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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第25回 龍城の夢

(79)さっさと休めばいいものを、それからぼくは先ほどの印象的な月明かりを思い出し、つい動画サイトで月にまつわる中華歌曲を立てつづけに再生した。半個月亮、但願人長久、そして月圓花好。「アド街」風にいえば選曲の3曲である。「但願人長久」という曲は、有名な北宋の蘇軾(そしょく、1037―1101年)による「水頭歌調」の詩句を、1983年に鄧麗君(テレサ・テン)が唄い、のちに王菲ら(フェイ・ウォン)がカバーしたことで知られる。さらに金嗓子(ゴールデンボイス)といわれた周璇(しゅうせん)の「月圓花好」では、サムネイル内のその美貌に見とれ、つい維基百科(ウィキペディア)にて彼女の簡歴を確認する。日本国内の知名度が測りかねるので書いておくと、周璇は1930年代、40年代の映画女優でありトップ歌手である。天涯歌女、四季歌、夜上海などの名曲が残る。日本に寄せて言うなら、鄧麗君の「何日君再来(いつの日君帰る)」のオリジナルを唄った元祖歌姫である。1957年に没しているので、中華圏ではもはや伝説的明星(スター)の位置づけだ。関連図書や写真集は今でも街中の書店で見かける。

(80)そもそも周璇には、上海と香港という二大都市で華やかに活躍したというイメージが強い。だが、なんとなく開いた維基百科の記述にぼくは驚いた。彼女はここ江蘇省常州の生まれだったのだ。しかも父親は牧師で、常州界隈ではセレブといえる人物であったようだ。こうなると、ついのつもりがエンドレス、検索の手がしばらく止まらず、なんと昼間おとずれた工人文化宮の数百米(メートル)西に、十年ほど前まで彼女の生家が建っていたという情報に行き着いた(完全な裏取りはできていないのだけれど、いずれにせよ常州城内であればさほど遠くでもあるまい)。ということは、今朝ぼくがまじまじと観察した県学街の教会も、周璇の父と多少の縁があったのだろうか。周璇は6歳で親元を離れ、上海の周家の養子となるわけだが、彼女も幼い時分は両親とあの県学街(シエンシュエジエ)を歩いたり、カトリック教会に出入りしたりしていたのかもしれない。時には橋の上から、あるいは船着き場から、静かな運河を眺めていたとも考えられる。独りそのように夢想つつ、明の高啓「胡隠君(こいんくん)を尋ぬ」をば真似て、ここに詠ず。

  運河をわたり また運河をわたり
  樹々をくぐり また樹々をくぐる
  秋日 龍城の小路をゆけば
  知らずうち 君の膝元に到る

  *原詩 渡水復渡水 看花還看花 春風江上路 不覚到君家

高啓(こうけい、1336―1374年)は蘇州の人。原詩は花開く春に友人を訪ねる内容で、明るい江南の景色と足取り軽やかな散歩のようすが目に浮かぶ。これに今日の散歩を重ねてみた。周璇を知らない方にはつまらぬ情報を差し挟んでしまったが、お手元にスマホなどあれば、ぜひ一曲聴いてみてください。独特の高音がクセになります。あの李香蘭(山口淑子)などと並んで五大歌后と括(くく)られる伝説の歌い手で(あとの三人は白光、姚莉、呉鶯音)、この5人のうち、周璇だけが若くして亡くなった。李香蘭逝去の報は2014年と記憶に新しいし、姚莉(ヤオリー)にいたってはこの旅の2カ月前、2019年7月に亡くなったばかりだ(享年96歳)。年上の周璇が存命ならば、このとき99歳のはずである。

(81)そんな調べものをしながら、ぼくはいつしか眠りに落ちた。

(82)第一ステージの江蘇省常州を後にして、次の湖北省・荊州へと、慌ただしい旅をつづける。

今日の散策ルートから。最初は関河の写真。
教会(北方向)付近。周璇故居(?)はここから西へ数百米の地点らしい。
ほぼ同地点。楼閣風の建物のピザハット店舗(2022年4月現在、営業確認できず)

 尋胡隠君 [明]高啓
水を渡り 復た水を渡り
花を看 還た花を看る
春風江上の路
覚えず 君が家に到る

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