自分は相手を好きだし、相手は自分のことを好きだ」という「幻想」を互いに信じ合ってるのが「愛」って関係なのかなと思っていて。
けど、それってお互いに信じているってこと以上にはなり得ない、言い換えると、お互いがその「幻想」を見ている以上にはなり得ない。けど、相手が「行動」するっていうのは物理的に見えることだから、その瞬間に「相手は自分を愛しているかもしれない」という幻想が「愛しているんだ」という実感に変わるのかなと思いました。

田村:「相手は自分を愛している」と思っている状態は、自分も相手を「愛している」状態なんですかね?とすると、それは自分と相手、どちらが先なんでしょうか??

萩谷:僕の中では「自分が相手を愛している」と「相手が自分を愛していると思う」というのは共起的な言葉だと思ってます。同時に発生して、どっちが先なのか、わからないという。

田村:私、恋愛的な意味において、そのときは「愛」だと思っていたかもしれないけど、今思うと全然「愛」でもなんでもなくて、ただ「愛かも」という洗脳っぽい状態になってただけだな!と思うことがあって

萩谷:「洗脳」…新しいキーワードが出てきましたね。洗脳って、田村さんにとってどういう状態ですか?

田村:洗脳っていうとちょっと極端かもしれないけど、相手のことを「冷静に見れてない」状態ですかね、、相手が自分を「好き」というのだから、きっと相手には良いところが沢山あると思い込んでしまうというか。その時点でおそらく私は相手を好きではないんだと思うんですけど、、、、、、

萩谷:「好きだからいいところがあるはず」は「いいところがあるから好き」とは大きく違いますね。

萩谷:『ノルウェイの森』で、ミドリが主人公に「完璧なもの」を求めるシーンがありましたね。

たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて「はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ」ってさしだすでしょ、すると私は「ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ」って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの。(中略)私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。「わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?」 私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの(『ノルウェイの森』より)

僕、これ最初に読んだのが高校生の時だったんですが、その時に「これ怖いな」って思ったんです。冷静な関係じゃないな、と。けど、確かにそれも納得できたんですよね。関係性の一つとして。だから、何が言いたいかというと、「冷静に見れてない」ことって、恋愛においてある程度必要なのでは?と思うんです。

田村:「自分が相手を愛している」と「相手が自分を愛していると思う」というのは、ある程度は、同時発生的なものだと思います、でも完全にそのタイミングが一致することって有り得ないですよね、、

何が言いたいかというと、私は、私自身が誰かを絶対的に愛すということは可能だと思うんです。一方的なものですね。それは相手が自分をどう思っていようと構わないってやつ。相手が自分をどう思っていようと、こちらの気持ちは揺るがないわけですから、私にはそれが「愛」なんだと思える。

でも、両思い的な形での、お互いがお互いを「愛している」っていう状態なんて有り得るのか??と思ってしまって。自分を「愛してくれている」から自分も相手を「愛している」という状態をお互い持っていて、それってめちゃくちゃ「幻想」(違う意味での)じゃん!とか思ってしまったり、、

萩谷:確かに、舞踏会でのロミオとジュリエットみたいなことが起こらない限りは、どちらかが先の場合のほうが圧倒的に多いですね。「お互いがお互いを愛している」っていう状況が、今の田村さんがおっしゃった「違う意味での幻想」をお互いに抱き合ってることなのかなって僕は思ってたりします。


次回に続く…

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