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太宰治に頬を叩かれた。神保町で見つけた、聖書への入り口

「僕は、文学を通して伝道された人間なんです。」
大学進学で上京し、もうすぐ社会人3年目のはりーさんはいいます。東京に来たからこそ触れるようになった、街や文学。惹かれた理由や思い出、自身の変化について聞きました。

東京ライフスタイルマガジン
by 希望光教会(キリスト教福音宣教会)

進学や就職で多くの若者が集まり、出会いも娯楽も溢れる東京。忙しい現代を生きながら、なぜ2000年も前の出来事が書かれた聖書に惹かれ、人生のバイブルとするのか。東京というキーワードが切り口のインタビュー企画。


下北沢や高円寺の、古臭さが好き


ーー東京の好きなところは

下北沢と高円寺。古着、古臭い、小汚い。落ち着くんですよね。ビンテージ物が好きすぎて、大学生の頃はよく通っていました。

古着の中でも、歴史が好きなんですよ。ファッションとしての洋服じゃなくて、道具としての洋服が美しいと思う。そもそも洋服は道具として生まれたもので、道具だったからこそ、それぞれのディテール、ポケットの大きさだったり襟の形だったりに、意味があるんですよね。それを知って、凄く感動したんです。装飾じゃないんだ!使われていたんだ!と。

たとえば、トレンチコートの片方だけ布が一枚あるのは、綿が入っていて衝撃を吸収するためのものだった。ぶらさがっている腰ベルトは、手榴弾を引っ掛けるものだった。洋服の形状は、そのルーツに即したものであるべきだと思うようになりましたね。一つ一つ意味を知るのが面白かった。そしてその背景には、歴史があり、戦争があり、政治の動きがあり、、、そういったものを紐解いていくのが醍醐味なんです。

下北は、洋服が好きになり始めた人や、ファッション好きな人たち向きですかね。高円寺の方は、とにかくディープなんですよ。玄人好みの、良いビンテージ物がたくさんあります。

高円寺で友達と洋服を見て、あーでもないこーでもないと言ったあと、高架下の小汚い居酒屋で、あーでもないこーでもないと言って帰るのが好きでした。おっさんですね(笑)。

神保町の古書店に魅せられ、近代文学に夢中に


大学3年からは、神保町駅にもよく通うようになりました。神保町って、純喫茶と、古書の町なんですよ。駅を出て歩くと、絶対に視界に古書店が入ってくるんです。

古臭いものや、歴史があるものが凄く好きだったので、すぐに「古書かっけーな!」って。そんな小並感から立ち寄った古書店で、たまたま目に入ったのが芥川龍之介でした。なんか教科書で読んだことあるな、ちょっと読んでみよう、と思って100円くらいで買いました。羅生門から始まって、蜘蛛の糸、河童、鼻と読み進め、この人の考え面白いなと。元々、人の黒い部分っていうのも好きで。芥川龍之介は、人の悪い感情や悪の心を書くのが上手いんですよね。芥川を皮切りに、次々と文豪たちの作品を読んでいきました。中でも、芥川龍之介と太宰治が好きですね。実は、文学が聖書を学ぶきっかけにも繋がっています。

ーーなぜ近代文学から聖書に?

まず、本を通して、人生について色々考えるようになったことが大きいです。
太宰治の斜陽っていう小説の、ある登場人物の遺書にこう書いてあるんです。「生きる権利があるんだったら、死ぬ権利もあるはずです」と。その一節が、当時の自分に物凄く深く刺さって。太宰治に、「お前はなんで生きてるんだ」と、頬を叩かれたようでした。

一方、芥川龍之介って最後、自殺で終わっているんですよね。その遺体の隣にあったのが『聖書』だったと知って、「え、聖書って何だろう」と。

気になって、すぐに聖書を買いに行きました。キャンパス近くの本屋さんに。でも結局、その本屋では聖書が見つからなかったんですよ。代わりに、イエスの言葉っていう本と、池上彰さんの宗教についての本、2冊を買って帰りました。実際に聖書に触れたのは、しばらく後でしたね。

