私と母と、カープの思い出。
2023年8月5日、念願の広島東洋カープの本拠地であるマツダスタジアムでカープの試合を観戦するという夢が叶った。
それは私の夢でもあり、同時に私の母の夢でもあった。
「いつかマツダスタジアムでカープの試合、観たいね」
前から母はそう言っていたけれど、新型コロナウイルスが日本で流行りはじめ、マスクなしでの生活が考えられない、もちろん大勢の人が集まる野球場にも足を運べない、そんな時期が到来した。
しかしそんな時期もようやく明け、今年(2023年)の4月に母が新聞広告の旅行ツアー一覧に『マツダスタジアムで観るバスツアー・広島対巨人戦』が載っているのを見つけた。
早速「行こうか?」という話になり、私は記載されているバス会社の電話番号に電話をかけ、無事に8月5日の試合を観戦するツアーに母と一緒に参加することが決まった。
私は広島に住んだことがある。
たった数年だが、臨床検査技師を目指していた私は広島に在るとある大学に通うため一人暮らしをしていたのだ。
中学2年生のときにストレスで倒れ、自律神経失調症で残りの中学校生活と高校生活はろくに登校しなかったにも関わらず、留年せずに卒業できて、浪人はしたものの晴れて大学に合格。
心機一転頑張るぞという意気込みはあったのだが、学生時代はほぼ引きこもっていたのが原因でもありストレスに非常に弱く、粘り強さもなければ人間関係を築く力もなかった。
どうして私はここにいるんだろう。
なんでこんなにボロボロなのに頑張らなくちゃいけないんだろう。
大学の勉強、座学はそこまで苦ではなかった。
しかし実習では自ら進んで行動することが特に困難に感じていた。
勉強や実習、さらにはレポートの提出に追われ、ついに私は幻聴が聞こえ始めた。
「統合失調症ですね」
近くの心療内科で病名を告げられた時、正直ホッとしたのを憶えている。
高校生のときから地元の病院の精神科に通っていたのだが、診断名がついたとしても『不安神経症』というしっくりこない病名だったからだ。
統合失調症という診断名はついたものの、環境や生活は変わらなかった。
遊んでいる同い年かそれくらいの他の大学生たちが羨ましく、それと比べて私は惨めだと思った。
大学に入って二年目、とあるボランティアの募集が目についた。
『献血の啓発活動として、マツダスタジアムでCCダンスを踊ろう!』
広島に住んではいるものの一度もマツダスタジアムに行ったことがなかったし、広島でしか経験できない思い出をつくるため、そのボランティアに応募した。
ちょうどその年は2017年で、カープは昨年に続いて優勝するという強い時期でもあった。
見事ボランティアの参加資格を得た私はyoutubeでCCダンスの動画を観ながら毎日練習し、ボランティア当日を迎えた。
当日はスタジアム周辺に張られた簡易テントで心臓マッサージを受けるスラィリーというシュールな光景を間近で見ることができたし、試合の5回裏が終わり、先ほどまで選手たちが駆け回っていたグラウンドに足を踏み入れて沢山の観客の前でCCダンスを踊ったという日本で本当に限られた人しかしないであろう経験をしたことは本当にありがたかった。
ちなみに、マツダスタジアムのグラウンドはとてもやわらかい踏み心地で驚いた。
「マツダスタジアムのグラウンドでCCダンスを踊ったから、もうカープファンになるしかないよね!?」
そう言うと、電話の向こうで母が嬉しそうに笑った。
それからカープの選手の顔と名前が一致しだした頃、春になって私は最終学年を迎え、遠く離れた病院へ実習に行くことになった。
この病院実習で私は限界を迎えた。
飲んでいる薬と統合失調症のせいで眠気がひどく、実習の最中に気がつけば意識が飛ぶように寝てしまうことが多々あり、ついには技師長に「帰れ」と言われてしまった。
寝たくて寝たわけじゃないのに、毎日苦しみながら頑張っているのに。
悔しくて、悔しくて涙があふれた。
実習を中断して病院の更衣室で泣いていると一人の臨床検査技師のお姉さんが「リンゴジュース、飲む?」と笑顔で慰めてくれた。
