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雑感記録(116)

【エッセイの愉しみ】


今日は蔵書整理の残り作業をしようと思ったのだが、あまりにも暑すぎて辞めてしまった。盆地はどうも熱が籠りやすい。吹く風も何だか生ぬるい温風で、身体を纏わりつくようなべったりした空気感。動けばすぐ肌がベタつく。背中や腹がじんわりとして、服に斑点の如く汗が染み出る。暑さというのは人をおかしくさせてしまう。

それで今日は1日自宅に籠り家から1歩も出ない生活をした。朝は『LEON』を見て、ナタリー・ポートマンの可愛さに心奪われるという至極幸せな時間を過ごした。しかし、何度見ても良い映画だ。エンディングのStingの『Shape of my heart』が流れるところなんかはグッとくるものがある。名作と言われる映画はやはり名作なのだ。

『LEON』(1994)

ナタリー・ポートマンというと、僕は『STAR WARS』のパドメを思い出してしまう。僕の最初のナタリー・ポートマンの経験はそこからだ。ある意味で大人の彼女を知っているからこそ、『LEON』は良い意味で衝撃だった訳だ。「なるほど、小さい頃から美しかったんだな…」と。


『LEON』を見終えた後、蔵書整理していた時に東京へ持って行くか持って行かないか悩んだ本が机の上に置かれていた。それを手に取り久々にパラパラとめくって読んだのだが、これがまた面白かった。読み終えた後で、「これは東京に持って行こう」と決心した。

園子温の『非道に生きる』。恐らくだが園子温の名前を聞いたことはある人が多いだろう。最近でも何だか問題になって一時期Yahoo!ニュースなどお騒がせしていたのだから、名前は知れているだろう。しかし、彼の映画を実際に見たことある人はもしかしたらあまりいないかもしれないだろう。

彼の作品の中で有名な作品と言えばやはり『冷たい熱帯魚』ではなかろうか。無論、他にも『自殺サークル』とか、『愛のむきだし』『ヒミズ』、『TOKYO TRIBE』とか『新宿スワン』とか…。まあ、挙げれば色々ある。個人的には『愛のむきだし』と『愛なき森で叫べ』が今のところのベストだ。

彼の映画を一言で表すなら「エログロ」それに尽きるだろう。しかし、その中にも人間模様がしっかりと描かれており、ただの「エログロ」で終わるということがない。その「エログロ」に至るまでのプロセスもしっかりしている(というと何だか変な表現だが…)。ひたすらに血が飛び出て、人が死んで…といった話であれば僕は好きではないが、そういうところもあるから見ていられるのだと思う。

それら映画の原点。そういったものが語られている。映画監督になるぐらいだから、幼少期から映画に触れていることは簡単に想像できたが、彼自身が詩に対しても造詣があったという点には僕は驚いた。


 自分の書く詩の中ではマセたガキのふりをしていたので、三島由紀夫の初期の詩や小説の匂いはとてもよく分かりました。自分では何ひとつ経験していないのに、物語の主人公たちは立派な大人を装っている。三島の場合には、筋力トレーニングをしたりして後から現実を自己イメージに近づけていった。でも僕は、詩を書いている途中で、これはまずいと思ってしまった。切腹したくなかったのです。リアルな自分と詩とがあまりにもかけ離れてしまって、このままだとジェームズ・ディーンみたいに暴走して事故死しそうだった。これが自己表現における一種の反省点になって、詩を書くのが少し嫌になりました。
 中原中也とか宮沢賢治に憧れて詩の世界に入っても、実際は思い描いているような世界じゃない。当時ぶらぶらしていて会ったヤクザにも「深作欣二の『仁義なき戦い』みたいなヤクザになりたいなら、本物の世界に入らないほうがいい」と言われたことがあります。そういうのは映画の中だけだから、つまらないものだ、と。それと似ているかもしれません。場末の酒場で中原中也と太宰治が酒を飲んでケンカしているような業界だと思ったら大間違いだというわけです。

園子温『非道に生きる』
(朝日出版社 2012年)P.29,30

僕はこの「リアルな自分と詩とがあまりにもかけ離れてしまって」という部分が面白いなと思った。芸術作品というのは、僕は個人的にだが、「何か創作者の日々考えていること、感じていることの蓄積の爆発」だと思っている。そうすると、無論作品にもリアルな自分というのが密接に関わってくることは言うまでもないことである。

こうして僕もnoteを書いている訳で。そうすると僕の日常での思考性だったりとか、日々感じることがその時々で溜まる速度は異なるけれども、それが溢れ出る瞬間にこうして書き記す。僕は僕自身のリアルかどうかは分からないけれども、あらかた一致はしているように思う。

僕はいつもエッセーじみた形で書き続けている訳だが、エッセーの体裁を取ると書いている自分と書かれている内容についての齟齬というのが生じにくい傾向にあるのではないかと常々感じる。その思考の速度感覚っていうものをわざわざ何か別のフィクションに落とし込む必要なしに、ある程度の一体感を持って書くことが出来る。日記も同じ形態を持つ。

園子温の場合はそれを詩作から見出した訳だが、やはりこうして自分自身も全く異なる媒体ではあるものの、何かを創作するということを考えてみるとやはりこういった齟齬というものを感じるのだろう。現に彼の場合はずっと関心のあった「エログロ」を一貫して表現できている訳なのだから、人間性はどうであれ、その姿勢は素晴らしいものがある。


