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 ネットで散々批判され、やっと日本シナリオ作家協会は謝罪した。
 芦原妃名子氏が亡くなった報道がされた当日の夜に、漫画家、原作者をうるさがるような内容の動画を公開したことに、私はまず人間性を疑った。
 日本シナリオ作家協会のHPには「ハラスメントに関する声明」というのが掲載されている。

「これまでに発生した加害も、被害も、決して"なかったこと"にはしません」
「悪質な搾取行為」
「世間の常識や人間の倫理としては法的にも道徳的にも決して許容されないようなこと」
等々とここに綴ってある。

 だが、これは単なるお題目だったようだ。
 この声明が掲載されたのは2022年10月11日。
 1年4か月前。
 最近のことだ。
 だが、もう忘れてしまったらしい。
 全く何のための、誰のための掲載なのか。
 かつて起きたトラブルに対し、
「きちんと対応しましたよ」
というアリバイ作り、単なるポーズだ。

 閑話休題。

 それでは、引き続き、私がこれまで観てきた中で気になった、漫画と映像が大きく異なる作品について語っていく。

【七瀬ふたたび】
 1979年、当時15歳だった私が、「これまで読んだSF小説の中でいちばんおもしろい!」と感じた原作をNHKが夕方の帯番組として映像化。
 主演は多岐川裕美氏。
 NHKで夕方に映像化することはとても不可能な描写が原作中にはあったためそれは緩和されたし、原作では3歳のノリオも、実際に3歳の子役に演じさせることは不可能なので9歳に変更されていた。
 決して原作通りではなかったが、作者の筒井康隆氏は多岐川氏の演じるヒロインの火田七瀬を気に入り、TBSのテレビドラマ「家族八景」にも多岐川氏を推薦したそうだ。
 ちなみに、放映は「家族八景」の方が先なのは、制作と放映の順序がNHKとTBSとで逆になっていたからだ。

【瞳の中の訪問者】
 手塚治虫氏「ブラック・ジャック」の中の1エピソード「春一番」を原作にした映画。

 監督:大林宣彦 氏
 脚本:ジェームス三木 氏

 この両氏が関わった他の映像作品についても後述するが、私にとっていちばん印象的だったのはブラック・ジャック役が宍戸錠氏だったことだ。
 ただでさえ宍戸錠氏のイメージがブラック・ジャックとかけ離れているというのに、漫画に忠実(?)なメイク。
 この映画のブラック・ジャックは、まるでフランケンシュタインの怪物のような姿なのだ。
 手塚御大も「こんな人間いるはずない!!」とこれには大激怒したという。
 ただ私は「瞳の中の訪問者」という映画のネーミングだけは抜群にうまいと思った。
 ストーリー、設定を、実によくこの7文字に凝縮させている。
 ちなみに、大林監督はこの映画を評論家から酷評され、映画雑誌『シナリオ』を舞台に数か月にわたる大論争を繰り広げた。
 それは今でも語り継がれる伝説の出来事だ。
 でも、宍戸錠氏のフランケンシュタインメイクのブラック・ジャックに関しての手塚氏との論争は無かったようだ。
 まあ、手塚氏は多忙でそんなことに時間割けなかったろうしな。

【加山雄三のブラック・ジャック】
 タイトルに「加山雄三の」と付いているところからも分かるが、「これは手塚治虫氏の作品とは別バージョンですよ」とあらかじめ宣言している作品だ。
 「瞳の中の訪問者」同様、手塚氏の二十数ページの原作1話1話から毎回1時間のテレビ番組を作るのだから、これは原作に無い要素を入れまくらなければ成立しえない。
 例によって私は「そういうもの」だと思って視聴していた。
 手塚氏の漫画は漫画、加山氏の実写は実写として、完全に別物として観ていた。
 あれだけ原作とかけ離れていると、もはや漫画との相違点はどこかというレベルではなく、完全に別物なので、論じる気にもならないというところである。
 脚本はジェームス三木氏。
 「瞳の中の訪問者」もだが、こちらも三木氏の持ち込み企画らしい。
 氏は大河ドラマ歴代最高視聴率の「独眼竜政宗」の脚本家だ。
 特撮番組「超人機メタルダー」の主題歌の作詞もしている。
 私も注目していた方だったが、女性問題が原因で後年お見かけすることは無くなった。

