見出し画像

あえて白黒をつけない生き方で、少し生きるのが楽になった話 日本古典神道に学ぶ「包み込む」「光一元の原理」

YesかNoか、白か黒か。
勝ちか負けか、上か下か。

曖昧にしてはいけないことも
もちろんあるのですが、

なんでもかんでも二つに分けてしまうことは、
敵と味方を作り、競争を生んでしまいます。


競争が悪なわけではなく、
それが文明の発展を築いてきたのもたしかなのですが、

同時に、数多くの戦争の火種となり、
必要以上に人が傷つけられてきたことも事実です。


「ぼちぼち」
「まあまあ」
「ほどよい加減」
「少々」

日本語というものは、
YesかNoかはっきりしない言葉もたくさんあります。


それは、日本が本来「和合の国」であるからです。


善悪をはっきりさせず、あるがままに受け止める、包み込む。

時にはそういった姿勢が、戦を止める態度になります。


光一元の原理

山蔭神道の中に、
「光一元の原理」
というものがあります。

影も黒い光である、
元は一つである

という考え方。


宇宙空間には太陽など光を放つ恒星もたくさんありますが、
真っ白でもなく、真っ黒でもないですよね。

地球のチリに反射が起こるから、
本来光に黒も白もないところから、

光と影ができます。


しかし、影も反射していないだけであり、
黒い光であり、元は白も黒もない、一つの光であるのです。


光あるから影があり、影あるから光ある。

当たり前のように言われているし、
戦も絶えることの無いことのように見えますが、


あるがままを受け止める。
善悪の評価をせず、尊重し合う。

そんな考えが日本にはあります。

自分の意見を主張しないのではないです。
相手の意見も、自分の意見も尊重し合い、認め合うこと。

これが本当の多様性であり、一色に染め上げずとも、
攻撃、排除せずとも、我々は共存、和合する力をもっています。

長所も短所もない、ただ裏表がある”色の異なり”があるだけ


場合によって良くなるし悪くもなるのではないです。

影なだけで、裏なだけで、黒い光なだけであり、

本来良し悪しはないのです。


個人的には日月神示でいう、
「眼鏡をはずせ」
「レンズをはずせ」
「赤い者が赤きを見ると、色なきと思う」

というのは、
この善悪の判断をやめて、偏見を捨てて、
己の眼で、あるがままに物事を見よ

という捉え方もできるなーと思ってます。

過去の筆者の経験談

自分も元は白黒はっきりしないと落ち着かないタイプで、
雑談や出来事に必ず結論やハッキリとした学びを求めて

好きなものは好き、嫌いなものは嫌い 

とバッサリ切り捨てていくタイプでした。

合う人とは親密に、合わない人とは全く
といった所もあり、

これが悪いわけではないのですが、
心のどこかで、勝敗や優劣をはっきり求められることもある環境に、
どこか違和感も感じていました。


自分の意見は必要だと思えばはっきり伝える方で、
でも争いが起きそうだとおもったら、

違和感を抱え込みつつ黙るしかない……という状況に
モヤモヤすることもありました。


だからこそ、「あえて白黒はっきりつけない」
という考えは目からウロコならぬ目からオカキ🍘で、

まだまだ善悪で考えそうになるところもあるにはあるけれど、
この考え方で、だいぶ生きるのが楽になりました。

「間違った、ずれた考えは私が修正しなければ!」
というプレッシャーからだいぶ解放されました。


また、山蔭神道では、

「この世に役目のないものは存在しない」
とされています。


アドラー心理学でも、

「この世に必要ないものは淘汰されていく。
今この世にあるもので価値のないものはない」

と説かれ、


アイヌ民族の口伝の教えでも、

「カント オロワ ヤク サク ノ
アランケプ シネプ カ イサム」
(この世に役目無しに降ろされたものはひとつもない)

という伝承があります。


影も光を失っているだけで、役割がある、
日月神示にも、「悪を悪と見るは悪のやり方」
とされています。


どんなに極悪に見える環境、人でも、役目があります。
だからこそ、相手を殺すのでも、自己犠牲にするのでもなく、

肯定も否定もせず、
あるがままに見て、

上手く抱き参らせることができれば最高ですよね。

これが和合礼道の考え。
鏡は先に笑わない。

これもあくまで世界の見方の一つなので、
これでないとダメなワケではないですが、

簡単ではないけれど、
善悪をつけず、そのまま受け止める。

これができれば、だいぶ楽に生きれるようになると思います。
参考になれば幸いです。

矛盾した出来事も共存する とある動物と三人の男の実験


他にも「なるほどなー」と思った話を紹介させていただきます。

まず、3人の成人男性に目隠しをしてもらって、
それぞれに、とある動物を触ってもらいました。

すると、
一人目の男性は
「どっしりした動物だった」

二人目の男性は
「ヒラヒラしたエイのような動物だった」

三人目の男性は
「蛇のようににょろにょろした動物だった」

と証言しました。

三人とも触った動物は全く同じです。


一見矛盾した証言に見えますが、彼ら全員は正しいことを言っています。


答えはこちら。

鼻はどっしり長く、耳はヒラヒラ、尻尾はにょろにょろ、すべてゾウの特徴

一人目には鼻を、
二人目には耳を、
三人目には尻尾をさわってもらいました。

全てゾウの持つ性質の一部なので、
全ての証言が正解である……ということです。


このように、一見矛盾した出来事でも、

状況に応じて全く世界への現れ方が異なる
ということです。


どれが正しいのかの議論に議論を、戦に戦を重ねた末、

実はすべて元は同じ、
全く同じものを主張し合っていた……

なんてこともありえてしまうわけですね。


正しさや正義はその時代に応じて移り行くものだからこそ、

正しさを求めず、排除せず、

互いに認め合っていく精神が、今後の社会に求められることになりますね。

和合するためには、貢献すること


さて、ここまでの主張をまとめると、

  • 白黒つけないことで、争いを防げる

  • 影も黒い光、元は一つ

  • 裏や黒い光にも役割があり、上手く抱き参らせることが大事

  • 矛盾した出来事でも、共存することもある

といったことです。

同じ考え、同じ道で歩み寄ることは簡単でも、
違う考え、違う道で歩み寄ることが難しいのは確かです。


正しさを求めるかぎり、排除すべき敵が生まれ、
そこに争いが生まれます。

しかし、「私は私、あなたはあなた」
で他人事にしていても関係は生まれません。


「あなたを知りたい、喜んで欲しい」
そういった思いと貢献、歩み寄る態度が、
平和を作っていきます。


上手く変換し、見方を変え、善悪をつけず、
人類、物事すべてに役割があることを知り、

感謝して、礼を尽くす。


媚びるのではありません。

一人の対等な人間として、
彼は彼、私は私の違いを知ったうえで関わること。

十人十色と一言でいえば簡単だし、
みんな違ってみんな良い。

誰もが知っていることです。


知っている と やっている は
雲泥の差があります。(もちろん悪ではないにせよ)


あなたから、平和の輪を広げていきませんか?





Image by <a href="https://pixabay.com/users/kanenori-4749850/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=6657951">Kanenori</a> from <a href="https://pixabay.com//?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=6657951">Pixabay</a>


Image by <a href="https://pixabay.com/users/laurentmarx-2651758/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=1421167">laurent marx</a> from <a href="https://pixabay.com//?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=1421167">Pixabay</a>



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?