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雑感記録(45)

【PCR検査を受けてきた話】


今日も仕事に向かおうと朝目覚めた時、いつもとただならぬ倦怠感に見舞われた。この倦怠感をどう説明すればいいのか分からないのだけれども、とにかく「通常通りではない」ということは僕自身感じた。テレビで報道されているような症状は倦怠感のみである。「仕事に行けなくはないな」と判断した僕は途中まで仕事へ向かうのだが、やはりどうもおかしい。これは病院へ行くしかない。仕事を急遽休み、病院へ向かった。

直属の上司へ連絡し、今日の仕事の引継ぎ等を簡単に済ませ病院へ向かうこととした。しかし、急にお休みになるとやはり中々引継ぎもうまくいかない。お陰で僕は朝から怒られる羽目になったのだが…。病院へ向かう途中も何度か連絡が来る。仕方がないとはいえ、何だろうな…複雑な気持ちである。


かかりつけ医へ連絡し病院へ向かう。受付やらは全部外で済ませ、駐車場に置いた自車の中で呼ばれるまで待機。しかし、病院へ行ってみると殆どがPCR検査や抗原検査を受ける人たちばかりであった。ここ数日感染者が増えていることもあってかやはり病院も混雑していた。

病院でたぶん待たされるんだろうなと想定していた僕は本を持参していった。こう元気がないときや若干精神的に参っている時に僕は保坂和志を読む。車の中で自分の番が来るまで貪るように保坂和志の『人生を感じる時間』を読んでいた。

しばらくすると看護師さんが窓をノック。検査キット(と言っても蓋のついたプラスチック状の試験管的なもの)を持ってきて、1枚の紙を渡された。個人的にそれが面白くて何度も読み返してしまった。そこに書かれているのは「唾液の出し方」であった。ちなみに酸っぱいものを想像して出す唾液はダメらしい。

しかし、いきなり「唾液の出し方」なる紙を渡されても、逆に緊張してしまって出しにくい。僕はお陰で唾液の出し方が分からなくなってしまい、かなり手こずってしまった。下を向いて口をただおっぴろげにしていたが、これは口の中が乾きよだれどころではない。試験管の口もそこまで大きくないから垂れる唾液を入れるのは至難の業だ。

うーん、困ったな…と思いながらなんとか唾液を既定の位置まで入れることに成功した。看護師さんに「出来ました」と試験管を渡したときに「あなた若いから早く出るもんだと思ってたけど、結構時間掛ったね。」と言われ僕は衝撃を受けた。あれ、僕まだ26歳なんだけどな…。

何事も普段意識せず、簡単に出来ていること程意識した途端に難しくなるものだと改めて痛感した。紙に言語化され認識できるようにしてしまうのだから、余計に変な感じがする。あんな量の唾液を意識的に出すことは僕には難しいなと思った検査であった。


検査が終り自宅へ戻る。携帯を見て職場からの連絡が数件あった。それに対し1つ1つ答えていく。一通り答え終わった後で「ゆっくり休んで」とか「お大事に」とか言われるんだけど、多分本心からそんなこと思ってないだろうと改めて痛感した。

体調自体は本当にただの倦怠感しかなかったし、時間が経つごとに徐々に回復していったから自分の感覚では「問題ないだろう」という気持ちでいるが、万万が一ということもある。何事も用心することに越したことはない。

しかし、まあ何と言えばいいか。体調不良で仕事を休むとなるとどうしても罪悪感みたいなものが拭い切れない。何より自分がしなければならない仕事を他の人がやってくれるからだ。ただやはりそこで僕は勿論、当然に罪悪感を感じるのだけれども、「僕が居なくても仕事って回るんだよな」って改めて思ってしまう。僕自身も代替可能な商品であるなと痛感した。

柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』や『世界史の構造』でも触れられているように、僕らの労働力も1つの商品として提示されている。しかも、昨日の記録にも記したが、事細かなマニュアルやルールによってパッケージ化された商品であるところの僕という労働力が必要なのであって、僕そのものとしての商品は別にどうでもいいことこの上ないのである。


