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【作曲家K17】オーケストラ部

オーケストラ部出会い小学校6年の2学期、港区から葛飾区に引っ越してきました。これまで4回引っ越して転校でしたから、またかと言う感じでした。父親の勤めの関係で東京中引っ越しました。兄達は学校変わる事はなかったのですが。、私は体が不自由なので学校に残ることができず転校になったのです。転入したクラスは結構荒れていて、前の席の中数人と先生が授業していて、彼らは大暴れをしているようなところでした。9月の下旬ぐらいに隣の町にある養護学校に転校を勧められました。多分、それでなくても大変なク

    • 【作曲家K16】恩師のこと 松本民之助先生

      恩師のこと 松本民之助先生 出会い 漫然と過ごしていた高校3年の9月。それまで習っていた作曲の先生から電話がありました。音楽大学の先生に君のことを頼んだからよろしくとのこと。その後すぐに松本先生から電話がありました。それまで作曲家になりたいと言う事は思っていて、その基本となる勉強は始めていました。でも、基本的に何を勉強したらいいと言う事は全くわかっていませんでした。先生のお宅を訪ねてお会いしてはじめての感想は厳しそうな先生だなぁと言うことでした。いろいろ話して言われた事は

      • 【作曲家K4】障害者を感じる時1

        子供の頃  私は音楽を専門にしていましたが、特に変わったところがある人間ではなく、いたって普通の家庭で育ちました。違うのは3歳の時に当時はやっていたポリオに感染し足に後遺症が残り、障害者になった事でした。記憶の最初の情景は近所の道を三輪車を引きながら(支えにしながら)歩いている姿です。小学校からは松葉杖を1本、前で支えにして歩るいていました。長距離は家族に自転車の後ろに乗せられて移動し、小学校のほとんどはそうやって移動でした。 杖を使って歩いた  六年生から養護学校に転

        • 【作曲家K1】はじめまして

          今日は、2年前に余りわからずになんとなく中途半端なホームページを作りブログを書いていました。それがいつの間にか消えてしまって、これから改めていろいろ勉強しながらnoteに投稿していこうと思いました。現在、リタイヤして毎日が日曜日の状態ですが本来作曲を専門とする一応音楽家です。高校教員を30年やっている間も作曲をしていました。今でもやれるだけ作っていこうと思っています。毎年、演奏会は続けていました、大きく展開するような仕事はできませんでしたが、周りの社会にいろいろな音楽を提供し

        【作曲家K17】オーケストラ部

          【作曲家K15】喜劇、ドリフターズ、志村けん、最近感じたこと

          去年、志村けんさんが亡くなりました。すごく残念に思っています。それは、最後の喜劇人だったように思うからです。喜劇人と言う言葉は最近使わなくなったように思います。どちらかと言うとお笑い芸人とかいますよね。私その言葉が大嫌いで、まだ芸人と言う方が職人的な二アンスがあって好きです。 喜劇って  落語、漫才、喜劇が主にテレビですが、子供の頃からよく聞いたり見たりしていました。昭和30年代以降ですが、いろいろ、ユニークで個性の豊かなタレントさんがよくテレビに登場していました。一番印象

          【作曲家K15】喜劇、ドリフターズ、志村けん、最近感じたこと

          【作曲家K14】音楽を知りたくて

          高3のときの自分   高校を卒業する寸前の9月に芸大の先生、松本民之助先生に習うことになりました。後で分かったのですが厳しいので有名な方でした。本当に何もできないその当時の私をよくとってくれたと思います。中学校で音楽に夢中になって、一応作曲の先生に習ったのですが、あまり熱心に勉強したわけではありませんでした。それはどういうことを学べば良いかと言うことをわからなかったこともあったのですが、音楽を甘く考えてたのだとおもいます。当時の段階でピアノもまともに弾けないし、作曲の方なん

          【作曲家K14】音楽を知りたくて

          【作曲家13】先生になって

          初任した学校  高校の教員になり初任で赴任した学校は、新設2年目でした。音楽の専門コースがある学校であったので、授業も普通の音楽の授業のほかに音楽専門と言う授業がありました。一応音音楽室が3つ、ピアノが13台、オーケストラ楽器一式と揃っていました。大きな音楽室が1つ、特別教室を改造した音楽室が3つ、ピアノの練習室が10室と整っていたのです。ただ、新設2年目と言うところで全てが真新しいものでした。私に任されたのは授業はもちろん、音楽コースの企画、運営など多岐にわたっていました

          【作曲家13】先生になって

          【作曲家K12】音楽を超えたもの

           学校の中の音楽を思う時、考えさせられることが多くあります。もし、多くの人が読むようなブログだったら私が書く事はすぐに炎上するでしょう。ブログをやっていて変なのですが多分ほとんど読まれる方がいないと思って書こうと思います。安全なところで書いていく事はよくわかっています。決して部活等で頑張っている方々を誹謗、中傷する気持ちはありません。私も一緒にやってきたことです。でも‥‥と思うのです。 音楽が越えた‥  吹奏楽の楽譜出版社でヒット曲をすぐにアレンジをして出版する会社があり

