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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第15回 爆詠みしてみた! 153mの高層仏塔

(48)境内の北端。いよいよ巨大な仏塔モニュメントの登場である。平日の真っ昼間でもあり、人はまばらだ。数棟の高層ビルがはるか遠くに望める。目に入るものは、あと青空と雲だけ。塔も高いが、基壇の大きさにも圧倒される。高さ6米を超えるだろうその壇には白亜の欄干がめぐらされ、其処(そこ)かしこに有り難い文言が金色でしたためられている。仏や象や四大天王の巨像も、豪華スター勢ぞろいとばかり脇を固めて建つ。地上近辺の観察だけで、すでに現世感がぶっ飛んでいる。その上の塔については、もはや何も言うことがない。なにせ153米の高さである(塔への入場ができる70元のきっぷもあったが、ぼくは買わなかった)。さて、先述した事典で塔の存在を知ったとき、ぼくは一瞥して、これを古建築と呼んでいいものかな、と首を捻(ひね)ったものだ。そしてここに到って、よけいにその思いを強くする。なぜといって、塔は誰が見ても新作であるし(建立わずか13年といえば若造中の若造にちがいない)、またその異次元な寸法がことさら生々しい現代性を「観客」に突きつけてくるからだ。かつて全中国を代表する観光スポット、杭州六和塔、西安大雁塔、あるいは蘇州虎丘の斜塔(霊岩寺塔)を訪れて目前に仰いだときは、決してそのようなことはなかった。それらの建造物には、まさに背中の瑕で歴史を語るような、重厚で有無をいわせない説得力があった。だが、此処の見学者たちは観光というよりも、まるで新築マンションの内見に訪れたような、さぐりさぐりの顔で塔を見上げている。ぼくにしても、この塔は現代の機械がこさえた工業製品だという事実に押され、そこに込められた慈愛の精神とか、崇高な魂に心が及ばないのである。ニュー・アライバル。つまり、寺自慢の新入荷商品が境内のベストポジションに堂々ディスプレイされているものだから、此方(こちら)としては、「お邪魔します。いえ、ちょっと物件を見にきただけです。もうそんなお構いなく。外観だけ見たらすぐ帰りますから」といった調子で、そそくさと参観を済ませる気持ちになってしまうのだ。しかも、いろいろ構図を変えて写真を撮ろうとするが、うまくやらないと画角に収まらない。そのために、小さな参観者たちがみな遠巻きなのである。ふしぎな光景だ。けれども、ぼくがこの常州の天寧宝塔にガッカリしたかというと、そんなこともない。共感されるかどうかはさておき、こういうコメントや表現のしがたい、シュールでちぐはぐな光景こそ、誰かさん経由でなく自分の足で訪れて実見・嘆息する値打ちがある、中国の実景だと思うからである。途方もなくビッグなものを外連味(けれんみ)なく建ててしまう、その豪快さと空気の読まなさを、自分なりに正しく体感したいのだ。さて、この感興をどのように表現しよう。ぼくは、詩仙とよばれた唐代の大詩人にならい、一首詠(よ)むことにした。

  茫然 仏塔を看(み)る
  疑うらくは是(こ)れ 天空の城かと
  頭(こうべ)を挙げて 御利益(ごりやく)を望み
  頭を低(た)れて スペックを尋(たず)ぬ

  *原詩 牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷

『唐詩選』にも収録された、盛唐の李白(701―762)の代表作。これを現代風に改めてみた。いま頭を低れて為すことといえばスマホ操作である。中華圏では歩きスマホの人を「低頭族(ディートウズー)」と呼ぶらしい。大きすぎる仏塔を前にして手を合わせつつ、気になることがあるとつい検索に走る習慣が出てしまう(ちなみに建設費を調べてみると3億元と出た)。おいおい、そんな野暮な詩があるかという読者は、このマヌケな「替え歌」を読んでから元ネタの名詩を音読してみてほしい。一見取っつきにくい書き下しの構文が頭に入ったせいで、おそらく唐代セレブのつぶやきがより身近に感じられるようになったはずだ。寝床に差しこむ月光を看て、李白先生は故郷に思いを馳(は)せた。さあ、どうか愚か者の駄ポエムを踏み台にして、豊かな漢詩の世界を旅してみてください。

画角いっぱいの高さにただ圧倒される。基壇の右下が塔内部への入口。
間近で見ると、仏や象(奥)も迫力のサイズ。
ユーモラスな布袋さま(弥勒如来)の像も。

 靜夜思 [唐]李白
牀前月光を看る。疑ふらくは 是れ地上の霜かと。
頭を擧げて山月を望み、頭を低れて故郷を思ふ。

目加田誠『新釈漢文大系19 唐詩選』(明治書院,1964年)p.606

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