急遽実習先の病院から帰宅し、実習自体をしばらく中断する旨を大学の担任に伝えた。
そして私は実家のある島根に帰省した。
帰省した数日後、広島で大雨による洪水や土砂崩れなどの大災害が起こった。
実習先の病院もその被害の範囲に含まれていた。
私は命拾いをしたといっても過言ではなかったのかもしれない。
不思議な何かに私は守られた、そう強く思った出来事であった。
それから私は大学を中退した。
その後は実家に住みながら仕事に就いては辞めを繰り返した。
仕事でうっかりミスが多く、苦しんだ私は地元の病院で知能テストを受け、結果的に私は発達障害グレーゾーンであることが判明した。
生きづらい理由はそれだったのだ。
主治医はまさか私がこんなに言語性IQと動作性IQに差があると思わなかったのか、結果が書かれた紙を見て驚いていた。
なんで私は生まれてきたんだろう。
社会や家族とのコミュニケーションがうまくいかなくて傷ついたとき「私、生まれるんじゃなかったね」と母に言ってしまったことがある。
それだけじゃない。私は母を何度も責めたことがある。
過去に苦しいことがあっても家族としてあまり助けてくれなかったこと、私を産んだこと、父と結婚したこと……。
すべて過ぎたどうしようもなかったことを責めて、憎んだ。
母は母で辛い思いをずっとしてきたのを分かっているのに、責めてしまった。
母は私が学生時代の頃から、私の父から離婚するまでずっとDVを受けていたのを知っていたのにね。
私は去年(2022年)から精神も体調も徐々に回復し始めた。
母をたまに憎むことはあっても、前ほどでもなくなった。
コロナ禍を経て色んな生き方が世に広まり始め、少し楽になったのもあるかもしれない。
そして今年の春、私はアルバイトを始めた。
WBCで侍ジャパンが優勝した日、アルバイトの面接があってめでたく合格した。
現在そのアルバイトを続けている。
話を冒頭に戻すが、私も元気になってきたこと、声出し応援も解禁になったことでカープの試合を観戦することに決めた。
実はカープを応援してはいるものの、実際に試合を最初から最後まで観戦した経験は今年の8月5日まで一回もなかった。
「田中さん、スタメンかなあ。ホームラン見れると良いなあ」
田中広輔選手のファンの母は、カープの試合中継を見てわくわくしながら呟いていた。
私はというと広島に行くのは大学を中退する旨を伝えに行ったとき以来で、8月5日が近づくにつれ、楽しみと複雑さで胸が少しざわざわした。
そして8月5日当日を迎えた。
私は背番号55・エルドレッド選手(もう引退したが)のレプリカユニフォームを、母は背番号2・田中広輔選手のレプリカユニフォームを着て、マツダスタジアム行のツアーバスに乗り込んだ。
私は前夜ぐっすりだったが母は楽しみであまり眠れなかったらしくバスの中でよく寝ていた。
バスに揺られて約3時間、中国山脈を越え、最後の長いトンネルに入り、私は窓の外を眺める。
そして風景がトンネルの壁から、青空の下に島根では見ることのできない活気に満ちた賑やかな広島市の街並みがぱっとひらけるようにうつり変わる。
大学時代、島根から広島へ戻る時、何度この瞬間を見ただろう。
原爆が落とされ、一度は焼け野原になったであろうこの土地が100年も経たないうちにこんなに栄えるなんて。
「人間の力って凄いんだな」と私は毎回思ってしまうのだ。
マツダスタジアムに着いて、早速内野自由席のうちの2席をキープし、まずは目当てのスタジアムグルメを求めて球場内を歩く。
始めに買ったのはスタジアムグルメの中でも有名なカープうどん。
もちろん、全部乗せを注文した。
席に戻って食べ始めた頃には、うどんのかき揚げがふやけてしまっていたが、だしの効いた汁をとことん吸ったふにゃふにゃのかき揚げも美味いこと。
おいしさのあまり夢中で食べる。
炎天下で熱いうどんをすすり、汁を飲む。
ユニフォームの下で滝のように汗が流れる。
数日前、とある野球選手が「真夏のときは試合前にジョギングとかして汗をかいておくんですよ、そしたら試合中に汗で気持ち悪くならないんで」とテレビで話していた。
