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雑感記録(106)

【歩道橋を渡る】


信号が青になったのが見えた。しかし、この信号は赤に変わるのが早い。暑い。走りたくない。僕の横を矢継ぎ早に車が進んで行く。さて、どうするか。僕はこのうだるような暑さからいち早く抜けたい。待てない。僕は歩道橋を渡った。

最初の一歩を踏み出した。1歩目、2歩目…と昇っていくうちにはたと気付いた。「階段を上る方が暑いじゃないか」と。本末転倒な話だ。暑さが嫌で早く帰りたくて、信号を待たない選択をした。ところが、早く帰る為に取った「歩道橋を渡る」という手段により、逆に暑さを感じてしまった。阿保らしいったらありゃしない。

しかし、久々に歩道橋を渡るのは愉しかった。使用している人など居ないからスムーズな歩行が出来る。別に恰好を付けたい訳じゃなかったけど、敢えて歩道橋の階段を上りきり、直線の真ん中で止まって景色を眺めてみた。こうやってゆっくりと景色を愉しんだのはいつぶりだろうか。


あまりにも身近な場所すぎると、改めて風景を感じるなどということはしない。僕はこれを「当たり前だろ」という言葉で済ませたくはない。いつも眼にしている景色や、接している人や、匂いや…あらゆるものが「当たり前」であるということは実は奇跡の積み重ねなのではないだろうか。

歩道橋からまずは東側を眺める。車は西に向かって走る。高さがあると何だか車がちっぽけに見える。遠くに見える車は全体だが、僕の近くに来るにしたがって徐々に屋根しか見えなくなる。屋根。そうして西へ目を向ける。車の後ろ姿と共に風が吹く。

車の流れは止まらない。東から西へ向かって走っていく。その車が何処へ向かうかなんて僕は知らない。各々の目的地に向かっていて、向かう場所は別々なのに同じ道を走っている。不思議なことだと改めて思う。別々のことを考えているのに、歩いている道は同じだなんて何とも奇妙な話ではないだろうか。

ただ、歩道橋には誰も居ない。僕以外は居ない。どこかちょっとした優越感が僕を襲う。皆が歩く道から逸れたところで、僕は皆を見下ろしている。僕は空間の支配者になった気分だった。僕はこの道の上に居る。もしも、雲に乗れたのならばきっと、もっと何かが違って見えただろう。


ジャック・ケルアックの『路上』。タイトルだけが頭の中をよぎる。本は部屋にあるのに未だ読めていない。背表紙だけが僕を見つめている。

西からの風が心地よい。意外と涼しいことに気が付く。温められた空気は上に上に向かって行くと言うが、その生暖かさは感じられなかった。ベトベトした暑さではなく、少しカラッとした暑さ。梅雨とは思えない日だった。

夏が来る。うだるような暑さがやってくる。甲府盆地は熱が籠る。ジメジメした、それでも柔らかい暑さがやってくる。東京で生活していた頃に過ごした暑い夏は「暑い!」というより「痛い!」が先行する。しかし、肌に纏わりつく薄い粘膜のような暑さはあまり感じられなかった。優しさに包まれた夏が来る。

それでも暑さそのものはやはり苦手だ。僕は夏より冬の方が好きだ。夏は暑くなったら薄着になる。しかし、薄着になるにも限界はある。路上でいきなり服を脱ぎ始めて、裸一貫で街中を練り歩いていたら恐怖だろう。警察のお世話になるのは困る。

冬は寒ければ服を重ねればいい。おしゃれの幅も広がるし、対策も夏に比べてやりやすい。物理的に重ねられる限界はあるだろうが、その重なりに様々なバリエーションが生まれる。1つの服という道を進んでいても、それぞれの目的意識や考えていることは異なる。


流石に人の眼が気になりだした。別に誰かが見ているという訳ではないのだけれども、何故か気になる。悲しいことだ。生きることの困難さがここにはある。見られていないのに見られている。いや、厳密には異なる。見られていないが見ている自分を常に自分の中に設置しているのだ。自分で監視しているに過ぎない。

「きっと誰かが見ている」というのは「誰か」ではなくて「自分自身」なのだろう。小説に於いてもそうだが、最初に小説を読むのは我々読者ではない。作者自身なのだ。結局は何をするにしても「自分自身」という存在、それも自分で作り上げた「自分自身」という他人。この存在が先に居る。

こうして歩道橋の階段を上り、直線の上に立ちながら当たり前の景色に感動しているのは「自分自身」なのか、はたまた「自分自身」という他者なのか。さらには、こうして文章を書いている僕は誰なのか?

