東北の宵は軍歌とともに更けていった
乳白色の湯けむりに覆われてしまった共同浴室から上がり、自分の宿泊していた部屋に戻った。部屋のドアをゆっくりと閉めたとほぼ同時に、控えめなノックの音がかろうじて聞こえて来た。
時刻は二十時をまわっていたため、清掃時間にしては遅く感じられた。
私が「誰呀(誰ですか)?」と尋ねると、返って来たのは落ち着いた若い声の日本語であった。
「朝、食堂でお会いした河村です。もし良ければ少し一緒に話をしませんか?」
河村さん、その朝、宿泊所の朝食レストランにて初めてお会いした若い男性であった。父親と一緒のテーブルに座って居た。東京大学にて法律を履修されていらっしゃるということであったので、おそらく、当時の私よりは二三歳年上である。
個人旅行をしていた私は、その丸テーブルの空いている席へと服務員(給仕をする人)に案内された。私はその父子に軽く会釈してそのテーブルに腰を下ろした。若い男性の方も軽く会釈したが、その父親の方は、
「早上好(お早う)」、と中国語にて話し掛けて来た。
私は、不機嫌に聞こえないように日本人であると訂正した。どこの国の人であろうと日本人以外に間違えられることは好まない。
すると、その父親は「ああ、そうですか!」と一瞬表情を明るくすると、いろいろと話し掛けて来た。東北地方のインフラ関係のプロジェクトに携わっていらっしゃるということであった。
他の丸テーブルでは日本人らしき年配の方々が座って、お粥をメインとした朝食を取っていた。
そのうち私には、その父親の言葉に集中することが難しくなって来た。背後の丸テーブルにて起きている動きが気掛かりになり始めたからである。
その動きとは、
その丸テーブル、および他複数のテーブルに座っていた邦人男性達が、誰からともなく、軍歌を口ずさみ始め、周りもそれに呼応し始め、瞬く間に、朝の食堂で軍歌の大高唱が始まったのである。
そこは中華人民共和国、哈爾浜市の黒龍江大学宿泊所であった。
中国人の服務員たちが働いているこの場所で、軍歌を高唱する。この行為は中国の人々にはどのように感じられているのであろうか。
彼らの無機質な表情からは何も読み取れなかった。
私は目の前に座っている父子の反応は?
息子は無言で漬物の入った粥を啜っていた。父親の方は軍歌を唱っている団体に時々視線を投げ掛けていたが、彼がどのような心情でいたのかは私にはわかりかねた。彼もまた、戦争を知らない世代に属していたのであろう。
私は当時、三国志とカンフー映画に嵌まっており、中国語を独学していた。数か月の講座を終えたあと、その語学力を試してみたかった。
そこである夏、一人で中国東北地方を旅してみることに決めた。
旅行鞄の中の旅行ガイドはたったの一冊であった。近年、その著者の政治的スタンスは非常に物議を醸しているようであるため、こちらでは名前は敢えて割愛させて頂く。しかし、私はその本に記載されていた戦跡を訪ね歩いていた。
話は、シャワーのあとに戻るが、私は素早く着替えて、ドアを開いた。ドアの外には河村さんが一人で立って居た。
海外旅行とは、時には、そこで出遭った同胞への警戒心を解凍してしまうようである。私は河村さんを部屋へ迎え入れた。
何故か。
私にも聴いて頂きたい話があったからだ。そしてその相手は、申し訳なかったが、河村さんでなくてもよかった。
私は、部屋にあった簡易椅子を彼に勧めた。
河村さんは、私が机の上に置いてあったカメラに視線を落とすと、一点を凝視した。
「カメラ、壊れちゃったんですね、でも新品っぽいですよね」
然り、私のカメラはほぼ新品であった。旅行前に父親に買ってもらったコダック社のカメラであった。レンズがパックリと、ほぼ真ん中にて割れていた。
「河村さん、撮ってはいけない景色というものが存在すると思いますか?」
河村さんは一瞬、面食らったようであったが私の次の言葉を待っていたようであった。私は続けた。
「このカメラでは、いろいろな景色を撮りました、バスとか、市場とか、駅とか、百貨店とか、公園とか、ホテルの部屋とか、自分なりに大切に使っていたつもりなんです」
「どこで壊れたのですか?」
多少、好奇心を示して下さった河村さんは銀縁の眼鏡を掛け直して、再度カメラを凝視していた。
ものごとには胸の中に秘めて置いたほうがいいことも多い。しかし、言葉に託すことによって肩の荷を降ろしたいという気持ちがあったことも否めない。
「哈爾浜郊外で、ある建物の写真を撮ろうとした時です。ガシャッ、と音がしたんです。通常より鈍い音だな、と思って見たらレンズがこのように割れていました」
河村さんは沈黙していた。
哈爾浜郊外に関してあまり知識が無かったのかもしれない。私も、説明をする勇気もなく、この件に関してはこれ以上触れたくはなかった。
