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雑感記録(221)

【「本」か「作品」か?】


本で語るか、作品で語るか。

これは音楽で言えばアルバムで語るか、曲で語るかということになるだろう。僕はこれについてふと考えることがある。例えば、「こいつの他の作品は好きじゃないけど、この作品は好き」ということ。僕は結構これが多い。その作家の作品を通して、その作家の作品が全て好きというのは実はあまりないように思う。僕が好きで止まない中野重治だって、古井由吉だって、谷川俊太郎や吉岡実だって…。勿論彼らの書く作品は好きだけれども全部が全部好きな訳では決してない。

そういう中で、「ああ、わりかしこの作家の作品は結構好きかもな」となれば中野重治や戸坂潤のように全集を集めるし、古井由吉や後藤明生、柄谷行人のように全集が入手しにくい作家については単行本あるいは文庫本でちまちま蒐集している。ここが個人的に悩まし所でもあり、飽き性な僕の弱点でもあるような気がする。その作品を単体で語ることは出来るかもしれないが、本として語ることは出来ないなと改めて思い知らされる。

もう少し簡単に且つ具体的に書こう。

例えば、古井由吉の単行本に『円陣を組む女たち』という作品がある。

この『円陣を組む女たち』に収録されている作品は『円陣を組む女たち』は当然のことながらこれ以外にも『木曜日に』『先導獣の話』『不眠の祭り』『菫色の空に』が収録されている。僕がもしこれらを語れるとしたら『木曜日に』と『円陣を組む女たち』、そして『先導獣の話』について語ることは可能だ。それは僕が古井由吉の作品の中で好きな作品だからである。これら単体で語ることは可能だ。

ところが、実際にはこの『円陣を組む女たち』というのは短編集であり、先に挙げた5つの短編で構成された1つの本である。仮に僕が「この短編集について語ってくれ」と言われた場合、僕にそれを語ることなどは不可能である。それは収録短編を全て読んだとは言えども、僕は結局作品を単体でしか見ていないからである。これら作品の相互作用など関係なしに、「それはそれ」として見ているからである。作品単体たちが集合したその本全体としての効果・効用などについて語ることは僕には難しい。

例えばだけれども、これが古井由吉の『辻』となったら話は別だ。所謂、連作短編みたいな体裁を取っている場合はまた別物である。

短編1つ1つで独立しているが、よくよく読んでみると全てが繋がっており、1つの物語として成立するのである。これは短編といえども、長編である訳だ。「話が繋がっている」と認識すれば短編であろうが何だろうが1つの作品として認識できる。だから『辻』なんかはある意味で例外かもしれない。短編について、個々の作品について語ることが全体について語ることと同じ方向へ向かっていくのだから。

これが僕としては悩ましいところである。つまりは、作品単体で語れることは語れるが、それを1冊の本という纏まりになった時に語ることが出来ないのである。「本が好き」と公言しておきながら、本について語ることが出来ないというのは致命的なことだ。悔しいことこの上ない訳だ。


だが、「作品単体で語るだけでもいいんじゃないのか?」という疑問は恐らくだが出てくるだろう。例えば先の古井由吉の例で言えば『先導獣の話』だったらそれについて語ればそれはそれでいいだろうし、『木曜日に』だったらそれについて語ればいいだけの話だ。

確かに、事実そうである。その作品だけにフォーカスして作品を読みほぐして語ることは可能である。だが、僕は文学を学んでいた身として「それだけで済む問題ではない」ということを身をもって体感した人間のうちの1人である。これは僕が卒論を書いている時に感じた。「全集で読める作家は、全集で少しぐらいは流れをさらった方がいいな」と。それについて話をしてみよう。

まず、作品を分析すると一言で言っても様々な方法がある。色々な観点で語れる。つまりは自由である。例えばだけれども、蓮實重彦に倣ってテマティスムで分析するもよし、バルトのコノテーション分析の手法を使うもよし、柄谷行人の言うマルクスの「価値形態論」から敷衍させてもよし、ドゥルーズの『ミル・プラトー』からリゾームとかの概念を持ってきて援用するもよし…。やり方は様々である。僕はちなみに、中野重治を論じた際には天皇とエクリチュールという観点と、権力という観点からフーコーの『監獄の誕生』や『言葉と物』、『臨床医学の誕生』などを使用しながら病院の描写について考えてみたりした訳だ。