僕らという存在が「労働力としての商品」として措定されているこの世の中で、果たして僕は僕でいられるのだろうかと改めて考えてしまう。例えば、僕という存在の、個我の詰まったパッケージ商品としての労働力を購入してくれるところは果たしてあるのだろうか。まあ、そういうところを見て購入してくれる人が居るなら僕は嬉しく思う訳だが、現状そうではない。

冷静になって考えて見て、会社が採用する基準というのは、「いかに自社にあったパッケージ商品としての労働力を構築することが出来るか」ということに重点が置かれている気がする。所謂「会社愛」を育成すること。これに尽きる訳だ。

しかし、どうしたものか。僕は入行してから全く以て会社に対する期待もなければ本当に何にもない。何故僕は銀行という業界へ片足突っ込んでしまったのだろうと本当に悔やんでも悔やみきれない。

そう考えている訳だが、中々最初の1歩というのが踏み出せずに僕は地団駄を踏んでいる。だからこうして今も踏ん切りがつかず、こんなクソみたいな愚痴愚痴した内容で記録を付けてしまっている。ここのところの僕はやはり様子がおかしい。自分でも分かるぐらいに様子がおかしい。

一旦、仕事から距離を置きたいなと考えているのだけれども、そうなってしまうと僕の収入源は無くなってしまう。正直、実家で生活しているから最低限の衣食住に関しては問題ないのだろうけれど、やはりこれまた罪悪感なるものが心の奥底で芽生えてしまうような気がしてならない。


以前、保坂和志の何の作品であったか忘れてしまったが「プー太郎」についてしばしば語られることが多い。僕はそれを読んで「いいな、こういう人達みたいになりたいな」と常々思ってしまう。あ、思い出した。確か『プー太郎が好きだ!』っていうタイトルだ。

新聞やテレビがニートを問題とするとき、「生涯で得られる収入の差が正社員とアルバイトでは二億円になる」とかそんな金の話ばっかりしているが、人生の意味や価値を金に換算しようとは思わないからこそ、プー太郎という人生を選んだのだ。そもそも人生の時間と二億円のどっちが本当に貴重だろうか?即座に「二億円」と答える人の方が間違ってないか。

保坂和志「プー太郎が好きだ!」『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』
(草思社2007年 P.60)

さらにもう少し引用してみたい。

いまさら確認しておかなければならないが、私が好きなのは「プー太郎」一般でなく、"××さん""△△君"という個々の人間なのだが、彼らにはやっぱりプー太郎としての共通した雰囲気がある。あくせくしない。金を評価の尺度にしない。だから金に汚くない。面倒くさいと思ったら、さっさとやめる。自分中心に考えていなくて、けっこう無私なところがある。などだろうか。

保坂和志「プー太郎が好きだ!」『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』
(草思社2007年 P.66)

こういう生き方もいいなと思う。多分だけれども、僕等みんなそうだと思うんだけど先の見えないことに対して不安を抱きすぎる傾向があると思う。というより、自分の認識できない範囲外のものに対する畏怖というのかな。そういったものがあるんだろうと思う。それに対しての強弱の違いってところなんじゃないかな。

1歩踏み出せる人は先の見えないことに対する不安の強度が弱くて、別の何かに代替可能なのだと思う。好奇心とか言いかた悪いけど復讐心とかそういったものかな?そういうのに置き換えが簡単に出来るのだと思う。ただ、僕はどちらかと言えばその不安に対する強度が強いんじゃないかなと思う。つまり、あれこれあることないこと考えてしまうのだと思う。

プー太郎はその点、本当に先々のことよりも多分「今、この瞬間」っていう感性を本当に大事に出来るのだと思う。僕もそういう人間でありたいとここ数日強くより強く感じている。


勿論、会社に入ったことで様々な出会いがあり成長できたことは言うまでもないことなのだろうけれども、僕は僕の時間、「今、この瞬間」をやはり大切に生きていきたい。例え、周囲にやいのやいのと言われようが僕は僕の道を生きたいと強く感じている。いや、熱望している。

昨日から、やはり僕はおかしい。本当におかしい。僕は病に侵されているんではなかろうか。PCR検査受けといてよかった。

僕も愛すべきプー太郎になりたい。よしなに。


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