見出し画像

子どもの自己肯定感の大半は親が決めてしまうのだから

ぼくには4歳の息子がいる。ぼくにとってははじめての子で、ほんとうに可愛い。ぼくの生きる目的でもある存在だ。そんな息子が、数日前から保育園に行きたくないとベソをかくようになった。7月の連休前に風邪をひいて休園し、(彼にとっての)9連休明けから、そのような状態がつづいている。

これまで保育園に行きたくないなどと言ったことはなく、親バカなだけに息子に感情移入しすぎてしまい、胸を痛めている。ぼくも妻も仕事があるため、もちろん出来るだけ息子の望みに耳を貸しているつもりだが、結局のところ、息子を泣く泣く保育園に預けていて、息子には寂しい思いをさせてしまっている。そして、このような親中心の生活でよいのかと自問自答している。

巷では、驚くことに反出生主義という言葉がある。Wikipediaによれば、

反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ、はんしゅっせいしゅぎ、英: Antinatalism、アンティネイタリズム[1])またはアンチナタリズム[2]、無生殖主義[3][4]とは、生まれることおよび子を持つことを否定的に価値づけ、子を持つことを道徳的に悪いと判断する倫理的見解

のことだそうだ。何かの記事に、自分がこんなに生きづらいのだから、同様の体験を子どもにさせたくないから子どもをつくらない、といった主旨のことが書かれていたのを覚えている。または、親から虐待を受けていたような人もまた反出生主義的な考え方を持ちやすいようだ。

ぼくたちは親を選べない。ぼくたちは勝手にこの世に生み落とされて、生を余儀なくされてしまう。ぼくたちに生をはじめる選択権はない。選択権がないどころか、心理学的にいえば、両親からどのような養育を受けたかで、ぼくたちの自己肯定感や自己効力感、人生に対する満足度がある程度決まってしまうと言われる。たとえば、虐待を受けていた子どもは将来深刻な心理的な病理に悩まされる可能性が高い。

親は子に決定的な影響を与え、その子の人生の行方を大きく左右する。親はそのような自覚をもって子育てにあたったほうがよいのかもしれない。

だが、子育てをあまりに重く考えすぎては、重荷になってしまう。(今ぼくがそうである。難しく考えすぎている可能性大)そうではなく、より社会全体で子育てをする機運はもっと高まってよいように思う。昔から言われるように、子は社会の宝なのだから。

サポートいただいたお金は、“誰もがが自己実現できる社会をつくる”ために使わせていただきます。