それで僕は中野重治の1つの作品を取り上げてその作品を分析していった訳だが、まあ、彼を知っていると分かると思うが一応プロレタリア作家な訳だ。文章の至る所に所謂、国家権力との描写、あるいは天皇の描写がちょこちょこある訳だが、何も僕が卒論で取り上げた作品だけでそれが表現されている訳ではない。初期の他の作品にも表現は違えども、そういった描写がなされている訳だ。例えばそこで比較することも出来る訳だ。「その描写の差異はどこから来るのか?」とか、「この頃の文体ではこんな感じの表現だったけど、この作品だと直接的な表現になってるけど何で?」とかね。

あと、これはまあ取り上げた作家が作家だから、所謂「転向問題」についても考えなければならなかったのね。つまりは、今までの文章を棄てて新しい文章を書いていくということに他ならない訳だ。だけれども中野重治は転向後になった方が何だか凄く個人的には面白いのね。特に『五勺の酒』これは名作だね。転向後すぐに書かれた作品は『村の家』で結構評価が高いんだけれども、僕はそれよりも『五勺の酒』の方が好きだ。文体も皮肉っている感じが堪らなく好きである。

そう考えると、「転向」という出来事を境として文章もきっとそれに影響を受ける訳だ。そこを1つの定点として、文体を見るのも良いかもしれない。あるいは批評も結構書いているので、批評の対象の変遷であったりとか、文章に対する考え方も当然に変化してくる訳だよね。そういうものもひっくるめた上で考えないといけないんだ。つまりは作品単体だけで語ることは出来るけれども、その後の接続が何もできないのは面白くないよねって話だ。

そう考えると、「作品を単体で語る」ということの方がむしろ難しいような気さえしてくる。いや、というよりも事実である。僕は先程から「作品単体で語れる」と書いてはいるが、結局それについて外部からの力を借りなければ分析することはおろか、作品を面白く読もうとすることすらできない訳だ。ということは、その作家の作品単体を語るということは同時にその作家の他の作品についても触れていなければお話にならないということではないだろうか。

僕が何かの作品単体について語る。例えば昨日の横光利一の記録。

こうして書いてはいる訳だが、実際読んでみると有島武郎に話が飛んでみたり、僕の大嫌いな『君の膵臓をたべたい』に話が飛んでみたり。『春は馬車に乗って』だけでなく外部のそういった所からの要素が必須になってくる。いや、というか自然と出てくる。それでここに例えばだけれども、横光利一で言えば『純粋小説論』っていう迷著がある訳で、こういう所から考えても良かったはずだ。それに横光利一の作品を考えるとやはり関東大震災前後やあとは映画の存在なども含めて語ることが出来たら厚みが増すんじゃないかと自己反省するところではある。

これらを組み込もうとすると、やはり横光利一の作品を総覧しておくことは重要だ。あるいはそれに関連するような他の作品を読んでおくということは重要なことではないか。全集はそれが手っ取り早く行えるから最高なんだなと、大学を卒業してこの歳になってやっと全集の有難みが物凄くよく分かる。ちなみに『中野重治全集』は筑摩書房から出ている。筑摩書房さんは『日本明治文学全集』や『日本現代文学全集』も出している訳で、個人的には本当に頭が上がらない。


そんな訳で、これまた話が脱線してしまった。

僕は先程「本を語ることが出来ない」と書いた。加えて「作品単体でなら語ることが可能だ」とも書いた。しかし、これは間違えである。作品単体で語るという行為そのものが本を語ることに他ならない。それは作品単体を語るためにその周辺の本を手当たり次第に読むからである。その収録されている本は読まねばなるまい。

と書いておきながら、これ卑怯なことを言うようだが、昔の作家は特にだが最初の発表媒体が雑誌である。つまりは、それ単体でそこに在る訳だ。あるいは連作短編なら、「連載」と言う形で月を追うごとに新しいものが掲載されて行く訳だ。つまり、作品単体で語ることその行為自体が本を語ることに他ならない訳だ。僕等が最初に目にするのは単行本ではなく雑誌媒体が殆どである。そこから単行本にするなりどうするなりとなる訳だから、アプリオリに存在するのは「作品単体」な訳で、「本(=単行本)」などはただの受け皿でしかない。

しかし、料理も見栄えや配置によって美しさが変わって見えるでしょう。だからね、本を語ることは陶器を語ることなんだな。多分だけれどもね。

何だか何を書いているのかよく分からなくなってしまったのでこれぐらいにしよう。

参考にするな!

よしなに。




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