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鬱を治す方法(強め)

なぜ鬱は再発するか

鬱を治すには本当に治す覚悟がいる。
現状鬱であるという状態を「治す」ということは、「性格を変える」ということとほぼ等しいです。性格を変えるということは、今の自分がやっている「行動を全て変える」ということです。
今までの行動を非鬱人のものに変えるということは現状の「コンフォートゾーン」から脱却するということで、辛いに決まっています。
逆説的だが、鬱があまりにも自分の中に食い込み、鬱状態が私を決定づけてしまっているので、鬱を治すということが一旦は自己否定の形をとる。
鬱は辛い、鬱を治す治療はめちゃくちゃ辛い、なら鬱のままでいいや。となるから鬱は再発率が高いのです。

鬱を治すには(結論)

「思考を一旦停止して動かない身体を動かして生きるために必要なことをやる」∩「時間がかかる」ということしか無いことに気付きました。

とにかく死にたい気持ちに耐えるしか方法はありません。死にたい気持ちに耐えないままで、無意味にOD・リスカ・逃避・自殺してみたり、薬やカウンセリングをやったところで何も変わりません。自分で自分に変化を起こさなければ、恐らく一生そのままです。自殺に成功したところで、来世でも同じことを繰り返します。
躁鬱の場合も同様でどうしても波が来てしまうので、諦める。これが自分なんだと思うしかありません。治すというか耐えることを続けていたら治っていたということかもしれない。

自分以外に鬱は治せない

薬物治療(西洋・漢方)もカウンセリングも行動認知療法も作業療法も(胡散臭いエセスピリチュアルも(ゼータ星人とか言われました))瞑想修行やレイキ療法、ありとあらゆるもの、ほぼ何でもやったことがありますが、結論

薬は効きません。(加えて離脱症状辛い)

カウンセリング・相談はその一瞬しか効きません。(逆に離脱症状が一層辛い)
人の優しい言葉でいっときは現実を肯定できても(カウンセリングの時、こころの中ではこの人はお金を貰う仕事としてこう言ってくれてるんだよなぁとまで思うが)、時間が経つとすぐに効力が薄れてきて、次第にその人無しでは生きていけなくなり(その人がすぐ返信くれなかったりすると気が狂う)、完全に依存状態に陥ります。(他人は他人の人生があることも自明なので段々相談出来づらくなる。相手に迷惑、相手の人生を縛ってはいけない。)

おそらく鬱の治療をされている方は薄々その事実に気づいていると思います。最初は手当たり次第にいろんな方法を試すのですが、結局効かないと分かって、自分で自分を時間をかけて変えていくしか方法は無いのだとわかる時が来てしまうのです。

ここで「思考を一旦停止して動かない身体を動かして生きるために必要なことをやる」なんてできるわけないだろうという声が聞こえてきます。実際、今私はこれを書けるメンタルがあるから書けるのですが、事実6、8月はずっと涙を流していました。(他の記事「鬱日記」等お読みいただければ、分かるかと思います。)

鬱だとそもそも身体動かないし涙出てきて、無気力で死にたいとばかり思っていてトイレに這いつくばって行くことぐらいしかできない。究極漏らします。できることといえば、横になって涙を流すことだけだというのは痛いほどわかります。自分が何年も経験してるからです。

鬱という現状・私自身をぶち壊す

冒頭でお話しした鬱であるという現状をぶち壊す方法は2つあって
①自分は鬱でないと定義づける
これは以下の記事が該当します。

②エポケー(思考停止)する
思考停止する重要性はかなり高いです。
思考停止しては鬱からの脱却ができないのでは?と思われるのもわかります。
けれど鬱の時の脱却のための思考というのは大抵の場合、思考というよりはぐるぐる悩んでいるだけです。まずここに気づくのに6年ぐらいかかりました。
鬱の時は全てを否定します。自分には価値がないとか死にたくてたまらない、死にたい、いつまでこれ続くんだろう、死にたい、なんで自分はこうなっちゃったんだろう。どこで人生失敗したんだろう、ああ身体動かない、辛い死にたい死なせてくれ殺してくれ、、、、、キリがありません。
実際、この思考をしていても、現状は1mmも動いてなくて時間ばかり経って、鬱は治らないし、何一つ良いことはありません。

