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ジャニーズ「事件」とテレビ社会の終焉


春からの一連のジャニーズ「事件」で思うのは、アイドル業界のカリスマとも言えるジャニー喜多川が築いてきた圧倒的な富とその権力の源泉は何か、だ。そこには当然の如く、彼の出自(アメリカ)と来歴(朝鮮戦争出兵&米大使館勤務)、その戦後日米の間に築かれた特異なポジション(立ち位置)が欠かせない。その上に当時の新しいメディアとして創成期であったテレビというアメリカからもたらされた報道・文化装置への参画(渡辺プロダクションにいたジャニー)、そして正にその特異な才能の源泉(美少年を見つけ「育て」、テレビという装置で稼がせる眼力と洗脳力)が、彼がゲイでありかつ小児性愛者であったことと表裏一体なのだろう。なんと彼の少年への美意識と日本の若い女性のそれが見事に重なり合ってしてしまったのだ。そしてこれを知りながらも逆に徹底的に利用し、巨大なビジネス装置に作り上げた姉メリーの恐るべき独裁組織と兵隊(マネジャーとタレント)たち。メリーは彼に晩年まで「お小遣い」を与えていたという言葉もでてきている。徹底した役割分担。彼は「教祖」でそれを「布教」に使ったメリー。彼らの親がアメリカで僧侶だったのもまんざら関係ないわけではないようにさえ思える。株式会社の態をなしていない組織。そしてそれらを支え続けた盲目的なファンという「信者」。そしてその信仰の普遍性に利権を見出したテレビ&エンタメ業界。そしてそれらを宣伝のための広告塔として最大限に利用し続けた大企業たち。関係者たちは皆どこかで薄々感じていたが、あえて触れないように見ないようにしていた。それが彼等を巨大化させ、歯止めの効かないポジションに押し上げていく。

高度経済成長時、護送船団方式という言葉が流行り、自由競争せず国家と金融と企業が一体化して豊かになり、大中流社会を目指すという名目のもと来た社会が、90年代以降低成長時代に入り、グローバリゼーションの激流の中で、過去の蓄財を食いつぶしていく。それでも許認可制で囲い込まれた狭いテレビ業界は、ネット産業の進化の中での最後の砦として既得権益層の金の奪い合いをやめなかった。しかしもはや新しいエンタメはテレビの中にはない。Youtube等動画プラットフォームやサブスクリプションシステムからの音楽の構造変容、K-POPの大流行、グローバル化をみるだけでも、次世代はテレビに何も期待していない。家のリビングに置かれた暇をつぶすためのニュースと娯楽の窓程度のものだ。テレビは根本的に自らの価値・意味、そしてビジネスモデルを問われている。そして戦後特異な形態で温存され続けた日本の芸能界は存在理由を失う。

国内マーケットで生産と消費を満たせていた事であえて海外展開しなかった日本のサブカルチャーが、ここ10年ほどでSNSにより「発見」されブームになっていった。観光ならぬ文化のインバウンドだ。両者は相乗効果で「日本再発見」の契機となり、量から質へのインバウンドが始まっている。もはや以前の国内のようなメディアコントロールは効かない。若手は旧体制を軽々と飛び越えて世界に発信している。しかもこの時期に「ジャニーズ事件」が起こった。この奇異な状況を発見したのも違和感を提示し世界に発信したのも英国BBCだ。おそらく「外圧」がなければ変わらなかったであろう日本社会の「停滞」はここでも周知のこととなった。これも大きな時代の転換期なのだろう。

崩れかけた「裸の王様」と「事なかれ主義」の忖度利権集団の外部に、広大な才能のすそ野ができつつある。それは新たな音楽・映像文化のグローバルプラットフォームなのか、過去の膨大なアーカイブを食いつぶし溶解していく文化消費の最終形態なのか。いずれにしても芸能界、テレビ社会は終わりを迎えつつある。


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