見出し画像

【作曲家K16】恩師のこと 松本民之助先生

恩師のこと  松本民之助先生

出会い
漫然と過ごしていた高校3年の9月。それまで習っていた作曲の先生から電話がありました。音楽大学の先生に君のことを頼んだからよろしくとのこと。その後すぐに松本先生から電話がありました。それまで作曲家になりたいと言う事は思っていて、その基本となる勉強は始めていました。でも、基本的に何を勉強したらいいと言う事は全くわかっていませんでした。先生のお宅を訪ねてお会いしてはじめての感想は厳しそうな先生だなぁと言うことでした。いろいろ話して言われた事は「ゼロに戻って勉強の仕直しです。」覚悟したとは言え、目の前のシャッターが降りました。先生のところに来て3回シャッター降りましたが、それが1回目でした。

レッスン
 習い始めて驚いた事は1から10まで厳しいことです。与えられた課題を実施していくことがレッスンなのです。とにかく私は器用ではなかったので一つ一つわかるための時間がかかりました。先生はダメ出ししかしません。何が悪いか言う事は一切ありません。課題がいい加減だったり何遍も同じ間違いをすると怒鳴りつけられました。何回叱咤されたかはあまりにも多くて覚えていません。休憩のときは音楽についての話はよくしていただきましてそれは私にとってどれだけ救いになったか分かりません。話に出た曲は全て聞き漏らす事無く、帰ってから調べました。そして後になってからどんどんいろいろなことがわかってきました。また他の生徒の課題の実施が見えたり、作品を受けることができたことを非常に勉強になりました。

受験
 音楽大学の作曲の入試は特殊です。今は少し変わったようですが、1回目が3時間3時間の課題の実施の試験、それに合格すると5時間の自作の試験、それに合格すると6時間の実測の試験、それに合格すると音楽の基本的な様子を見る試験となっていました。5時間6時間と言う時間は課題の実施とか実測について言えば大変に短い時間です。ですから訓練が必要になります。先生がそれに向けてうまく指導していただけました。2浪目から受け始めて3浪目で合格しました。

芸大に入って 
 結局3年間先生のお宅でレッスンを受け、大学で4年間。先生にお世話になりました、作曲の勉強と言うと簡単には説明しにくいのですが、和声と対位法、それと実作、作品研究になります。こう書いてしまうと、全くつまらないものを学ぶように思います。本来はもっと多様に勉強していかなければならないことでこれは書ききれません。音楽を学ぶと言う事はなかなか難しいことで、先生に指示したことだけは得られないそうです。自分でどんどん音楽の中に入り込んでいく姿勢が重要になります。松本先生から学んだ事は多くありますが、受験技術がかなりあった事は事実です。でも先生は何も教えません方向だけを示すだけです。それに向かって自分をどんどん開発してことで音楽が身に付いていくのです。でも、音楽大学に入ったからといってそれで良い作品が作れるわけでは無いのです。キムチの積み重ねと努力が必要になります。私は大学に入って知らず知らずに先生の影響下にあることを気づきました。レッスンを頼りにしていたのです。先生に作品を見せると良い悪いを言ってもらえます。ただ良い悪いを言ってもらえるだけでも非常に頼りになるのです。それに気づいたときに私はそれから脱却しな大学を卒業してから先生に作品を見せる事はなくなりました。

二十年経って
 先生のレッスンをうけている時期、先生の作品を聞く機会がありました。その頃作品の良し悪しはわからなかったのですが、しっかりとした作品であった事は分かりました。悪口になるようですが、何曲きても、私はどうしても好きになることができなかったのです。何か教科書を聞いてるみたいな感じがしてきてしまいました。また、物語をほぼ全部歌にした歌曲がありました。先生は語り節とおっしゃっていましたが長い曲で40分を超えるような曲もありました。私にとって1つも面白く思えない曲だったのです。それから二十数年、いろいろ作っていきました。ある時、民話作家の斉藤隆介と言う方の物語を本屋で見つけました。その語り口が非常に音楽の流れを感じてこれは歌になるなと思ったのです。長大で全部で45分ぐらいかかるようなものでした。憑き物がついたようにどんどん作ることができました。ふと気づいたのです。この物語どっかで聞いたことがある。そうだ、松本先生がこの物語に作曲をしていた。驚きと戸惑いを感じました。そして、見えないところで先生の影響を受けていることを思ったのです。
 2004年に89才で亡くなりました。
「嘘を書くな。」先生の言葉が耳に残っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?