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「ビート」「ビート・ジェネレーション」「ビートニク」とは何か?


はじめに

年始からヒッピー・カウンターカルチャーの系譜について興味が湧き、探究しています。

始まりは、アメリカの1950、60年代への興味だったのですが、ここ最近は日本のその頃に集中していました。

今回は、ネットで検索していて興味を持ったこちらの古書『現代詩手帖 総特集ビート・ジェネレーション 1988年1月臨時増刊』が届いて読み始めたことから、アメリカ編ってな感じです。

今回は、内容の中でも、アン・チャーターズという、ジャック・ケルアック及びビート・ジェネレーションの研究者が編集された『The Beats, Literary Bohemians in Postwar America (Dictionary of Literary Biography, Vol. 16)』の序文に書かれている内容に対して、翻訳者の森川均氏が訳したものを引用して、ヒッピー・カウンターカルチャーのルーツと言われる「ビート」「ビート・ジェネレーション」「ビートニク」について理解を深めたいと思います。

アン・チャーターズは、森川氏曰く、アレン・ギンズバーグとも親交が深く、ジャックケルアックの自伝を書かれたこともあり、同時代を生きたアメリカにおける最も優れた研究者の1人だそうです。

書かれている内容について私もまだまだ分からないところがありますが、とりあえずアウトプットしようとする→問いが生まれる→今後のインプットがより良質になるというサイクルを回す意図もあるため、ご容赦ください。

"ビート"を探究する

ビート・ジェネレーションとは?

最も単純なレヴェルでは、それはさまざまな美学や社会認識をある程度共有していた、二十世紀中頃の数多くのアメリカの前衛作家達に漠然と連なる一つの呼称(ラベル)に過ぎない。

p36より引用

アンが調べた当時のランダム・ハウス辞典によると、"ビート・ジェネレーション"という言葉を定義付けたのはジャック・ケルアックであると記載されており、その意味するところは、

「第二次世界大戦後の時代に現れた世代の人々で、恐らく冷戦によって生じた幻滅の結果として、社会的・性的緊張状態からの、魔術的超然性と緩和状態を信奉する」

となっているそう。

「ビート」と「ビートニク」の違い

"イマジスト"や"シュルレアリスト"というような、特定の美学的意味性を持った言葉とは異なり、"ビート"という言葉は、ほとんどの人にとっては、非文学的な意味性が強い。

"ビート"という言葉は、彼らの文学的な仕事に対して真剣に、野心的にとり組んでいた作家のグループにとっては、第一義的には記述形容詞である。

「ビート」は、どんなに落ちぶれていようとも「祝福された」存在を意味しており、「特別な精神の持ち主として決して諦めず、平壁を見つめてそこに僕らの文明の窓を開く孤独なある種の聖者なんだ」

ケルアックがインタビュアーに語った内容とのこと

「ビート的であること」はギンズバーグにとって、「社会的な善悪の概念を超えて、社会を"裏面から見つめていることーーつまり人間の情動、性欲、詩、検閲、麻薬に対する当時(一九四八年)の社会的な善悪の概念は、一般的な判断や意見が今日(一九八一年)ではごく普通の認識としてあつかっているものと比較してみると、中世的でさえあったからなのである。つまり、当時はヘンリー・ミラーの著作やD・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』が発禁にされ、非合法の扱いを受けていた。〜中略〜第二次世界大戦後の、強制収容所や原子爆弾への恐怖の後に、アメリカ人は正常な状態への希求を持っていた。しかし我々はそれを見かけ倒しだと感じたのだ。時代の重点はやはり、唯物主義と、従順な人生に置かれていた」のである。

ビートのヴィジョンは、アメリカ人の生活の中で最も危険な何事かを実体化する、体験の衝激によって育まれて来た

社会的抗議同様、自然発生的な感情や表現は、ビートの作品の特質である。

"ビートニク"という言葉は逆に、第一義的には名詞であり、ロシア人が人工衛星スプートニクの打ち上げを成功させた後に、サンフランシスコのコラムニスト、ハーブ・ケーンが語呂合わせ的に作り出した、軽蔑的な造語である。ビートニクはボヘミアン的生活様式で生きている人のことであり、しばしば風刺漫画の題材となり、笑いものにされた。さらに"ビートニク"という語句は、一九六〇年代初頭の公民権運動の際にデモ行進していたような、あごひげを生やし、サンダルばきであった社会的抗議(プロテスト)運動家達に対しても投げかけられた言葉だったのである。

代表作に対するアンの記述

アレン・ギンズバーグの詩『吠える』とジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード』について、

生のより深い意味を求めるがゆえに、唯物論的価値観を否定する"ビート"の特徴を生き生きとした描写の中に描き出して、アメリカにおける新しい何かの出現を、多くの読者に知らしめたように思われる。

と書いています。

これらが出版される前から、アメリカにはボヘミアン、非同調者として生活している何千人もの人々がいたそうですが、2人は

そのライフ・スタイルを見事に描写し、古き良きアメリカの友情や自由の重要性を強力に擁護したために、彼らの本が、既成の価値観に対する一つの脅威となり得たように思われる。

とのこと。

ビート、ビートニクという名称が力、衝撃力を失っていく時期

ベトナム戦争が拡大してゆくにつれて、アメリカに新たな社会的抗議運動の波が現れ始めたのだ。一九六七年になると、"ビートニク"という言葉は、反戦抗議運動の参加者や、サイケデリック「革命」の参加者の名称である"ヒッピー"という言葉に、その地位を明け渡してゆく。

ビート作家達がアメリカ社会に対して果たした広範囲の貢献とは?