【漂流教室】
 これは私の大好きな漫画だった。
 こわい、気持ち悪い、暗い、絶望、――でも、おもしろい!
 新しいコミックスが出るために、わくわくしながらページをめくったものだった。
 その「漂流教室」が映画化されたのは1987年。
 1974年の完結から13年が経っていた。
 作者の楳図かずお氏は、この映画の出来に、自宅(まことちゃんハウス)の縞模様の外壁に怒った近隣住民と同じくらい怒っていたそうで、試写の1回しか見ていないそうだ。
 私も同じだ。
 1回しか見ていない。
 怒る価値すら無い。

 私は「漂流教室」が実写映画になると聞いた時点で「まず、無理だ」と思った。
 あれは長編まるまる全部で1つの物語なのだ。
 切り取りようも、内容の短縮のしようもない。
 それを一体、どうやって2時間の映画に納めるのか。
 懸念は的中。
 原作とかけ離れた内容とはいえ、映画単体でおもしろいならまだ救いは多少あったかもしれない。
 だが、映画単体としてもおもしろくなく、誰得なのか全く理解不能な作品だった。

 想像するに、楳図かずお氏は、映画は全てスタッフにお任せだったのだろう。
 試写で初めて作品を観て、先述のようにお怒りになったというわけだ。
 昔から、テレビにしろ映画にしろ、日本の映像業界は原作者を制作に携わらせなかったのだなということが分かる。

 監督は大林宣彦氏。
 手塚氏に続き、またも大漫画家を激怒させる映画を撮っていたことになる。

【時をかける少女】
 これまで何度も映像化された筒井康隆氏によるSF小説だ。
 ここでは大林信彦氏が手掛けた尾道三部作の2作目映画としての本作を取り上げる。
 尾道三部作は、

山中亘氏「おれがあいつであいつがおれで」
筒井康隆氏「時をかける少女」
山中亘氏「なんだかへんて子」

をそれぞれ原作小説とする、

「転校生」
「時をかける少女」
「さびしんぼう」

の3つの映画のことだ。

 どの映画も原作小説とはかけ離れている。
 そもそも、どれも尾道が舞台ではなく、この3小説も何ら関連性は無い。
 しかし、大林宣彦氏により尾道三部作という映画にされた。

 ここから見えるのは、監督が、自分の映像作品を、たとえるなら料理のように考えているという意識である。

・自分の料理なのだから、自分が好きなように料理する。
・原作は、食材の1つに過ぎない。
・原作は、数ある食材の1つに過ぎないのだから、原作だからと言って特段重用することはしない。もちろん、原作者に対しても同様。重用しないということは、逆に言えば軽視するということである。
・監督はシェフであり、原作はジャガイモやニンジンのようなものだ。ジャガイモやニンジンがシェフに意見するな。

 「瞳の中の訪問者」の手塚治虫氏や「漂流教室」の楳図かずお氏がいくら激怒しようと関係無いのだ。
 自分はシェフなのだから、料理は作りたいように作る。
 食材なんだからしゃべるな、無言でいろ、シェフに一切の文句は言うなということなのだろう。

 今回の「セクシー田中さん」事件における原作者軽視問題は上記の意識がテレビスタッフの根底にあるからだ。
 脚本家の相沢友子氏はじめ、それに同調した関根タツヤ氏、泉美咲月氏、プロデューサー三上絵里子氏、日本シナリオ作家協会の黒沢久子氏らからは皆そういった傲慢な意識を感じた。

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