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ドミニクチェンさんの書籍を通じて「経験に言葉と地図を授けてもらえた」ような感覚になった


はじめに

ドミニクチェンさんの書籍「未来をつくる言葉」ひとまず一度、読み終えました。こういう本です。

新しいのに懐かしくて、心地よくて、なぜだか泣ける。 分断ではなく共話を。気鋭の情報学者が娘に語る人類の未来
哲学、デザイン、アート、情報学と、自由に越境してきた気鋭の研究者が、娘の出産に立ち会った。そのとき自分の死が「予祝」された気がした。この感覚は一体何なのか。その瞬間、豊かな思索が広がっていく。わたしたちは生まれ落ちたあと、世界とどのように関係をむすぶのだろう――。東京発、フランスを経由してモンゴルへ。人工知能から糠床まで。未知なる土地を旅するように思考した軌跡。渡邉康太郎氏(Takram)プロデュースによる待望の文庫化!

Amazonの紹介文を引用

私にとってドミニクチェンさんの書籍は、自身が経験・探究してきた対象に対して、こういう先達がこういう言葉で表現しているよ、といった接続をしてくれている感覚があるのです。

そのおかげで、先達の残した言葉・理論と自身の経験の相似と相違を浮かび上がらせることにより、立体的に・解像度高く捉え直すことができることがありがたい。

ので、今回は特にそう感じた箇所について先達の用語を紹介しながら書いていきます。

私の経験に言葉と地図を授けてくれた先達の言葉たち

サピア=ウォーフ仮説

彼らは、ネイティブ・アメリカンの言語研究を行いながら、「特定の言語グループに属する人間にはその言語に固有の現実世界が立ち上がる」という仮説を打ち立てた。

p24から引用

サピア=ウォーフが唱えた言語的相対論とは、自然言語を対象にして、自然言語の数だけ異なる世界の認識論が存在すると考える立場だった。

p80から引用

広く「創作」と名付けられるあらゆる営為の数々を、表現者が感知した「新たな環世界を認識するための言語構築」みなせば、世界は表現の数だけ異世界で溢れているとも言える。

p81から引用

特定の表現者のスタイルに親しむということは、その人間の世界の認識の仕方を追体験することであり、作者が生きた環世界に入り込むことでもある。

p81から引用

最後に出てきた環世界という言葉は、生物学者フォン・ユクスキュルが提唱した概念で、「それぞれの生物に立ち現れる固有の世界のこと」を意味しています。

このあたりの一連の先達の叡智は、先日とある分野の第一人者の初めての個展に行った時に感じた以下の感覚に繋がっているように思えました。

「作品とは、その人が絶え間なくその人にとっての世界と出会い続けているという営み、言い換えればその人がいつも見て聴いて感じている世界を切り取った静止画のようなものであり、その世界を覗く窓のようなものでもある」

個展とは言ってみれば、その人の固有の世界(環世界)が様々な表現手段(時には言語、時には写真、時には絵など)で共有できるように現実化されたものだと思えるようになってから、数回、アーティストの個展や作品を体験する機会を経るたびに、それぞれのアーティスト自身がどのように世界を観ているのか?ということに意識が向くようになっていきました。

この箇所からは言語、認知といった方面の簡易地図とも言えるボキャブラリーを得られたなぁと思いました。

プロクロニズム

巻貝のかたちは蟹のように左右対称ではないが、そこには渦を巻きながら成長したパターンを瞬時に見て取ることができる。ベイトソンはこれを、「発生過程から、いかなるパターン形式をもって形態上の問題を解決し続けてきたかの記録」が巻貝や蟹に刻まれていると表現している。

生物の成長の歴史がそのかたちに表出することを、ベイトソンは「プロクロニズム」(「前」を意味するプロと「時間」を意味するクロノからできた造語)と呼んだ。

p105から引用

こちらを読んだ時に、仲間たちと苦心しながら読み終えた「福岡伸一、西田哲学を学ぶ-生命をめぐる思索の旅-」を通して知った西田哲学の重要概念である「逆限定」を思い出しました。その内容をよく表した例文として紹介されていたのが、こちら。