          【作曲家K12】音楽を超えたもの

          【作曲家K11】音楽の先生

          ブログで書いても更新がたまにであり、私のような無名で話題性の無いものをほぼ読まれないでしょう。それでいいのですが、書いていて老人の思い出話を綴っているように思われると結構心外なのです。障害者で高校の教員なりにいろいろありました。辛いこと、自分の力ではどうにもならないこと、理不尽なこと。今でも怒りが収まらないのは県の無計画な人間の顔が見えない、心の無い行政です。それを綴って行きたいと思います。 新任の高校  教員になったのは28歳の時でした。大学は入るために浪人3年、研究室

          【作曲家K11】音楽の先生

          【作曲家K10】障害、そして音楽との出会い

          小学校 3歳の時にポリオに感染して、下肢に障害が残りました。小学校入学時には松葉杖の補助で歩くようになり、普段の生活は困らなくなりましたが、運動が出来ないために体育は見学でした。体を動かしての遊ぶはで出来ないために友達との付き合いも少なかったと思います。子どもに運動の制限があると言うことは、喜ぶの少ない生活でした。だからといって特に勉強が出来るな訳でも、手先が器用な訳でも無く、学習能力は全く普通でした。また、父の仕事に関係で転勤が多く、転校ばかりで益々友達が出来る条件に恵ま

          【作曲家K10】障害、そして音楽との出会い

          【作曲家K9】芸大で

          音楽教育研究室  東京藝大大学院音楽教育研究室に入った頃は先生になる気はありませんでした。作曲の恩師からら大学院は研究テーマを持たなければならないが、わからないだろうからと、都内の小学校の音楽の先生、平沢元先生を紹介されました。初対面の私に平沢先生は、とにかく学校の中に入っていろいろ見ていきなさいと、私を快く受け入れていらだきました。それから、毎日のように平沢先生の元に通い始めました。そこで見、聞き、経験した事は私にとって一生を左右されるものでした。先生の音楽性、教育授業方

          【作曲家K9】芸大で

          【作曲家K8】音楽を学んで1

          作曲のレッスンの始まりは、和声と対位法です。2つの言葉はかなり難しい意味があって簡単には説明しにくいのですが、和声はコード進行法、対位法は旋律操作法などと簡単に言ってしまうとそうなります。あまり良い説明では無いのですが実際に勉強していてもなぜやっているかと言うことがわかりにくいのです。和声の教科書はヘ音記号の課題が最後まで並んでいます。対位法の教科書は全音符の旋律が5小節から8小節とか無数に並んでいます。しかし、だんだんやっていく時にその重要さがわかるようになります。作曲には

          【作曲家K8】音楽を学んで1

          【作曲家K7】音楽分析

          作曲のレッスンでは和声法と対位法は必ず勉強させられます。和声法とはコード進行の色々なパターンを学びます。対位法とは旋律のありかた、からみ方を学びます。簡単に説明してしまいましたが、一言で言える内容ではありません。詳細はここでは省きます。ただ、身に付けるまでに少なくとも3年以上(本当はもっともっと)の時間がかかります。難しいのは、理論的なことだけでなく音として耳の中に学んでいかなければならないことです。それとは別に音楽の形を学んでいく必要があります。いわゆる形式論です。これがま

          【作曲家K7】音楽分析

          【作曲家K6】教員になって 1 音楽コース

          浪人3年して、大学に残らないで社会に出た時は28才になっていました。芸大を出ても生活するための仕事は限られてきます。すごく才能がある音楽家のようにフリーで活動する事は私みたいな人間には不可能でしたので、千葉県の教員採用試験を受けました。幸い合格して、赴任した学校は新設2年目の3つの高校が同一の敷地にある高校でした。詳細は別にまとめますが、2年次から芸術3教科が各高校の選択コースになっているものでした。東高は美術、西高が音楽、北高が書道というような選択コースがありました。私の赴

          【作曲家K6】教員になって 1 音楽コース

          【作曲家K5】障害を感じる時 2 生死のさまよい

          養護学校へ転校  小学校6年の9月に江戸川区にある養護学校に転校しました。その養護学校は、小学部から高等部まであり、身体障害、知的障害ある児童生徒が在籍していました。(その頃情緒障害、自閉症などという子供たちの症状は多分認められていなかったと思います)建物は農業高校の後を利用して使っていた聞きました。決して古くはなく、後付けのスロープなどありましたが、エレベーターとかバリアフリーとかの設備は整っていません。当時、バリアフリーとかの発想は乏しかったり、またはなかったと思います

          【作曲家K5】障害を感じる時 2 生死のさまよい

          【作曲家K3】声優の若山玄蔵さん

          数日前、yahooの古いニュースをみていたら、声優の若山玄蔵さんが5月の下旬に亡なられていたのを知りました。若山さんについて子供の頃から聞いていた声で、余りいわゆるタレントさんのファンになることはありませんが、若山さんだけは別でした。小学校の時にローンレンジャーの声で出会ってからこの年になるまでずうっと聞こえることのできる声でした。残念なことに最近はその声を聞くことがまれになりましたが。とにかく深いバスの美声と発音の美しさは印象深く残ります。仕事に厳しい方で孤高の方だったよう

          【作曲家K3】声優の若山玄蔵さん