もっと言うならば、僕らはどこへ向かうのだろうか。何もなしに進むことが出来るだろうか。僕の中にある「自分自身」という他者に導かれて、僕らは進んで行くことを身に染みて感じた。誰かが照らすのではなく、結局は自分自身で照らさなければ意味がない。


しかし、何度も言うようだが僕らは止まれない。生きている以上、僕らの意志とは関係なく身体は動き続ける。それは「自分自身」という他者も同様だ。自分が「こうなりたい」とか「こうしたい」という人間の根底にある何かが常に動いているからこそ、気が付かないうちに成長している。

「歩道橋を渡る」という選択肢を選んだのは誰だ?「信号を待てない」という判断をしたのは誰だ?歩いている今の自分は誰だ?僕らは何人いるのだろうか?

こう考えてみると、僕らは可能性を日々抱えながら生きている。僕の中の「自分自身」という他者がその都度都度、その瞬間瞬間に立ち替わり、入れ替わり…。何かを始めようと思っても遅いことはないというのはつまりこういうことなのかもしれない。

朝、目覚めたらグレゴール・ザムザは虫になっていたのだという。本人がどう思っているか知ったことではないが、1つの可能性としてその姿を以て現れたということに他ならない。そこに意味を与えるのはそれを読んだ人たちに任せればいいことだ。

「自分自身」という他者それぞれに可能性があり、意味がある。というよりも各々が意味を持ちたがっている。眼に映るもの、耳に入ってくる音、あらゆるものがあらゆる「自分自身」という他者を触発し、皆が一同に介して溢れてくる。きっとこの瞬間というのが「言葉に出来ない瞬間」というのだろう。


言葉に出来ない瞬間というのは、僕の勝手な想像だけれども「自分自身」という他者大勢が「我先に!」と全面的に押し出されることで発生する渋滞なのだと思う。溢れるが故に言葉に出来ないのだと思われて仕方がない。

何だか矛盾しているような気がする。溢れるのに表現できないなんて、人間とは生きづらい生き物だと思われて仕方がない。愛で溢れているのに、それを表現できない。これがもどかしい訳だ。これを何とかして無理矢理に表現しようとすると、以前の記録でも記したが、「何でもかんでも語ることが愛ではない。」となってしまう。

伝えなくてはいけないことすらも埋もれてしまう。これだけは伝えなきゃ、いや伝えたいんだ!という気持ちはどんどん陳腐になっていく。それは何でもそうだ。あらゆる愛を語り伝えることは難しい。

僕が歩道橋を渡って見た当たり前の景色の素晴らしさについて書きたかったのに、結局伝えたいことは何だか変な方向へ進んで行ってしまう。まだ「ここぞ!」という場面ではないのかもしれない。

僕は恋愛に向いてない人間なのかもしれないと突拍子もないことを考えてしまう。伝えなきゃならない時に、言葉が溢れすぎて言葉に出来ない。あらゆる「自分自身」というありとあらゆる他者が渋滞する。本当に伝えたいことはどこにあるのか分からなくなってしまう。


僕は人に対して好意を伝えるのが苦手なのかもしれない。言葉で費やしてみても何だか、陳腐にしか自分自身でも聞こえない。いや、厳密に言うならば「自分自身」という他者たちがそれを邪魔する。しかし、態度で示すことが至上の愛の伝え方だとも思えない。

それこそ、先の繰り返しになるが「ここぞ!」という時にバシッと決められること。これは言葉でも、態度でも。僕はそういうことが苦手だ。ありのままに接したいけれども、求められた時には正直辛いことがある。恋愛とは難しい。よく彼女が居たもんだと自分自身でも不思議に思えてくる。

「言葉にしなくても想いは伝わる。」僕はこの言葉を昔は綺麗事だと思っていたけれども、意外と間違っていないのではないかと思うようになった。しかし、これは難しいことだ。付き合ってみて、如何に言葉が頼りないものか分かっただけでも僕にとっては大きな発見だった。

そして、それは僕がよく言うところの「自然にやられる」ということと非常に似ている気がしてならない。言葉では表現できない、言葉がより意味をなさなく成る瞬間。自然そのものが愛なのかもしれない。


はてさて、話が大分色んな方向へ行ってしまった気がする。何だか遠くまで来てしまったなという感慨がある。ここにある道はどこまでも続いていた。歩道橋には終りが来る。これは1つの定点だ。

当たり前が当たり前でないということを確認するための1つの手段として、歩道橋を定期的に渡ってみてもいいかなと思い始めた今日この頃。

よしなに。

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