「生物的生命の世界に於いてはいつも主体と環境とが相対立し、主体が環境を形成することは逆に環境から形成せられることである」

言い換えると「(主体は環境を)作る・(主体は環境に)作られる」ということ。巻貝を当てはめてみるとその形は、それまで過ごしてきた「環境」によって作られたということなので、プロクロニズムと通じますよね。

この本で紹介されているだけですと、生物の成長の歴史だけの表記になっていて、環境が生物に何をしたか?というベクトルの話は語られていません。もしそこも語られているとしたら、相似の割合がより大きくなるなぁと思い、原著(とりあえずは該当する和訳本)に当たりたくなりました。

私の個性だと思うのですが、興味関心があって深めている既存テーマとの共通性(相似)を見出せると、その新しいテーマを学ぶ意欲が湧いてくるんですよね。

ホロビオント

ガイア理論を支持する生物学者のリン・マーギュリスは、1991年の著書「Symbiosis as a Source of Evolutionary Innovation」の中で、複数の異なる生物種が共生関係[symbiosis]を結び、一個の不可分の全体を形成することを「ホロビオント」という造語で表現した。

全て(ホロ)の生物が(ビオント)が共に活かし合うことで、複数の生物種が適合しながら一つの超個体として作動している。たとえば、褐虫藻やバクテリア、古細菌、菌類の複合システムとして見なされる造礁サンゴは、群生して珊瑚礁をつくるのでひとつのホロビオントとなる。マーギュリスはこのような観察から、生命進化の特質は競争ではなく共生にあるという考えに至り、適者生存を主張するネオ・ダーウィニズムの考えとは袂を分かった。

p153~154から引用

生命進化の特質を共生に観る視点、ホロビオントというコンセプトに、今学んでいる今西錦司氏の提唱された「棲み分け理論」「種社会」「生物全体社会」といったコンセプトに通ずるものを感じて興味深かった。もっとも、今西氏のいう「種社会」はカゲロウならカゲロウという種に置いて、鴨川のAというエリアやBというエリアという風に種類別に棲み分ける形で共生していることを発見し、名付けられたものであるというのが現時点での私の理解のため、異なる生物との関係も含めた全体について言及しているマーギュリスとのスコープの範囲が違いますね。氏がこの点について言及していたかは、手元に山脈にようにそびえ立っている今西全集の該当する箇所を読むことで明らかにしたいと思います(笑)

共在感覚

文化人類学者の木村大治が書いた、『共在感覚ーアフリカの二つの社会における言語的相互行為から』という本に出会い、「共在感覚」という概念について学んだ。

p206から引用

木村の調査研究によるとボンガンド族の人々は、都市部に住んでいる人間の認識からすると「だいぶ遠くにいても一緒」という感覚をもっている。ボンガンドの人々に「いつ、誰と一緒にいたか」という調査を行うと、その時には顔が見えなかったはずの隣家の人間と一緒にいた、という報告がなされる。壁を隔てていても、「一緒にいる」と感じていることになる。現代の都市社会で、わたしたちは隣家の人には挨拶をするが、ボンガンドの人々は自宅からおよそ150メートル以内の範囲に住んでいる人々とは挨拶を交わさないらしい。その範囲の人々は常に「共に在る」と認識しており、わざわざ挨拶をする方がおかしいという感覚に基づく、と木村は推測する。

p207から引用

ボンガンド族の人々の感覚、興味深いですよね。

私は自身の経験から、自身の身体的な側面・感情的な側面を対象化・観察し、そこに安心感を感じられている状態のことを「一緒感」という造語で表現しているのですが、この共在感覚と一緒感に通ずるものを感じ、紹介されている本を読みたくなりました。

さいごに

今回は、読み進めていく中ですぐに想起された箇所をピックアップしてみました。他にも興味深い箇所はありますし、読み込んだ上で感想を書いてみたいと思う箇所もあるので、学びを定着させるためにも、後編のような形で記事にしようかなぁ。



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