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コアラの訪問

靴を洗う事を思いつく
→さっさと靴をあらう
または→靴を洗う必要性について熟考し、そこに虚しさを見る 例えば、靴を洗うことが自分らしくない行為だ 自分は靴の汚れみたいなことに気を使わない人間であるべきだと思い込む そうして靴を洗わないという選択をする
それに関わらずそれ以降も靴を洗う必要性が訪ねくる
トントントン「毎度どうも、私コアラですけども、お宅の靴は汚れているので、洗う必要があります。」
「帰ってくれ、そんなことはお門違いだ」ピシャリとドアを閉める。
「お待ちください。わたしにはあなたのお気持ちがよくわかります。少し話をさせて下さい。
あまり知られておりませんが私どもは爪を木に立てて研ぐことをします。これを三晩に一度するのが慣わしでして、コアラであるもの、それをしない者は一頭としておりません。ええ、はい、それをするのがコアラにとって1つの重要な確認作業ということもできるかと思います。ええ、あのことについて何か言葉で言うことができるとするならば確認作業です。
話の本題に入りますが、ある日私の内側でこんな疑問が持ち上がりました。
その作業で私はあるいは、私たちは何を確認しているのかと。
悲劇でした。コアラという生物は元来、哲学という概念とかけ離れた思考回路で生きています。ついでにいっておきますとしばしば引き合いに出されるカンガルー…あれは哲学的動物です。私らコアラとはかけ離れた思考をしておると話を聞きました。
コアラはユーカリの葉を食べますが、実際私どもにはユーカリの葉を食べる事が何なのかわかっておらず、食べるという行為もユーカリの葉それ自体も区別しません。私はユーカリの葉を食べることについて今話しておりますが、それは人から聞いたことで意味は分かりませんがね。そのくらいコアラは概念を持ちません。私どもはただただ楽しいです。
だから、私にとって例の疑問が持ち上がったことが悲劇なのです。異常なことなのです。私は爪を研いでいる事に疑問を持ち、それと同時に爪を研いでいる事に気付いてしまったのです。私は思い悩みました。どんどん落ち込み、毛も半分より少なくなり、ゲロを吐きました。ゲロは三日三晩吐き続けた事もありました。
しかし今では見ての通り、毛は少ないとは言え、見るに耐えない程ではなくなり、しっかり食べられるように戻りました。あれ以来、二度と真っ当なコアラに戻ることはできませんが。私はそれでもコアラであり続けています。爪を研ぐ事も再開して、今もその習慣に生きています。確認し続けながらです。
靴を洗うのはあなたです。洗わないのもあなたができる選択です。私はその必要があるとあなたに伝えるだけです。」
「帰ってくれ!」
こんなに長々と話をするコアラは初めてだ。

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