だからと言って「大丈夫♪」「未来は良くなるはず、自分は実際のところ恵まれている♪」とか肯定的なことを思えと言われたところで全部論破できます。
というかそんな何の根拠もない肯定的な言葉を論われたところで、腹が立つだけです。

だからこそ、一旦エポケーが効くのです。
現状になんら価値判断を下さない。未来の過去も考えない、できることだけやる。他人と比べたり自分と比べたりしない。やらないよりは絶対にましだから、それが良いとか悪いとかすら置いておいて、自分の為になる、生きるために必要なことをする。やりたくないけどやる。動く、動かないといってもそこで自責しない。動いてみる。動いてみる。思考しない。何も思わない。動いてみる。
できたから偉いとかできないから駄目とか置いておいて、現状が1mmでも変わるということに絶対的な価値がある。相対的な価値ではないことが重要。
エポケーをするには、なんかまあある程度暗すぎない音楽を聴くと良いです。言葉入ってない方が余計なことを考えずに済むので、手堅くリストやショパンや映画のサントラ辺りを聴き、音の流れだけ考えておくとエポケーしやすいです。

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死ぬほど辛い涙が止まらない死にたくて死にたくてたまらない。死ぬセンスないから自殺失敗してしまった。鬱すぎて他人に迷惑かけてるし、
特にわたしは躁鬱だから、躁のときの努力が鬱のとき無駄になって無に帰って、躁のときの問題を鬱のときに解決しないといけない。
一体何のために生きてるんだろう。何一つ作り上げられないのではないか。
こうやって賽の河原で石を積み上げては倒され続ける人生なんだろうか。
過去のことがフラッシュバックしたり、物理的に吐き気がしたり、ブレインフォグが酷くて鬱のときには普段できていたことが何一つできない、解けない。

でも
薬でもカウンセリングでも優しい友人でも何でも
この問題を解決する力を持たない。
鬱は自分で治すしかない。
どうにか、どうにか、なんとか耐えるしかない。こういう自分を受け入れ認めて、社会で生きていくしかない。
でも耐えて耐えて耐えたら、自分にしかわからないかもしれないけど、自分に対する誇りだけは自分にとっての真実になって、信じることのできる自分にまで成長できる。
成長しなきゃいけないというのも強迫観念だけど、成長しないから駄目・無価値なのではなく、ただ、運命に負けない自分がかっこいい。

全力で生きる必要はない。もう既にみんながみんな全力だからだ。
何を成し遂げられないからといって、無価値で生きていてはいけないなんてことは無い。
時間はかかるが、それが自分であって、人生だと思う。

何者にも頼らず、ただ感謝だけを胸に、全てを許し受容し、他人に時には迷惑かけてかけられて、持ちつ持たれずやっていくしかない。しかないというかある意味それが正解な気がする。
責めても意味がない。
鬱病だと分かったり、ADHDだとわかったところでこの社会で生きていかないといけないという現状は何一つ変わらず目の前に横たわっている。

時間をかけて耐えながら自力で自己に克つことだけが方法である。
かっこいい自分になる。誰かから承認されることを目的にすると辛くなる。自分だけが知っている自分の努力をして自分から承認されることを目的にする。結果ではなく努力を認める。

いつか鬱が来なくなることを願う一方で、鬱でも動ける自分を創っていく。
誰かの言葉を待つんではなく、自分を生きよう。

運命に負けないで鬱に克てるんだと証明したい。鬱になりようの無い環境で育った人間に鬱は気持ちの問題だとか言われるとこいつ全然わかって無いなと思ってしまう。気持ちの問題や精神論で扱うべき分野じゃない、もっと深いところに原因があるし、気持ちでどうにかるものではない。だからと言って鬱に負けたくはない。
どうにかどうにか鬱を克服する自分流の技術や方法を各々が探していくしかない。

わたしは齋藤孝先生の『孤独のチカラ』という本に書かれている「単独者」という言葉が好きだ。
単独者とは、前例の無いことに1人孤高に立ち向かっていく人のことである。
わたしはそんな単独者になりたい。

がんばれ。

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