ジョギングではないけれど、カープうどんを食べて汗を流し、うどんの汁で塩分補給するというのは理にかなっているかもしれない。
その後、母はイチゴの果肉の入ったかき氷を買い、私は堂林選手プロデュースのぶどうシェイクを飲んだ。
マツダスタジアムのグルメのお値段は、そこらへんの喫茶店やレストランのメニューの値段と大して変わらないところがありがたい。
大雲海で涼み、そうこうしているうちに、球場内の赤いユニフォームを着た観客も増えてきた。
『DreamPark ~野球場へゆこう~』という曲が場内に流れ、気分が盛り上がる。
席に座り、広島駅へ入る新幹線が走るのを眺めていると、今日の先発投手が発表された。
この日のカープの先発は玉村選手。
あまり一軍で投げているところを見ていないので、どうなるんだろうと初めは思っていた。
そしてカープのスタメンが発表された。
スタメン発表はスタジアムの電光掲示板で派手に行われる。
今年のカープのキャッチコピー『がががが がむしゃら』。
それにちなんだスタメン発表の映像でテンションがうなぎ上りならぬ鯉のぼりになる。
そして待ちに待った8番の打順で田中広輔選手が映しだされた。
「やった! 田中さんスタメンだよ」
思わず母の肩をたたいて私も喜ぶ。
試合が始まり、先発の玉村選手が期待以上に次々といい球を投げていく。
するとサードを守る田中選手がライナーの打球を見事捕るナイスプレー!
「さっそく田中さんのいいとこ見れたね!」
と互いに喜ぶ。
広島の攻撃のときには、観客は各選手の応援歌を大声で歌い、ツインスティックを叩いて応援する。
選手が打った瞬間に「やったー!」と叫ぶほど興奮と爽快感を感じられるものはない。
そしてデビッドソン選手がホームランを打つ!
球場が歓声で溢れ、隣の席の夫婦(?)がわちゃわちゃとツインスティックを絡めてくれたことが嬉しくて印象に残っている。
どこに住んでいるのかも名前も知らない人たちと一緒に喜びを分かち合う、これはスポーツ観戦でしか叶わない、優しさを感じる経験かもしれない。
そして攻防を繰り返し、再び訪れたカープの攻撃で田中選手の打順が回ってきた。
一回目の打席では見事なヒットを打った田中選手。
「母の為にもう一度良いところを見せておくれ!」
願いが通じたのか、田中選手が打った球は大きく伸びて、伸びてスタンドへ!
「よっしゃあー!」と球場全体は大盛り上がり!
「お母さん、ホームラン! 田中さんホームラン打ったよ!」
もう今日の試合にしろ田中選手の活躍にしろ、私たちへの贈り物なんじゃないかと思った。この上ない喜びを私は感じ、母の肩をバシバシ叩く。
母も本当に嬉しそうだった。
そして試合はカープが勝利し、ヒーローインタビューはデビッドソン選手と玉村選手が選ばれた。
帰り際、私は隣の席の夫婦(?)に「ありがとうございました」と短くお礼を言うと「こちらこそ」と言って握手をしてくれた。
今日一日が終わってしまう寂しさと人の温かさを感じながら、帰りのバスの待つ真っ暗な球場の外へ向かって歩いた。
「楽しかったね」
「田中さんのホームラン、見れてよかったね」
「みんな活躍してたよね」
そんな話を何度もしながら、私たちは島根に帰った。
翌日、10月1日の阪神戦のチケットを購入した。
「それを楽しみにお互いまた頑張ろう!」
野球観戦という非日常を楽しみに、私たちはまた日常に戻った。
10月1日の思い出はまた別の機会に書こうと思う。
母とあと何回野球観戦に行けるだろう、そんなことをよく思う。
人生は長いようで、時間は限られている。
私は幸せなことがあると、大切な人の死とか世界が終わりとか、『終わり』についてよく想う。
「今日生きられたことは幸せだったな」
かみしめるように、味わうように想いに浸れば、心が満たされる感じを覚える。
「生きていてよかった」
私は最近そう思えるようになった。
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