このエッセーは一通り読んでみると、何か作品を創ろうとしている人、とりわけ映画の話にはなるのだが、そういった意味で結構良いことが沢山散りばめられている。僕は読んでいて励みになる部分も多かったし、勉強になる部分もかなりあった。

 とにかく自分を疑わないこと。面白いと思ったことを断念しない。自分を信用しない自分なんて、哀しすぎる。『自殺サークル』という映画で「あなたは、あなたの関係者ですか?」という謎のメッセージを描きましたが、まさにそれです。自分が自分のよりよき理解者であること。でないと、自分は自分と無関係になっていきます。
 これまでずっと同じ気持ちで映画を作ってこれたのは、極端に言えば「何を見ても面白くないぞ」という精神があってのことだと思います。人はそれを「反逆」と言うかもしれません。気にかける必要はない。それは別に、反逆でも反抗でもない。自然なんです。ただ好きなように自分が面白いと思ったことを追求すればいい。いつの間にか他人はそれを「非道」と決めつけるでしょうが、そんなときも、自分が自分の最も良き理解者であり、パートナーであればいい。自分を見捨ててはいけません。非道であれ―そのために、若い世代は自分の敵を見つけてほしい。そうした人たちの相手であれば、僕自身が敵になっても構いません。

園子温『非道に生きる』
(朝日出版社 2012年)P.169,170

何だか今になってもう1度読み返してみると、「ああ、転職してよかったな」と改めて思う訳だ。「ただ好きなように自分が面白いと思ったことを追求すればいい。」という言葉に少なからず救われた。何度も書くとくどいから、もう書きはしないが、やはり自分が好きなことをどういう形であれ追求できるような環境であったりとか、そういったものを求めるのは至極自然な訳だ。

さらに、ここで重要になるのは「自分が自分の最も良き理解者であり、パートナーであればいい。」という点であると僕は思う。これは僕自身、よく感じていることでもある。別に誰かに理解されたい訳ではなくて、自分自身で理解できていればそれでいいという考え方。

捉え方如何によっては独善的であると思われるだろうが、少なくとも僕はそう思わない。いや、独善的であっていいと思う。人間皆が皆、理解されうる存在では決してない。簡単にお互いに理解できるように出来てはいない。だから、皆こぞって自殺してしまった著名人や周囲の人間の環境からでしか「死因」を判断できない。無論、そこで判断する必要なんて実はなかったりもするのにだ。

理解するように努めることは大事だ。その人がどういう思いで、どういう気持ちで行動して、何を考えて、どういう態度で向き合っているのか。しかし、それでも完璧に理解できる訳ではない。その人にしか分からない事情というものがあり、その領域に僕らが土足でドカドカと入っていっていいものでは決してない。それこそ冒涜だ。


最近、著名人の自殺のニュースが舞い込んできた。別に僕はその人を詳しく知っている訳ではないし、テレビに顔が映れば「あ、あの人だ」となるのが関の山である。きっと彼には彼なりの悩みがあったんだろうと思うこと以外に何もできない。それが現状であり、現実だ。

しかし、とかく著名人ともなると連日テレビでその人の自殺の理由だったりを深堀しようとする。さらにはSNSなどで「追悼合戦」みたいな様相を呈していたりもする。僕は吐き気がして堪らない。いや、むしろ腹が立つまである。故人に思いを馳せることは重要だ。ただ、そのやり方にも限度というものがあるだろう。

言葉を選ばずに言うのなら、「死人に口なし」だ。何とでも言える。それが取材や関係各所から様々に話を聞く中で、当の本人が考えていたこととはかけ離れたことでも「死人に口なし」だから事実は何だってよくなる。もしかしたら、SNSで追悼している人は実は仲が良くなかったかもしれない。自分の好感度をあげる為に投稿しているのかもしれない。もしかしたら、あなたの何か一言がきっかけでそういう行為に至ってしまったのかもしれない。原因は自分にあるのかもしれない…。

ありとあらゆることを考えたら大々的に、パフォーマンス的に死を扱っているような気がしてならない。僕はそういった敬意を払わない追悼は嫌いだ。況してやそれにコメントする内容の薄っぺらさにもほとほと呆れてしまう。無論、追悼する気持ちや、故人を偲ぶ気持ちは大切だ。ただ、どうも見ていると世間に流されて便乗してやっていると思われて仕方がない。

とは言え、中にはしっかりとした気持ちを以て投稿している人も居る訳で、そういう人たちの投稿は文章を読めば何となくだけれども分かる。気持ちの籠った文章であったり、そこに映し出される故人の写真であったりと、そういうものを見れば察しの良い人なら分かるんじゃないか。


「自分が自分の最も良き理解者であり、パートナーであればいい。」

僕にはどういった理由でそうなったのかは分からないし、理解しようとは思わない。それはきっと、彼には彼なりの考え方や全部が全部伝えられることは難しい訳で、そういったものを自分の中にため込んでいくのだから、理解しようと思ってもそれは"類推""邪推"の域を出ない。

僕らに出来ることは「そっとしておき、心密かに偲ぶ」これで十分なように思える。そして、自分自身を見捨てないこと。これに尽きる。きっと。

変なことを考えてしまったが、今日久々に園子温のエッセーを読んで感じたことだ。しかし、エッセーを読むのは愉しい。

よしなに。


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