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ゆきずりのリスボン 年下の青年

 「旅は道連れ」とはよく言われるが、その道連れが、ほんの数週間前に出会った人間であったらどうであろうか。

 一通の手紙を大西洋に託したかった私と、十一月の曇り空を抜け出したかった青年が、ひょんなことで、週末の南欧を旅することに意気投合をした。その時点で彼に関してわかっていたことは、名前と年齢と職業だけであった。

 青年の年齢は私よりも十歳下であった。

  

 出発の二日前、青年から電話が掛かって来た。

 腹部の激痛のため緊急病院に運ばれたと、携帯電話の向こう側の声はしゃがれていた。もう一日様子をみるが、痛みが当日まで治まらなかったら、旅はキャンセルをせざるを得ない。私が払った分の旅費は彼が負担する、と。

 私は、一人でも行けるから養生に専念するようにと返答した。青年は、万が一痛みが治まったら空港で落ち合おう、と言った。

 未知の人間と一緒に出掛ける旅。

 心が浮き立っていなかったと言えば嘘になるが、二日前に緊急病院に運ばれた人間が、高度の異なる機体内にて数時間揺られてゆくということは勧められたことではない。

 私は、一人で飛び立つ心の準備を始めた。お見舞いに行こうにも、彼の住まいを訪ねるほどの友人というわけでもなかった。

 

 当日、果たして、青年はストックホルム・アーランダ空港に現れた。


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 青年の顔は多少やつれているようにも感じられたが、無理もない。彼の顔を正面から見つめたこともないため、彼の普段の顔に関しても記憶は朧であった。


 私は数週間前に、娘達から、各々の願い事を籠めた手紙を渡された。それを日本に一番近い海に流して欲しいと言う。彼女たちはそれぞれ、日本に深い思い入れがある。

 当分、帰国の予定はなかったため、手紙は、日本に緯度の近い海に託してみようと決めていた。大西洋なら条件に適う。


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 リスボン滞在二日目、夜の帳が辺りに下りるまで待ち、私は、娘達の手紙の入った封筒を北大西洋に流した。その封筒は、しばらく波打ち際と浜辺を往復していた。しかし、暗闇に浮かぶその白い紙辺はしだいに浜辺に戻る気力を無くし、沖の方へ流されて行った。私は、手紙にどのようなことが綴られていたかを知らない。

 青年は浜辺の階段に座り、私の鞄を抱えて待っていた。スウェーデン人である彼にとっては、このようなスピリチュアルな儀式をする私は、さぞかし不気味に感じられたであろう。

 「僕にはこの儀式の根底にあるものは理解出来ない。しかし、誰にとっても大切なものがあることは僕にも理解出来る」

 彼は一言、こう述べた。


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 青年は、私の勤務先に数週間前から委託されていたITコンサルタントであった。

 ITコンサルタントには、私の知る限りでは、主に下記のタイプがいる。

 社員と肩を並べて同レベルの仕事をして、傍から見たら社員かコンサルタントか見分けがつかないような人。

 社員とは離れたところで仕事をして、コンサルタント同志でつきあい、ブランドのスーツを着こなし、自分はアウトサイダーであると暗にアピールをしているような人。

 この青年は明瞭に後者に属していた。

 

 私は一人で食事をするのが苦手だ。

 勤務先でのこと、ある日、昼食を取るのが遅くなり、社員食堂を見まわしたら、見覚えのある顔が一つだけあった。くだんの青年であった。同席しても良いか、と伺うと、彼は無言で「どうぞ」という手振りをした。寡黙な人であるのか内気なのかはその時点では判断が出来なかった。

 同席したあとも彼は言葉を発しなかった。沈黙を厭う私は、取りあえず旅の話を始めた。無難な話題の一つである。会話は弾まなかったが、お互いにポルトガルは未踏であるという共通点まで到達した時点で彼はテーブルを離れた。

 二日後、青年は、三泊四日のリスボン旅行の日程をメールにて送付して来た。彼と私、二人のための旅行である。

 このようなことは、スウェーデンにおいては、ほぼ不可能なシナリオであった。

 知合って数週間、勤務先にて二三回しか言葉を交わしたことのない、さらに十歳も年下の青年と一緒に洋行をするということには多少抵抗があった。しかし、好奇心の方が打ち勝った。青年が、若かりし頃のジェームス・ボンド役のティモシー・ダルトン氏に酷似していた事実も、私が首を縦に振った理由の一つであろう。

 ホテルの部屋は別にするという条件で私は同意した。


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 リスボンの初日の晩は、新鮮なシーフード料理と、街頭から流れる南欧情緒溢れるファドの演奏とともに更けていった。

 そして、初日から失敗した。

 そのレストランでは、注文したもの以外にサラミ、蝦等の盛り合わせがテーブルの上に広げられていた。支払いの段階になり、その盛り合わせの分まで請求されていることに気が付いた。すなわち、最初に「これはいらないから下げてくれ」、と言わなくては請求をされてしまうのである。そのことを知らずに伊勢海老ごときを二尾戴いてしまった。

 騙された、と悟った時点で、自分たちの認識の甘さに失笑した。騙されたというよりは、こちらではこれが常識だったのであろう。郷に入れば郷に従え、である。


 私は飲まず食わずで数時間歩いてもさほど苦にならない人間であったが、青年は、街角でカフェが視界に入るごとに休憩をしていた。救急車で運ばれた数日後のことなので無理もない、とは思ったが、私とは基本的に観光スタイルが異なる、とは感じた。

