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【作曲家K5】障害を感じる時 2 生死のさまよい

養護学校へ転校

 小学校6年の9月に江戸川区にある養護学校に転校しました。その養護学校は、小学部から高等部まであり、身体障害、知的障害ある児童生徒が在籍していました。(その頃情緒障害、自閉症などという子供たちの症状は多分認められていなかったと思います)建物は農業高校の後を利用して使っていた聞きました。決して古くはなく、後付けのスロープなどありましたが、エレベーターとかバリアフリーとかの設備は整っていません。当時、バリアフリーとかの発想は乏しかったり、またはなかったと思います。クラスは学習出来る能力別になっていて、1組、2組は普通授業、(この分け方はかなり曖昧で、知的障害がややある子と学習が遅れている子が一緒にされていました)3組は重度の知的障害のある子と言った分け方をいていると思われます。現在の特別支援学校のあり方は全く知りませんが、昭和30年代から40年代くらいまでは、学校という場所は学習能力が重視されていて(今でもそうですね)、養護学校も同じような括りあったのかもしれません。

養護学校での生活

 それまで、なぜ、養護学校へ行かなかったというのは、近くになかったためでもありますが、行く理由がなかったからです。普通学級の生活を無理なく過ごしていましたし、学校に迷惑をかけることもありませんでした。転校をした、というよりさせられたのは、引っ越しで移った小学校の担任に面倒がられたと思います。でも、養護学校で生活はとても快適でした。皆、何かハンデを持っています。自分だけではありまん。無意識のうちにあった負い目も劣等感も感じないのです。皆同じです。その開放感は味あったことのないものでした。特に体育に参加できることはとても嬉しいものでした。6年間、ずうっと見学してきたのですから。

大病院

 次の年、そのまま中学部に進学しました。中学部は先生が全く変わります。養護学校でも学科に関しては教員の普通免許で教えられます。知的障害等あるクラスは免許が必要だったようです。そこで、身障者のハウス的なものをボランティア(当時、このような言葉はありません)で作っている先生が私の足の状態を見て、障害者専門の整形外科の医師を紹介してくれました。そこで、障害の重い左足の状態の改善のための手術を勧められました。そこで、9月の下旬からその医師の所属している病院に入院しました。新宿河田町にあった国立東京第一病院(今、国立医療センター)です。昔、陸軍病院だったそうでとても大きく、正面玄関が立派で外来は裏からというような建物でした。それだけ大きな病院はそれ以降見たことがありません。小児外科、そこが入った病棟です。後で内部を回ってみました。地下に床屋、銭湯、食堂、売店(コンビニではありません)と揃っていて、看護学校も敷地にありました。最先端の医療のできる大病院でした。ただ、それこそ陸軍病院の後をそのまま利用しているで施設はかなり古くはありました。

小児外科

 病棟は入り口が狭く、奥へ長く廊下が続いて、入ってすぐにナースステーションがありその前鏡越しに幼児から小学生まで入っている病室が広々とあり、その奥、廊下沿いに4人部屋がありそこに中学生の部屋がありました。その一室に入りました。そこはすでに3人が入っていて症状はいろいろでした。特に窓際のベットはかなり重症そうでした。入院するとすぐに他の患者さんと打ち解けで仲良く過ごしました。授業が無いわけですから、中学生、好きに過ごしていました。(英語と数学はやれる範囲で独習しましたができない内容は後で困ったのです)

3回の手術とその後

 12月まで、左足の股関節、膝下、かかととほぼ一月おきに手術をされました。12月末、年末控え一応外泊ということで家に帰れました。左膝下はギブスで固定されています。家で好きに過ごしていて(多分もっと前、病院にいる時からだと思います)ギブスの中が痒くなってくるのです。私は何も考えずに古い物差しを入れて掻きました。そして、年の始め、口が半分近く開かなくなってきました。食事にも支障をきたすようになり、母が整形外科の医師だった叔父に相談したところ、それは破傷風だから急いで病院に戻った方がいいと言われました、(叔父は自分で手術した患者が後に破傷風になった経験があったそうです)その夜、タクシーで新宿の病院に戻りました。でも、病院では一晩、担当がいないからとそのままにされたのです。

