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春のような温かさがいつもある学校に… 言葉と行動で伝えることの難しさと温かさ 〜心の宝物256〜263

🌷体育委員の決意と行動

山に囲まれた小さな学校
秋深まる11月の半ば。今週の全校集会は高山体操。恒例でしたが、体育委員会の8名の児童は、いつもと違う緊張感で臨んでいました。

「集会後、体育館から退場するときの行進がだらだらしたものになっている」
先だって開かれた体育委員会の中で、委員の問題意識が一致しました。

実は私も少し前から同じ思いをもっていました。
「学校の伝統」とされているような「よき活動」で、ときに陥りがちな「手段の目的化」が起こっているように感じていました。

ドラマと熱意に満ちて創設された特色ある活動が「学校の伝統」と名付けられ、毎年継続されるうちに「当然行うもの」になっていく。「何のためにそのことに取り組むのか」という活動の値打ちへの注目が年々薄くなり、意義も内容もバージョンアップされることなく、それでも継続だけはされていく。創設の経緯や熱量を知る教職員も、子供も、異動や卒業で入れ替わる。

そうなると、その後に来た職員や子供にとっては、ただそこにある、もっと言えば、「伝統」とか「学校の自慢」という、実感の湧かない言葉だけを根拠に、同調圧力に押されて、ただ「させられる」活動になる。子どもにとっては意欲が上がらず、教職員にとっても値打ちを感じられず、形骸化して先細っていく。やがてどこかで疑義が提起され、廃止されていく。
この学校の「行進退場」も、似たような状況だと感じていました。

体育委員の児童が同じ思いを持っていたこと、それを機に、彼らが、この「行進退場」の意義や値打ちを話し合ったこと、活動として再生するために、次の、「高山体操」の集会のときに、全校に語り、自分たちで見本を見せることに決したことを担当の先生から聞かせてもらいました。

もちろん、その先生の導きも大きかったことは言うまでもありません。
それでも、子どもたち自身がこの活動を大切に思い、「それができる自分たち」に誇りをもっていること、だから何とかしたいと願い、行動を選択したことに、心から喜びを覚えました。

そうして、子どもたちとはちがう、どきどきした気持ちで、この日の集会に臨みました。

🌷言葉と行動で伝えることの難しさと温かさ


委員長は6年生の彼でした。
健康な体作りのために、オリジナルの「高山体操」を、過去の児童と先生が考案し、続けられてきたこと。退場をあえて行進で行うことにも、運動としてのねらいがあること。それだけでなく、動きをそろえることを通して心をそろえ、学級として、学校としてのチームワークを高め、よりよい学校にしていく意味もあることを、明るくはきはきと話しました。
その後の行進の示範では、まるで小さな子供のように元気に足をあげ、腕を振りました。その思いは、全校児童に確実に届いていました。


6年生の彼女が副委員長でした。隣の4年生の女子が、恥ずかしさから手足が縮んでいるのに目を留め、小声でしっかりと、しかし笑顔で励ましました。はにかみ屋の彼女の特性を十分に理解し、配慮した上でかけた言葉は、心の深いところに響いたようで、精一杯のはつらつした動きを取り戻しました。それを見守る表情も、とても温かでした。


6年生の彼は、二人を支える立場でした。温厚で真面目な人ですが、そこは6年生。いくら決意したとしても、微妙な気恥ずかしさがそう簡単に霧消するはずもありません。それを微塵も感じさせない見事で切れのある動きでした。大柄な彼が、眼鏡の奥の目をキラキラさせながら、行進する姿には、語らずとも伝わる説得力がありました。


5年生の彼の動きもはつらつとしていました。多くを語る人ではありませんが、実直な人柄そのままに、精一杯の思いが伝わる姿を表現し、仲間からも認められました。後年彼は体育委員長として、高山体操を、それを通して全校児童の心のつながりを、より強靭なものへと引き上げる中心となります。


5年生の彼女は、前向きな人柄とは無関係に、きびきびした動きが得意な人ではありませんでした。優しく、穏やかで、将来は幼稚園の先生を夢見ている思いを表すように、下級生の面倒をよく見ていましたが、どちらかと言えば恥ずかしがり屋さん。
そんな彼女が、厳しい表情で、手を、足を、高く上げて行進する姿を、いつも遊んでもらっている下級生たちは、驚きと敬意の混じった目で、ただただ見つめていました。


同じく5年生の彼も、自分の山を登った一人でした。実は、この頃の彼は、どちらかと言えば行進退場の意味を見失っていた側でした。委員会の場でも、そのことを指摘されたようです。しかし、彼はそこでふてくされたり自棄になったりすることはありませんでした。仲間の助言を受け入れ、精一杯表現しました。プライベートでダンスを習っている彼が、本気になって取り組む行進は圧巻のパフォーマンスでした。それに対する驚きや賞賛は声なき声として、彼の体の中に返っていきました。


冬のトイレ掃除であれ、注意がそれている仲間に声をかけるときであれ、気付いたら最善の行動を選び取ることに少しも怯まない。明るく、元気な4年生の彼は、そんな普段の勢いのまま、元気な演技を披露しました。明るく、元気に、生き生きと。彼の姿を見ているだけで、行進することのよさや楽しさが伝わる姿でした。


優しく、穏やかでおとなしい。4年生の彼女も、「みんなのまえできびきびと」という自己表現は決して得意ではない人でした。全校の前で実演するということに決したとき、どれほど不安だったことでしょう。当日も、そんな思いが払拭できていないことは、即座に見て取ることができました。しかし、6年生の彼女に励まされ、そのときの最善を尽くしました。その懸命さは、全校児童に伝わりました。彼女自身も、間違いなく何かを得たことが、終了後の晴れやかな笑顔から伝わりました。

君たちが考え、計画し、実行したことは、君たち自身が考えるよりも、ずっと大変で、そうしてずっと素敵なことだった。
多くの学校で、いや、社会で、よい習慣が保たれ続けることの困難さと大切さを、高山体操の行進という具体的な取組に感じ取り、その問題に正面から立ち向かってくれた。

その課題に取り組むことだって、一人ひとりの個性によって、決して一様にはいかない。「みんなで取り組む」という言葉にかくれている危うさにも、一つ間違うと、問答無用で同調を求める暴力性すらはらみかねないことにも思いをはせ、それぞれの個性に合わせた最善を、協働して成し遂げてくれた。

そうして、思い切って自分の山に登ろうとする姿が、自分自身にも、それを見ている仲間にも、温かなものを届けることを姿で示してくれた。

ありがとう。
君たちを心から誇りに思う。

かけがえのないあなたへ
素敵なきらめきをありがとう
出会ってくれてありがとう
生まれてきてくれてありがとう
どうか、ありのままで
どうか、幸せで

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