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雑感記録(8)

こんにちは、こんばんは。

GWもそろそろ終わりを迎えますね。いかがお過ごしでしょうか。

僕はGW初日、「画集探しの旅」と題しまして

友人宅へお邪魔して、大雨の中神保町へ行ってきました。

大学時代、週3日で通っていた神保町も

今では年に数回行ける程度となってしまいました。

また、芸術全般について深い話が出来る友人たちとも

随分と会う頻度が減ってしまいました。

今回、久々に友人と会うことが出来て嬉しかったと同時に

様々なことについて「対話」をすることで

今まで見えてこなかったもの、また頭の中で

流動的であった思考の塊みたいなものが

確固たる思考として実を結び始めたことに何よりの快感を覚えました。

そこで今回はその友人との中で話題に上がったことを

流動的なものからさらに固定的な、確固たる思考へと導くために

今回はここにざっとではあるが少し書いてみたい。


〈芸術による「想像力」の鍛錬について〉


想像力のない人の考えることは途方もなく馬鹿馬鹿しく、その馬鹿馬鹿しさが底知れなく怖い。想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。いや冗談や言葉遊びを言っているわけではなくて、2の想像力しかない人間が相手に10の想像力があることを想像することは不可能にちかい。「不可能にちかい」という留保がついているのは、「この人は俺が想像できないことまで想像することができるんだろうな」という想像さえできれば、2の想像力しかない人でも2以上の想像力がこの世に存在しうることだけは想像できるからだ。それを相手に対する「敬意」と呼び、そういう敬意は文化や教養によって育てられてきた。中身までは想像できなくても、それがあることだけでも想像できれば、2の想像力しかない人の内面も豊かさに向かって開かれる。

引用は保坂和志「想像力の危機」『人生を感じる時間』(草思社・2013年発行)P.232より。

「想像力」とは何か。

それは上記引用を読んでもらえば説明する必要もないのだろうが

これは生きていくうえで必要不可欠な力だと思う訳です。

例えば誰かと話をする時に

「こういう言葉で話したら傷つくだろうな」

「この話題を振ったら相手は気分を害してしまうだろうな」etc…

こういった風に少なくとも考える訳ですよね。

それこそ、保坂和志が指摘しているように「敬意」として想像力を働かせますよね。

僕らは通常、生活していて

「いや、こんなの当り前じゃねえか!」というかもしれませんが

恐ろしいことにこれを理解できない人も存在しているのです。

もっと恐ろしいのは、自分には相応の想像力があると過信している人です。

2の想像力すらない人が「俺には想像力がある。」と

自意識過剰になってしまっていることが往々にしてあるということです。

そこで僕は思った訳です。


僕らは当たり前のように「想像力」を働かして生活している訳だけれども、その「想像力」がない人はどうしたら「想像力」を鍛える(萌芽させる)ことが出来るのだろうか?


結論から先に述べてしまうと


「芸術に触れて思考すること」


これではないかと僕は思う訳です。

あらゆる芸術作品、絵画、文学、哲学、音楽、映画、演劇etc…

こういったものに触れ自分の思考の幅を広げることでこそ

「想像力」は鍛えうるのではないだろうかと。

それは僕がそもそも芸術に関して触れてきた機会が一般的な人に比べて

ちょっぴり多かったから言えることなのかもしれないが

色々な人と話をするたびに強く感じていました。


少し話は脱線しますが

この間、別の友人と久々に会う機会があって色々と話をして

色々と聞いてきた訳です。

僕には到底分かりえない経験がそこにはあって。

それでも僕なりの想像力を働かせて、言葉を尽くし、相手を慮り

話をしていました。

その時にポツリと言われたことなのですが心に残っています。

「芸術的な素養って必要だよね。想像力1つ取ってもさ…」


果たしてどういった意図でつぶやいたか分かりませんが

この言葉が僕には響いています。

では、なぜ芸術に触れることが「想像力」を鍛えうるのか?


(ⅰ)多面的な思考

これは言わずもがなだと思います。

1つの作品に対して種々雑多な人が全く同じ思考をもつことはないですよね。

感じ方、捉え方取ってみても皆が皆同じではないですよね。

逆に同じ方向に向かって思考させてしまう芸術などもはや芸術ではないと

僕は少なくともそう感じています。

そしてここが肝心で、金子みすゞの言葉を借りるなら

「みんなちがって、みんないい」

これに尽きる訳です。僕はさらにそこから踏み込んで

こう見るとこう見えた、でも別の方向から見たら違う見え方もするよね。

ということを考えることが重要なのではないのかと。

つまり、自分の思考をさらに広げる作業。諸力を感じ取る。

これをすることが必要であり、尚且つ芸術はそれを助長してくれる

そういった作用があると思います。


(ⅱ)非合理性を愛するということ

昨今、合理性が重視されている世の中で

まあ、簡単に言えば「効率の悪いことは排除する」といった流れでしょうか。

勿論、効率がいいことに越したことはありません。

そうすれば自分たちの生活も豊かになるだろうし

何より、仕事が楽になることは嬉しいですよね。

僕もつらい仕事が楽になるのであれば嬉しいに越したことはありません。

ただ、ここで問題にしたいのは

「すぐに効率を求めること」

ここにあるのではないかと考える訳です。

今の皆が皆がどうか知りませんが、口を開けば

「効率よくやれよ。」「それ無駄でしょ。意味ないから辞めなよ。」と。

確かにそうなのかもしれないがそもそも

非合理性があることで合理性が生まれる訳であって

その非合理性に見向きもせずすぐに合理性、効率を求めるのは

いかがなものかと思う訳です。

非合理性が合理性に先立つ訳で、その非合理性についてよく吟味することで

初めて合理性、効率の良さが生まれてくるのではなかろうか。

それで話を少し戻すわけだけども

芸術って非合理性の塊だと思うんですよね。

効率が重視されるならそもそも芸術なんて1番最初に消えるはずでしょう?

なんで芸術は今も親しまれるんでしょうかね?

技法で考えてみてもそうですよね。

絵画だって正直、デジタル技術が発達してて今はiPadとかで簡単に絵が描けて

絵具で描くことだって本当は必要ないかもしれない。

それなのにある意味で非合理的な絵具で描き続けるのはどうしてでしょう?

文学だって哲学だって映画だってそうでしょう?

そこにこそ芸術の重要性があるのではないのかと思います。

非合理性を愛するということ、これに尽きます。

そこから「想像力」というのは広がっていくのではないかと。


以上、ここまで纏めてみましたが難しい問題です。

これからも考え続けていきたいと思います。

よしなに。

ちなみに、これらが今回の戦利品です。



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