破傷風

 次の日、ギブスを開けてみると大き傷口ができていました。専門医(麻酔科の医師)が来て破傷風と診断されて隔離されました。破傷風は傷口から菌が入って感染します。菌は主に土の中にありますが埃の中にも、どこにでもあるそうです。嫌気性で普通の傷ではあまり感染しませんが、不潔な傷とか、密閉された傷などで繁殖する様です。症状は主に口が開かなくなり、光、音に敏感になり、急激に発作を起こすし体が反り返るそうです。死亡率は50%。かなり恐ろしい感染症です。入院して4、5日以降の記憶はありません。その当時、破傷風の治療は血清を打って後、それが効き始める(1週間近くかかる?)までは本人の体力勝負だったみたいです。血清を打った後、体温を下げて細菌の活動を抑えると言った治療法がとられたようです。低温にされた記憶は全くありません。後で聞いた話、その後、2週間以上発作や体温の維持で大変だったようです。母は喪服まで用意しました。

目覚めた時

 それは歌声の様でした。小さい時にラジオで聞いた歌のおばさんの声かなと思いました。少しずつわかってくるとそれが規則的な音でした。もっとはっきりして来ると、上半身をかぶるテントの中にいました。聞こえたのはモーターの音でした。(酸素テントというもので、モーターで酸素を送り込んでいたのです)でもまだ、意識は朦朧としています。気配だけは感じて母がそばにいて時々看護師、医者が来るのを感じました。その内、喉にたんがつまり吸引機で吸い取っているのがわかりました。喉に穴が開いているのです。話すことがまともにできません。そして、鼻にも管が刺されています。点滴の管も身体中管だらけです。話ができるようになりそれまでの経過を聞きましたが、自分ではそれほど深刻には感じません。ただ、管に繋がれた状態は不快でした。そして、快方の向かう程、事の重大さを身に染みて感じてきました。気管切開(それをされていたのには驚きました)してそこにはめる装置があります。取り外せるのですが、1日外しているともう入らなくなりました。傷口が閉まって来たのです。

快方へ

 1月初旬に病院に入り、2月になりました。ベットの周りからいろいろな機材た無くなっていきました。私一人のベットの病室にまりました。別室に止まっていた母も家に帰りまいた。食事も普通になり、昼間は」病室から出て動いていました。ある日、足の手術を勧めてくれた養護学校の先生が見舞いに来てくれました。先生は「よかったなあ、よかったなあ。」を言いながら私の手をしっかり握りました。私は何も言えず涙が出るだけだったのです。そこで、初めて生ている実感を持ちました。その温もりは今でも忘れません。よくなっても毎日ペニシリン注射は打たれます。退院も近くなったある日の午後、いつものようにペニシリンを打たれ、少し経つと天井がぐるぐる回り、急激なめまいに襲われました。ナーズコールで看護師さんに連絡すると看護師さんが飛んできてくれたのですが、事情を話すと近くにあったタオルを洗面台に行き濡らし始めました。その時、備え付けの鏡を見ながら髪の毛を少し直したのです。私は「ああ、大したことないんだあ」と思ったのです。左足の術後は経過は良く、松葉杖でしっかり歩ける様になりました。退院したのは2月の終わりで、結局5ヶ月の入院でした。菌の入った創の後、頭の後の円形の脱毛、左足のかかと、右足の膝の外側、それぞれ床ずれ、そして、気管切開の痕が破傷風で残った痕です。(それらは今でも残っています)それから、やりたくて反対された音楽を習いさせてもらえるようになりました。

震える舌

 何十年後、テレビを見ていると不思議な感じの映画が始まりました。「震える舌」監督は野村芳太郎、音楽、芥川也寸志。面白そうなので観始めました。そう、破傷風がテーマの映画です。幼児が綺麗でない川で遊んでいて破傷風に感染するのです。かなり良く実態を表現しています。ネタバレになりますが、終わりの方で、子どもが「チョコパンが食べたいよ」と大泣きすると父親が慌てて売店に駆け込んでパンを買って走って転ぶ場面があります。そのバックにバッハの無伴蔵チェロ組曲6番のガボットが流れます。非常に美しい真面で見ていて身につまされ、涙が止まりませんでした。

そして

 十代までには人生に大きく左右することが沢山ありました。気持ち長い時間だったと感じます。自分が意図したり、望んだことでないことばかりでした。でも、辛くはありましたが、障害を抱えての生活は素直に受け入れられたと思います。問題は障害によって生まれる不自由さより、対人関係含めての社会生活でのいろいろな困難さの方が大変だったと思います。また、無神経に冷たい施設(校舎とか駅とか)を越えてゆくのも大変でした。退職直前、右手に痺れを覚えて、手の医者の診断を仰ぎました。「肘部管症候群」「長い間、松葉杖をついて歩いていたの神経が圧迫されているのですね」その時初めて自分の体がいかに無理をしていたか思いました。自分で書くのはなんなのですが、頑張って来たのですね。

川手誠(作曲家)



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