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雑感記録(108)

【産み落とされた言葉たち】


午前中、YouTubeを見ていた。その時に僕のオススメに舐達磨のインタビュー映像が流れてきた。僕は舐達磨の楽曲は好きで聞いているが、彼らのバックボーンやらどういう考えを持っているか、何ならどんな人たちが歌っているのかを具体的に知らなかった。それで見てみることにしたのだが、これが非常に興味深かった。

タイトルも「他人のことを言い出したらキリがない」っていうところも何だか個人的に気になった。詳細については実際に見て貰うことにして、見た目と考えていることのギャップに僕は驚かされるばかりである。言葉に対して真摯に向き合う姿というのは僕も見習いたいものだなと改めて感じるところではあった。


僕は朝礼を思い出す。

僕の職場では朝礼の中で、支店長が「今日の言葉」的な形で所謂偉人や有名人と言った人たちの名言などを紹介するコーナーが設けられている。大体、仕事に関係するような、ビジネス関連の人たちの言葉が多いように思うのだが、聞いていて「確かにな…」と思うことも実際ある。ちなみに、僕は何だかんだでこのコーナーが結構好きだ。

しかし、冷静に考えてみて不思議だと思わないか?偉人や有名人と言ったって僕らはその人たちのことを知らない。それなのに言葉だけがただ残り続け、それがその人を"偉い人"、"凄い人"に仕立て上げている。例えば、仮に僕がその言葉を残したとしたら、その言葉に重みやら凄みやらそういったものは宿るのだろうか?

つまり、どちらがアプリオリに存在するかということだ。その人の功績やら存在が先にあって言葉が存在するのか、はたまた言葉が先にあって、その後で功績やら存在が偉くなっていくのか、凄くなっていくのか。ややこしいところである。

僕らは生まれた時から、存在を認識してから言葉を覚える。そして誰かに教わるという行為を通じて成長していく。生まれてからは父や母。幼稚園、小学校、中学校、高校…。先生と僕らの関係性にそれは現れてくる。これは構造的な観点からしても仕方ないことなのかもしれない。権力的な問題というか…。

小さい頃から「先生は偉い存在だ」とか「親は偉い存在だ」とか刷り込まれている。無論、それは間違いない事実だ。特に親という存在は特別な訳であって、先生と同等に語ることがちゃんちゃらおかしな話ではある。ただ、僕らは親の言うことを聞く、先生の言うことを聞いて今まで生きてきた。でも、それって何でだろう?


正直、先生の言うことなんて別に聞かなくても生活できるっちゃできる。ただし、それはパーソナルの部分での話であって学校生活という学校というコミュニティという単位で考えれば到底不可能な話だ。集団という、自分以外の存在も同席する訳であって、自分1人の問題では決してないからだ。それが幼稚園から高校までで15年間続く訳だ。

ある意味で、先生は神的存在な訳だ。学校という、教室という場に於いて。その中で過ごす時間が長い僕らにとっては当たり前になる。良いか悪いかは置いておくとして。そうすると「先生の言うことは絶対」ということが僕らの知らぬ間に刷り込まれる。しかし、先生も人間である訳で、全てが全て正しい訳では決してない。

家に帰れば親が居る。僕らは子どもだから決定権など無い。そういう中で親の意思決定権の元に僕らの行動も左右されることが多い。それはそれで良いことなのかも分からないが、いずれにしろ家という空間に於いて「親の言うことは絶対」ということも刷り込まれる。これは大人になっても尾を引く。いい方向に行けば良好な関係性を保てるが、悪い方向に行けば当然悪い関係性になってしまう。

つまり、僕らは先生や親の言葉をまるで神の言葉であるかの如く小さい頃から刷り込まれている。それは僕らが意識していなくても、「いや、そんなことはないよ」と思っていても実際僕らの深層心理にはきっと刻まれているのだと思う。

仮に先生や親が間違えたことを言っていたとしても、「いや、あの人たちが言うんだからな…」となってしまう。存在が先にあって、言葉がそれに付随してくる。そういった環境に僕らは慣れ親しんでしまっている。誰が何を言うか。これが僕等には刷り込まれてしまう。


今この年齢になってみて、そういった齟齬に気づき始めている。多分だけれども、遅い。もっと早く気づければよかったのだろうけれども、ある意味で僕自身がそういった環境に慣れすぎてしまったこともあるのだろう。

色んな人と話して色んな気づきや、僕の心を穿つような数々の言葉はある。それを僕は汲み取りたい。産み落とされた言葉たちの数々。それが別に有名な人でとか、偉い人でとか、仲が良くてとか、好きでとかそういったことは関係ない。例え僕が嫌いな人からの言葉でも、ハッと気づかされる言葉はある。

凄い功績を残した人が残した言葉だから有難みがある。というのは僕は間違っていると思う。無論、言葉に重みというかリアリティというベールを言葉に被せるという点では間違っていないが、それは有難みではない。ぶっちゃけ言ってしまえば、僕らはその人の人間性何てどうでもいい。だってその人のことを知らないのだから。僕らは言葉からその人の幻想を追っかけているに過ぎない。

しかし、僕らはその幻想を追っかけ続けている。誰それが言った言葉だから有難みがある、重みがあるだのと。その言葉から勝手にその人を創造し美化していく。それはそれでいいことなのかもしれないが、それに溺れすぎてはいけないと思う。

言葉をもっとフラットに捉えても良いんではないかと思う。何というか言葉と作者を切り離すというか。言葉そのものとして捉えることが重要なんではないのかなと思っている。というよりも、ある意味で言葉に意味を持たせすぎである1つの象徴なのではないかと僕には感じられる。


何だかまたまた今日も話が纏まらないし、何を言ってるのかよく分からなくなってきたのでこの辺で終いにしようと思う。

ただここで言いたいことは、「誰が何を言う」というその「誰が」という部分を括弧にいれて考えるということなのではないのかなと。

よしなに。


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