太宰治からの宿題。生きる意味や愛について


ーーその後、どうして聖書を読むようになったんですか

一つは、「生きる意味ってなんだろう」という、太宰治からの強烈な問いかけですよね。もうひとつは、人間関係での失敗ですね。人間関係で上手くいかないことがあったんですが、原因は自分にあって、しかも過去と同じ失敗を何度も繰り返していたと気付いたんです。あれ、このままじゃ俺、また同じこと繰り返さね?あれ、自分、変わらないといけないよね、と。

それからもう一つ、愛ってなんだろう、って思っていたのもありますね。心の中では、本当の愛っていうものがこの世に存在してると信じていて。大学3年の夏の日記に、「人生の目的は永遠の愛を手に入れることだ」って書いてあったんですよ。そのくらい、愛に対する渇望ってのが物凄く強かった。なのに、見つからなかったんですよ、その「愛」が。あるはずなのに、これはおかしい、ってなって。

生きる理由も分からないし、愛も分からない。そう思ってる時に、聖書に興味を持っていたことを思い出したんですよね。何かそこに、ヒントがあるんじゃないかと。

まぁ、元々自分は「神様はいない!」って思ってたんですけど。だから、友人の友人が、希望光教会に通っていると知って、何で神様信じているのか聞いてみたんです。そしたらニュートンの逸話について話してくれました。

ーーニュートンの逸話?

ある日、ニュートンが宇宙の模型を作ったんですよね、立派な。それを見たノンクリスチャンの友人が、「凄いじゃん、これどうやって作ったんだよ」と訊いた。それに対してニュートンは、「いや、あったんだよ、元々あったんだよ」って答えたんだそうです。友人は、「いや、こんな凄い模型、人が作らないと、あるわけねーじゃん」と。そこでニュートンが話したのは、「今君が言ったことと、君が信じていることは、矛盾しているじゃないか。こんなものでさえ、人が作らないと存在しないのに、あんなに精密に動いている宇宙、天体は、設計者がいないと成り立たないじゃないか」

その話が、めっちゃ衝撃で。それまで神様いないと思ってたのに、その話を聞いた途端、「確かに、神様いるわ!」と一瞬で覆りました(笑)。まさに、「目からウロコ*」ですよね。(*聖書から生まれた慣用句)

神様がいると分かったら、聖書を学ぶのが本当に楽しくて。「すげー!」「確かに!」の連続でした。聖書がめっちゃ楽しくて、教会に行くようになりました。

科学に秀でている人間ほど、神様をより深く信じているんですよね。僕はすっごく理屈っぽいので、理論とかじゃないと信じることはできなかった。そこに、ニュートンのエピソードがクリーンヒット。神様が教えてくださったんだと思います。

嫌いだった自分を、好きになれた


ーー教会に通うようになって、変わったことはありますか

一つは、「感謝」かなと。

小中学生の頃から、自分に自信が持てなかったんです。自分のことが嫌いだったし、自分が自分であることに対しての、誇りや自信が全く無かった。人と比べてしまう性格だったので、誰かと比較しては不平不満がよく出たり、感謝の思いを持てなかったりすることが多かったんですよね。

そんな中で、聖書は僕に「感謝」することの大切さを教えてくれました。

新約聖書にある、蒔いたもの刈り取るという、イエス様の種蒔きの喩えが好きです。かつ、牧師先生から聞いた「感謝はまた別の感謝を呼ぶ、不平不満はまた別の不平不満を呼ぶ、感謝はまた愛を呼ぶ」というメッセージに、感謝はまた愛を呼ぶんだ!と感動しました。感謝は愛を呼ぶ。僕の信条にしています。

「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

マルコによる福音書 4:3~8

少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。

コリント人への第二の手紙 9:6

聖書を学んで、神様がなぜ天地万物を創造なさったのかを知り、愛されているんだと分かるようになりました。一人ひとりに向けられた御心(神様の思い)。神様の愛と、神様の変わらない愛情。どんなに周りが敵になったとしても、神様・イエス様だけは手を差し伸べてくれるという安心感。

そういったことを、聖書や、教会で聞くメッセージを通して分かる内に、不平不満の種になっていた状況や環境、他人は問題ではないと気付かされましたね。

今は、より感謝することだったり、自分を大切にすることだったりが、ちょっとずつ出来てきているかな。かつては人と比べてなんぼの世界で生きていたので、そこから抜け出して救われたことに感謝しています。「神様さいこー!」みたいな。

「都立大学駅」近くのパン屋さん、TRASPARENTE(トラスパレンテ)にて

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