機械、あるいは電化製品は、新品でも原因不明で壊れることが多々ある。
彼が黙っていたので、私は、東北(旧満州)地方を訪れてから、それまでに経験したことを、堰を切るように吐き出してしまった。
(魚が苦手であったため)日本でも食べたこともない刺身を、大連の日本食レストランにて生まれて初めて口にしたこと。
長春の街を歩いていたら、ロシア人のような長身の中国人少女に自治体の社交ダンスパーティーに誘われて参加したこと、そしてそのあと彼女の家に招待されたこと。彼女は公安局に勤める兄と、ロフトのある一部屋を共同で使っていた。
さらに、ある町の烈士陵園にて、墓守の方に、戦死されたお二方の将軍と対面をさせられたこと。すなわち、ホルマリン槽に浸かっていた御遺骸である。
「あの体験には本当に仰天しました」
「でも君は辞退しなかったんだろ?」
「案内をして下さった方の説明を理解していなかったのかもしれませんね。でも18歳には、衝撃的すぎるシーンでした」
「でも戦争時は、18歳も10歳も3歳もなかったはずだよ。老若男女が、有無を言わさず、戦渦に巻き込まれて行ったんだからね」
大抵のことには無関心そうな印象を与えていた河村さんがこのような発言をされたので、私は一驚した。
当時、私は何故か、戦争関連と戦争時の軍人心理の文献を読み漁っていた。
確かに戦争は、年齢制限なく、多くの人生を飲み込んで行った。そしてそれは現在も進行中である。例えば、私の同僚の中には、戦争難民も少なくなく、中には爆撃音のため片耳の聴力を失った人もいる。
私は、自分の体験談を一方的に語り続け、河村さんの話というものを聞く余裕がなかったことに遅ればせながら気が付いた。
部屋に備え付けの魔法瓶と烏龍茶があったため、私はお茶を用意して河村さんに差し上げた。彼は、コップの底で海草の如くふわふわと舞う烏龍茶の葉を覗いて躊躇していた。
「粗熱が取れたら歯で濾して飲んでみてください。ところで河村さんは今日は何処に行かれたのですか?」
「まあ典型的観光地を一通り廻って来たという感じだよ。実はね、これを君と一緒に食べようと思って買ってきたんだ」
河村さんは椅子の下に置いてあったリュックから、瓜二つとナイフを取り出した。歪なかたちをした緑色の瓜であった。
それは、とても甘く美味であったが、その瓜の名称は現在でもわからない。隼人瓜に形が似ていたような記憶もあるが、おそらくそれではないであろう。
二人で沈黙しながら瓜を貪って居た時、廊下を隔てた近くの部屋から厳かな響きの歌が流れて来た。
それは朝食時にも聴いた軍歌の調べであった。
私は再び複雑な心境に陥った。
「唱っている人達は、戦争時はおそらく現在の僕たちと同年齢か少し上ぐらいだったはずだね」
そうなのだ。
勝ったほう国の人々にも負けた方の人々にも、家族がいたはずである。戦争時は一部の人々を除いては、誰にとっても長く悲しい時代であった。軍歌を高唱するこの人達は、帰国してからの半世紀以上をどのような心情で過ごして来たのであろうか。
瓜を食べ終わったあと、河村さんは立ち上がった。
「今晩は有難う」
私には彼が何故お礼を言ったのかも、訪問の目的も不可解であった。
ドアが閉まる直前に彼はこう言い残した。
「ところで、哈爾浜郊外のことは僕も常識程度には知ってるよ。カメラが壊れたことに関してだけど、場所と状況が特殊だったために君は必然だと思い込んでしまったかもしれないけど、ほとんどの場合はただの偶然だよ。あまり深く考えない方がいい」
最後の一言は、私が不安がって夜眠れないことがないようにと、彼なりの思慮だったのかもしれない。
東大法学部に所属していた彼はもしかしたら、現在は政界にて活躍をされているかもしれない。現在は、既に彼の容貌も失念しているが、たとえ政界に所属していたとしてもあの時のままの河村さんでいてくれることを望む。
今回も長文にご訪問有難う御座いました。
政治一般において私のスタンスは常に中立ですが、非常に奇異な体験でしたので、中立の立場にてシェアさせて頂きたいと思いました。
昨年、ブラジルにお住いのKikko_yyさんは玉稿の中で、カメラに関して、同じような体験をされたことを言及されていらっしゃいました。
マイトリさんと広葉さんにご教授頂いた情報では、名前がわからなかった瓜は哈蜜瓜(はみぐわ)ではないかということでした。そうかもしれません。
写真はストックホルム東洋博物館の展示物と併設図書館の蔵書でした。図書館の奥に入り込みすぎてしまって、館員に気が付いてもらえなければ十万冊の漢語蔵書に囲まれて一夜を過ごすところでした。
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