 青年は無口なうえに、低い声でボソボソと話すため、騒がしいレストランなどでは私には何も聞こえず、相変わらず会話は弾まなかった。音量を上げてくれるようと頼むと、一分だけ努力をしてくれるが、再度ボソボソに戻るため私も途方に暮れた。

 それでも私たちはタイルの美しい南欧の街を、一緒にゆっくりと歩き廻った。リスボンで頻繁に見掛けたタイルはアズレージョと呼ばれ、上薬をかけて焼かれたタイルである。これらは一般家庭を始め、あらゆる建築の要素として不可欠となっている。


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 二日目、日中はトローリーに乗って郊外のジェロニモス修道院(葡  Mosteiro dos Jerónimos)を訪ねた。世界遺産の構成資産の一つである。

 巨大な修道院であった。南欧の明るい日差しに照らされてその重厚な壁が白く輝いていたことが印象的であった。大航海時代の偉業を称え、1502年に着工され、300年の年月を経て完成の運びとなった。


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 私達はこの修道院前の階段に座り、「春季と夏季はスウェーデンで働いて、秋季と冬季は南欧から遠隔勤務が出来たら最高だね」、などと話をしていたことを記憶している。

 この青年に関して、ある性質に気が付いた。

 彼は、私が他愛もない話をしている時でも、全身全霊にて耳を傾け、頷いてくれていた。話し上手ではないが、聞き上手、とはこのような人のことか、思わせしめる人であった。


 そのあと、リスボンではおそらく一番有名だと思われる景観を拝みに行った。発見のモニュメント(葡 Padrão dos Descobrimentos)である。大航海時代を記念した碑である。


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 三日目には グルベンキアン美術館(葡 Calouste Gulbenkian Museum)へ行ってドガ、マネ、ルノワール、レンブラントの絵画をプリントした絵葉書を購入し、その美しい中庭を散歩した。

 そしてこの美術館の美しいカフェにて、初めて、些細なことで口喧嘩をした。


 帰国の日、青年は高熱を発した。

 彼は、数種類の解熱剤を服用したため、飛行は可能であると言った。高熱時の飛行は辛いかもしれないが、一刻も早く自国に戻るべきであると私も感じた。

 ストックホルムへ向かう飛行機の中で、青年の顔色は青白くなり、紅くなり、冷や汗をかき、エコノミークラスの座席に垂直に座っていることは、傍から見ても非常に辛そうに感じられた。

 トランジットもあったが、ようやくアーランダ空港に着陸した。


 私たちは空港を出てタクシー乗り場へ向かった。青年は私のためにタクシーを一台招くと、それに私を促した。その直後、青年が、私の運転手に数枚の紙幣をさりげなく握らせていた様子が視界に入った。

 その後、彼は、タクシーの座席に、(乗り物酔いのために)ほぼ仰け反っていた私に手を振り、辛さを押し殺したような笑顔にて別れを告げた。

 

 次の日、青年は会社に現れなかった。

 次の次の日も、その後も出勤しなかった。

 最初の数日間、私は携帯メッセージを送ってみたが、返答は常に「体調が優れない」、というものであったため、私もメッセージを送ることは止めた。所詮は単なるゆきずりの旅の連れというだけの関係であった。


 勤務先には、新顔のITコンサルタントが現れた。くだんの青年の業務を受け継ぐという。

 前任はどうしたのか、と訊くと、長期病欠を余儀なくされた、ということであった。

 「長期病欠」という言葉を咀嚼した瞬間、オフィスは灰色で無機質な空間に変貌した。その場の空気も重苦しくなった。後から、その病は、かなり厄介で先の見えないものであることを知った。

 思い当たる節はいくつかあった、彼は、旅行の二日前には腹痛で救急車で運ばれ、観光中にも頻繁にカフェで休憩をしていた。そして帰国日には高熱を出した。

 「僕はポンコツなんだ、期待させたのならごめん」、青年はボソッとこのように呟いたことが一度だけあった。私は、その意味をさほど深く考えずに聞き流していた。「期待」が何を示唆していたのかも考えつかなかった。

 ささいな口喧嘩をしたりもしたが、つぶらな緑の瞳を見開いて私の話を聞いてくれていた青年。この青年とは、何故か、再度一緒に旅行をする機会もあるのではないか、などと漠然と感じていた。


 将来的に、他の誰かと一緒にリスボンを旅行して、街頭で奏でられるポルトガル音楽ファドに陶酔しながら更ける宵を過ごしたならば、「一期一会」の言葉とともに彼のことを思い出すであろう。そして、今度は彼あてに書いた手紙を大西洋に託させて頂くかもしれない。


今回も長文にお付き合い頂き有難うございました。

人物画を描かれるakkiyさんは、私の海のピンク色の空を背景にした青年を描いてくださいました。akkiyさんのお部屋は美しいもので溢れているようです。最近は中国語の勉強も始められたそうです。

 こちらは十日前のストックホルムの空のオレンジ色です。リスボンの空は既に記憶の底から忘失しています。

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アーランダとリスボンの写真も、修道院の写真以外はPixabayからお借りしました。サムネイルから2109DSGN、 JaaKL、 Sandro Porto、 nextvoyage、 Laura Rinke、uroburos、 MarieCotCot、 cocoparisienneからの提供でした。


紀行記事の中から過去記事を紹介させて頂きたいと思います。 


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