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雑感記録(141)

【文化的生活の向上】


今週は3連休であるということで、せっかく東京で生活し始めたのだから色々な場所へ行ってみようと思って我ながら驚く程にアクティヴな休日を過ごしている。昨日もちょっぴり遠出をして日本近代文学館へ行ってきた訳だ。それは昨日の記録を参照されたい。

昨日は興奮冷めやらぬままに記録を付けたので何だか思想強めなことを延々と書き続けてしまった訳だ。今読み返して見ると我ながら「結構危うい感じがするな…」と思ってしまった。ああいう書き方をしてしまうと、さも僕が左の人間みたいな感じがしてしまうが、決してそんなことはないとだけ断っておくことにしよう。ただ作品としてそういったものが好きなだけなのだ。僕の『雑感記録』の趣旨は「ただ好きなものを語りたい」と言うだけなのだ。大事なことなのでもう1度断っておくが、ただ作品が好きで語っているに過ぎない。それ以上でも以下でもない。

という書き方をすると何だか言い訳じみた感じがして自分でも情けないとも思う訳だ。好きなことを書いているなら堂々としていればいい。しかし、こういったSNSだとやはり自分の為とは言いつつも「常に第三者に見られている」という事実が実は存在している訳で、そういった所にも気を配らねばならないということは確実にある。想像力を各所に働かせることは重要である。

何かを書くということは同時に読まれるということが前提にある。これは紛れもない事実だ。例え1人で何か言葉を書いていても、それは書かれた人によって読まれるのである。つまり、自明なことであるが「書く=読む」ということなのである。今こうして書いている僕は同時に書かれる言葉、文章を読んでいる。では「書く=読む」ということは「読む=書く」ということになるのだろうか?

よく本を読む際に本に直接書き込みしたり、あるいは読書ノートなるものを用意してメモする人たちがいる。実は僕はメモすることが苦手な人間である。あんな瞬時に「これを書かねば」となれるのは純粋に凄い。僕の場合は読んで、自分の頭の中で咀嚼して、自身の過去の経験則や思想と絡める時間が少なくとも必要だ。とっさに書くことが僕には出来ない。

会議とかに参加しても、僕がメモをとるのは大抵会議が終った後だ。聞いたことを自分の中で咀嚼して書き連ねる。無論、会議中に出てきた重要なワードやフレーズのみは書くが、その場で文章を書くということはしない。これが果たして良いことなのか悪いことなのかは知る由もないし、そういった次元の話ではないのだろうが、僕にはこれしか出来ないのである。

何だか話が飛んでしまった気がしてしまったが、「読む=書く」ということも同時に言えるのかということは今の僕にはまだまだ考えるべき課題である。少なくともここで言えることは読むという行為によって書くという行為を触発するという事実があるということである。加えて「書く」と言う行為と「読む」という行為をどの範囲まで拡大するかということも言えるのではないのだろうかとも思える。僕にとって考えるべき課題の1つなのかもしれない。


はてさて、そんな言い訳じみたところから始めてしまった(実は書きたいことはまだ始まっていないのだ!恐るべき「書く」という行為!)。今日はどこへ行こうかと考えあぐねてとりあえず外へ出てみたのだが、実は目的を決めずに外へ出てしまった。「どうしようかな…」と考えながら歩き続けてみた。気が付けば…喫煙所…。喫煙者の性!暇さえあれば煙草を吸う。

自分が通っていた大学の喫煙所へ向かう。煙草を吸いながらふと、「俺、こんなにしょっちゅう大学来てるならここの図書館使わないと勿体ないよな…」と思った。そこで更に「そう言えば、大学のクレジットカードを作れば図書館に入館出来るんだよな…」と思い出される。煙草片手に大学クレジットカードのサイトをスマホで検索する。

年会費は大体1,400円ぐらいなのだが、校友会費と呼ばれるものが年5,000円掛かるらしい。所謂「母校への寄付」が校友会費である。年間で6,400円。高いなと一瞬思ったが、「いや待てよ。年間たったの6,400円で図書館の貴重な本を読み放題って考えたら安いな。歩いて行ける距離で交通費も掛からないし、近いから毎週行けるし、図書館22時までだから何なら仕事終わりに寄れるやん…。」と思い秒で申込を完了させた。手に持った煙草は火が消えてフィルターしか残っていなかった。

