吉本ばなな『キッチン』を徹底解説 なぜキッチンなのか?なぜえり子はジューサーを買うのか?
基本情報
この作品は1988年に福武書店から刊行された、吉本ばなな氏による短編小説です。家族を亡くした女子大生の「みかげ」の視点で語られる一人称小説で、田辺家との交流を描いた作品となっています。
登場人物
桜井みかげ(私)
この作品の語り手。彼女は両親が早死にし、祖父母のもとで育てられました。中学へあがる頃に祖父が亡くなり、そして大学生になった現在、最後の肉親である祖母が亡くなり、田辺家に居候することになる、というところから物語が始まります。
田辺雄一
天涯孤独となったみかげに手を差し伸べるのが田辺雄一です。彼はみかげの祖母の行きつけの花屋でアルバイトをしている学生で。みかげと同じ大学に通っています。幼いころに母親を亡くしていて、現在は実の父親(性転換で母親になった)のえり子とふたりで暮らしています。
田辺えり子
本名は雄司。雄一の母が亡くなったタイミングで女性になりました。お店を経営しながら、女手(男手)ひとつで雄一を育ててきました。
宗太郎
みかげの元カレで、大家族の長男。みかげと別れてはいますが、連絡をとったりする程度の仲は保っています。
※以下、作品のネタバレを含みます。
みかげと雄一のふたつの共通点
共通点①
ひとつ目は、喪失を抱えているという点です。
みかげが雄一に抱く最初の印象です。「ひとりで生きている感じがした」とあるように、みかげは雄一の中に孤独を見出しています。
また、みかげはえり子から「昔飼ってたのんちゃんに似ている、と雄一が言っていた」と伝えられます。
のんちゃんはペットの犬です。のんちゃんが死んだとき、雄一は食事がのどを通らなくなるほど悲しみました。雄一は母とのんちゃん、ふたつの大きな喪失を抱えているのです。
みかげは家族とふたりっきりで暮らすことの不安を思い返します。そして雄一にシンパシーを感じます。雄一は母とふたり暮らしなので、二世代上の祖母と暮らしていたみかげとは少し状況が違いますが、家族に対して抱く「この人がいなくなれば自分ひとりになってしまう」という感覚は同様のものでしょう。
対極にいる宗太郎
みかげの元カレの宗太郎は、大家族の長男です。それはそれで苦労もあるとは思いますが、みかげや雄一が抱える孤独や喪失とは対極のところにいます。
みかげは宗太郎に会うといつも、「自分が自分であることがもの悲しくなる」と感じています。自分と宗太郎の境遇を比較して、そのギャップに苦しんでいたということです。
共通点②
ふたつ目の共通点は、他者からの理解を得られないという点です。
雄一には付き合っていた彼女がいました。しかし、みかげを家に泊めていることがバレて彼女にビンタされます。
雄一は世間一般的に言うところの、いわゆる「普通」の愛情表現がおそらくできないのではないでしょうか。
そもそも、なぜ雄一はみかげを家に招いたのか。その理由も最後までよくわかりません。しかし、そのわからなさこそが雄一の特性なのだと思います。
みかげも宗太郎から「君の好きとか愛とかも、おれにはよくわかんなかった」と言われます。他者から理解されにくい愛情の価値観を持っているというところで、雄一と共通するところがあります。
田辺家と桜井家の対比
生きた家・田辺家
田辺家は生命にあふれた「生きた家」として描かれます。台所からは生命の源である水の音がし、窓辺に置かれた植物は太陽の光を浴び、窓の向こうには青空が広がっています。
死んだ家・桜井家
一方で桜井家は「死んだ家」として描かれます。
桜井家には誰もおらず、命が息づいていません。祖母が亡くなってから、すべてが止まったまま、時間が死んだ家と表現されています。
また、窓の外は曇っています。田辺家から見た空は青空でした。このあたりも対比になっています。
さらに、どんよりとした雲がすごい勢いで流されていくという情景描写。これは、そのあとの「悲しいことなんか、なんにもありはしない。なにひとつないに違いない」という部分のメタファーになっています。
どれだけ分厚い雲が空を覆っていたとしても、時間が経てばどこかへ流れていって、いつか青空が顔を出すのだという意味であると読めます。
また引き払った後の家は、このように描写されます。
死んだ家として描写されていた家に、よく晴れた午後の金色の陽ざしが射しこみます。
これは、もう自分の家ではなくなったことの表現ではないかと思います。時間が死んだ家ではなく、もう他人の家になってしまった。という表現として私は読みました。
キッチンという場所
タイトルでもあるキッチン(台所)は、この作品内でどのような意味を持っているのでしょうか。語り手であるみかげがキッチンについて言及している箇所を、いくつか抜き出してみます。
上記の引用部分に共通するのは、孤独がキッチンによって緩和されているという点です。みかげにとってキッチンは、孤独から身を守る場所であることがわかります。
食事という行為が表すもの
キッチンというのは本来、食事を作るための場所です。食事というのは、失った栄養やエネルギーを補給する行為です。
言い換えれば、失ったもの(喪失)を埋める行為であるともいえます。
つまりキッチンは、喪失を埋めることができる場所のメタファーであると読むことができます。
作中、みかげと雄一、えり子の3人が関わるのは、ほとんどの場面でキッチン(もしくはその周辺)です。それは3人ともが喪失を抱えており、それを埋めるためにお互いの存在があることを示しています。
えり子はなぜジューサーを買ってくるのか?
ある日、えり子が突然ジューサーを買ってきます。もともと衝動買い気質のあるえり子ですが、数ある電化製品の中で、なぜジューサーなのでしょうか?
ジューサーというのは、野菜や果物を攪拌してジュースを作る機械です。
固形物を攪拌して液体にするということは、物の境界線を破壊する行為でもあります。
つまり、えり子がジューサーを買ってきたということは、みかげと田辺家との境界線を破壊したいという意思の表れではないかと考えられます。
考えてみれば、えり子は男性から女性になった人物で、男女の境界線を越えた存在です。境界線を破壊し、超越する存在として、えり子は描かれているというふうに読むことができます。
あなたにとってのキッチン
作中、祖母の死という悲しみを克服するために、みかげは何か特別なことをしたわけではありません。ただ生活をしていただけです。しかし、これはとても大切なことです。
大きな悲しみや喪失があると、私たちは何か特別なことをして踏ん切りをつけようとします。それはそれでよいのですが、ほんとうに大きな絶望があると、何かをしようという気力が湧いてきません。
しかし、それでいいのです。何か特別なことをする必要はなく、ただ生きること、生活することが重要なのです。
風に流されていく厚い雲のように、悲しみや喪失もいつかは去っていきます。それまでは、人の力も借りながら(みかげの場合は田辺家)、ただ日々をやり過ごすこと。そのために孤独を緩和することができる場所を確保すること(みかげの場合はキッチン)。
喪失からの再生を描くとともに、自分にとっての「キッチン」はどこなのか? と考えさせられる、とても深い作品だと思いました。
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