ビート・ジェネレーションを代表する作家ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグと親交が深く、書いた小説はデビッド・ボウイなどののちの世界的ミュージシャンに影響を与えたウィリアム・S・バロウズという人物がいます。

彼が1982年にコロラド大学で開催された、『オン・ザ・ロード』出版25周年を祝うジャック・ケルアック会議における発言を引用します。(ただし、この発言もアンの書いた文章の中のもの)

ビート運動は、政治的というよりは、世界的規模の文学的、文化的、社会学的な示威運動であった。一九五〇年代にそれが始まった時には、ビート運動はほとんど政治的付帯性を帯びてはいなかった。それは最初、社会通年的外観と行動に対する文化的反抗として選ばれたのである。一九五七年以降は『オン・ザ・ロード(小説)』が一兆本のリーバイス・ジーンズと百万個のエスプレッソ・コーヒーマシーンを売り尽くし、無数の若者達を路上へと送り出した。これは勿論、ある部分では、日和見主義者達の首たる、メディアの責任である。それを見た時に、彼らは一つの物語を知ったのである。そしてビート運動は一つの物語であった。それも大きな。文化的革命は、常に政治的諸変革を引き起こす。現行法の変革を、である。しかし政治的革命は、どのような場合であろうとも、いかなる文化的変革も、もたらしはしない。南アメリカでの革命に典型的なように、そこでの変革は単純に軍事的なものであり、人生はそれがいつもそうであるように続いていくにすぎない。より政治的な方向性を持った文化的革命は、その分だけ、広範囲の文化的革命を引き起こすことがないように思われる。中国の文化革命のようなものは、政治的浄化で終わってしまい、文化面はほとんどないがしろにされてしまっている・・・。

しかしながら、ビート運動は、一度始まってしまうと、それ独自の勢力と世界規模の衝激力を持ってしまった。実際、アメリカの知的保守主義者達は、ビート運動を、ビート作家達が自分達についてそう考えるようになるずっと前から、彼らの地位を脅かす重大な脅威であると見なしたのである。いわば、共産党より深刻な脅威である。ビート文学運動は、現れるべき時期に正確に出現し、世界中の国々の何百万人という人々が聞きたいと待ち望んでいた何事かを言ったのだ。人は全く知らないことを誰かに伝えることはできない。ケルアックがロードを指し示してみせた時には、すでに待ち構えていたのである。

私の考える芸術家は、変革の真の建築家であり、事実が生じた後に変革を追認する政治的立法者ではない。芸術は生活の様式に、流行に、認識の範囲や方向性に深い影響を与える。芸術は我々に、我々の知っていることを、そして我々が知っていることで、まだ我々が知覚していない何事かを教える。一九五七年に『オン・ザ・ロード』は、明らかに途方もない範囲にまで、そのような役割を果たした。ビート文学運動の結果として、我々がより自由なアメリカに暮らしていることは疑う余地がない。印刷物ではフォー・レター・ワードが禁句であり、少数派の権利が踏みにじられていた時に、ビート文学運動は、この国で、過去四十年間にわたって、広範囲の状況での、文化的・政治的変革の一つの重要な要素だったのである。

p42,43より引用

さいごに

このアウトプットをするきっかけとなった『現代詩手帖 総特集ビート・ジェネレーション 1988年1月臨時増刊』は情報量がものすごく多く、まだ400ページ中(しかも上下二段の構成なんです)の60ページまでしかいっていない中、かつ1人の研究者の見解を引用したものに過ぎません。

また、私は1冊ずつじっくりと理解しながら読むよりも、同じテーマながら、色んな切り口の本をたくさん同時並行的に読むことで「あ、あそこに書いてあったことだな」という復習しながら輪郭を掴んでいく方法が合っています。

ので、このテーマについて何かを語れるようになるまでまだまだインプットだなぁと思っている今日この頃。

我ながら、なぜこんなにこのテーマに対する探究心が湧いているのか不思議ですが、「なぜか分からないんだけど・・・」という衝動が好きなので、よしとしましょうw

ちなみにビート作家の作品については代表作はまだいずれも手をつけておらず、唯一手をつけているのがジャック・ケルアックがゲーリースナイダーとの出会いについて書かれている「ザ・ダルマ・バムズ」という変な入り方をしていますw でも、この本好きですわ〜 疾走感があるというか、まだ雪の残る山を親友を登った時のことや、フィリピンの離島で岩山・ジャングルの中を軽く冒険した時のこと、まだありのままの自然が残っている渓谷の石を飛んで走って回った時の恍惚感などがフラッシュバックするような、素敵な本でした。「オン・ザ・ロード」も楽しみだなぁ〜。


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