見出し画像

「好き」は執着を生む。取り扱い注意案件だ。

突然の告白、失礼します。
わたし、「くらこん塩こんぶ」が好きだ。
(塩こん部長さんのやつ)

台所にもストックがあるし、
実はストックのストックとして
自室にも隠し持っている。
出来れば私が死んだとき
棺桶を塩昆布の袋で埋めてほしいと
密かに願ってもいる。

無くなったらどうしようという不安と常に闘っているから、夫に不用意に食べられると、猛烈に腹が立つ。
「私の大切な塩昆布を軽い気持ちで食べないでほしい」
心の底からそう訴えているのだ。

何が言いたいのか。
そう、「好き」は執着を生む。
奪われなくない、守りたい。
無くなったらどうしよう。
私にはこれがないとダメなんだ。
恋人や親子、ペットとの関係にも言えるのかも。(私の場合は「塩昆布」だが。)

「好き」という感情はやっかいだ。
取り扱いが難しい。
なぜか。
「好き」って素敵なことって思いがち。
そして、そんな自分にやや溺れがち。

一方で「嫌い」という感情については
私の場合早い段階でアンテナが敏感に働く。
なんとか避けようとしていたり、
吐き出すことで解消してみたり。
自らの違和感を注意深く観察して、
正面から向き合わないための
何かしらの対処ができているという感じ。

何度もnoteで書いている通り、
私は「ヨガ」とか「犬」が好き。
そして、文章を書くことも好き。
これらはちょっと要注意だ。

ヨガは毎朝たっぷり時間をとっているけれど、私の場合「〜ねばならない」が結構強めに発動される。
アーカイブの動画を最後まできちんとやらねばならない、瞑想しなければならない、きれいなポーズをとらなければならない、などと、「好き」であるが故に、自分にとっての完璧な形を求めてしまう。
何もできない日はダメな自分に落ち込み、投稿に流れる素敵な誰かと比べては、心の中で自分に溜息をつく。

犬を守らなくては、幸せにしなくては、という思いもそうだし、文章を書けば書いたで、きちんと伝わるものに仕上げなくては、という気持ちも強いのかも。好きだけど、ちょっと苦しい。

「好き」という感情は、決して悪いものではない。行動していく為の強いエネルギーになる。それは間違いない。
でも、それと同時に、完璧さを求めたり、できない自分を責める気持ちも生むみたいだ。

「好きなことを仕事にする」
世の多くの人の永遠のテーマだと思うけれど、難しさはここにあるのかもしれない。

ありがたいことに今の私は
会社はさておき、仕事そのものに対してはわりとフラットな気持ちで取り組めているのかなと思っている。
好きというよりはちょっぴり得意。
自分に与えられた仕事を確実に行う。それだけで十分だ。

ああ、それにしても、「塩昆布」よ。
文章にしてみると、
さすがに怖すぎた。
夫よ、申し訳ない。もう怒らないよ。こんど塩昆布のたっぷりのった炊きたてご飯を一緒に食べようではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?