その後、どこへ行こうかなと再び煙草に火をつけ引き続きスマホで検索する。大抵僕が行きたいところなんてたかが知れてる。美術館か博物館のどちらかである。とりあえず「東京 美術館」で検索する。しかし、どうもピンと来る展示が中々ない。「うーん、どうしたものか…」と考えあぐねた末に行きついたのが東京都現代美術館だった。現在はデイヴィッド・ホックニー展を開催しているらしい。

それで初めての清澄白河へ向かう。早稲田から東西線で九段下まで行き、半蔵門線で清澄白河へ。半蔵門線なんていつぶりだろうとちょっとした感慨にふけりながら乗り換える。清澄白河駅で下車し地上へ出る。降りてみてまず思ったのは「東京のわりに落ち着いているんだな…」ということだった。僕は未だに東京の土地勘が無いので、どこら辺の近くかも分からなかったが雰囲気が落ち着いていて結構気に入った。

東京都現代美術館へ向かったのだが、しかし清澄白河駅から結構な距離がある。歩いていると住宅街が広がっており、人は沢山居るのに何だか都会の喧騒を気にせずそこに独特の空気感が漂っている。結構雰囲気好きだなと思いながら歩く。

住宅街を抜けると突如として現れた巨大な建物とそれに付随する巨大な公園。これもこれで何だか異質な感じがする。デカい道路に車はバンバン往来し、人々が多くすれ違う中で異質な場所。信号が青になるのを待ち美術館入口へと向かった。この公園はどうやら木場公園というらしい。

美術館の入り口へ向かい僕はげんなりする。チケットを入手するための行列。何列にもなっている人たち。どうやら30分待ちらしい。しかし30分でどうにかなる人間の数では決してない。恐らくあれは1時間は待たされるコースだ。今までの経験則で何となく分かる。それに冷静に考えてこのデヴィッド・ホックニーを1時間並んで待って、ごみごみした人の中を掻き分けて作品を見たいかと考えた時に萎えてしまった。僕はすぐ美術館を後にした。

何だか消化不良感が尋常では無かったので、そのまま木場公園を散歩することにした。どうやら今日は催し物があったようで法被を着た人たちで溢れていた。催し物の広場へ行こうかなと思ったのだが、人が多い所にわざわざ行くのも阿保らしい。とにかく人の波を避けてベンチに座る。

ベンチに座りボーっとする。そう言えば電車で読みかけの柄谷行人があったなと思い出しベンチで読書を始める。それにしてもこういう点では東京は良いなと思う。何と言うか無関心な感覚が意外と落ち着く。色々な人が居るのでベンチで本を読んでも別にこちらとて何も気兼ねせずに読書が出来る。これを地元でやったら…と想像すると無理だなと思う。結局僕は木場公園のベンチで1時間ぐらい読書をして帰路につく。


それにしても、東京に来てから僕の文化的生活は向上の一途を辿っている。そもそも仕事自体もある意味で文化的な部分に(とはいえどちらかと言うと教育寄りではあるのだけれども…)大きく関わっている。加えて、1人暮らしをしていると余剰時間が多いので、その時間で読書が捗るのである。まあ、つまりは「やることないから本を読む」と言った感じの生活なのである。

僕はそもそもインドア大好き人間なので、外に出なくても全然苦ではない。家に籠って只管本を読んだり、映画を見たりすることが僕には至福な時間である。1人で居ると言い方は悪いが、他のことに煩わされることが殆どないので時間を有効に使うことが出来る。無論、やるべきことはやっている。

そんな訳で、僕の生活は日々文化的な輝きを増しているような気がする。こうしてnoteを継続的かつ長々と書けることがその証左なのかもしれない。明日は生憎の雨らしいので1日籠って読書と映画にどっぷりと浸ろうと思う。気が向けばまたnoteでも書こう。

よしなに。





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