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人生が無意味・無駄と感じているひとへ

全て無意味に感じる。それは鬱症状のなかでも中枢に位置する大変迷惑な存在で、生の否定として現れ、無気力を浴びせてくる。ただ布団に安住する。

今回は、<なぜ私が人生無意味と感じるに至ったか>を再度検証することで、「人生は有意義である」という確かな論理を考えてみる。

これは前回の記事「鬱のコペルニクス的転回について」の”前提の吟味”の考えから発生した。
人生、常に動機の吟味を忘れてはならない。最初の一歩に結果まで詰まっているといっても過言ではない。
話は逸れるが、稲盛和夫氏は第二電電(現KDDI)を創設すると決心する時、その決心が本物であるかを「動機善なりや、私心なかりしか」と半年間寝る前に禅問答し続けたという。それだけ、前提、動機の吟味は大切であるということだろう。

目次をご覧になった方は、なぁんだよくある自己啓発か。と思われるかもしれないが、(若造の視点なのでたぶん)一味違うのでお読みいただきたい。

なぜ無意味に感じていたのか:今まで

信仰

「なぜ生きているのか」は誰もが考えたことがあることだろう。
自分は「生きていることが偶然」であることが腑に落ちなかったため、小学生の頃からぐるぐる子供心に考えていた。そこでたまたま家の蔵書に江原啓之氏の『スピリチュアル・メッセージ』や美輪明宏氏の本があったので読んでいた。また稲盛和夫氏や各宗教が言っているように「人生は意味がある。魂の浄化を繰り返し続ける大いなる存在の一部があなたである。心を磨きなさい。」というのも考えていた。
しかし、信じたくても見えないものは見えないので信じられなかった。死んだら無に帰る。宗教ですら、この世に立地している。諸行無常、盛者必衰。なんのために他者の命を奪いながら生きているんだろう。と。

自分の存在が社会に還元していない無意味なものに思えた。
自分が幼児で生殺与奪の権を握られている時から、親に疎まれていた。親が生存に必要な世話をすることを億劫に感じているのが分かったし、「してあげている」という恩着せがましい目で見られているのも痛切に感じた。自分の存在に罪悪感を感じた。生きることに必要な世話をいやいや親にさせてしまっているということに耐えられなかった。親を喜ばせるように生きられない自分が生きている価値はないと思った。「こんな子供だと知っていたら産まなかった。」とよく言われた。
もしかすると、そういった側面からも「人生無駄、無意味」と感じたのかもしれない。

いじめ

また、自分の変わった性格もあってか、小学校、中学受験塾、中学入学後もずっといじめにあっていた。
小学校では同級生の前髪を切ったなどという完全なる濡れ衣を着させられ、担任に2週間毎日呼び出され脅迫され自白を迫られる冤罪も経験したし(その嘘の告発をした子供はPTAの有力な親の子供だった)、ずっと孤独で、自分がどうすれば他人から許されるかわからず、ただ夜布団で泣いた。
塾では「バイ菌」と呼ばれて触ったところを除菌シートで拭かれたり、殴られたり、雪の降る日には氷片を投げつけられ、仲間外れにされることは日常茶飯事だった。
中学校では、クラスLINEに入ったら全員が抜けるということもあった。
とくに、誰にも相談できないというのが大変に辛く、家では人格を否定され、外に行けば仲間外れ。生きている価値はないなと幼いながらにずっと思い続けた。

努力

次第に私は社会の規範を内面化して適合し、かつ不断の努力によって得る他人からの賞賛で自分の生存の意味を見出そうとあくせくしていた。他人に賞賛されれば、死んだら終わりという虚しさから目を背けられるのではないか。他人に賞賛されれば、自己の生存を肯定できるのではないか。
心の不安と相関するように理想の自分像を高く高く追いやった。
そうするほどに鬱も深く深く掘られていった。
高い理想像を貫徹する努力をしつつ、うつ病の対策の努力も必要となった。

志望校は東大、同時に校内での自主活動、農工大の主催する高校生向けのGIYSEプログラムへの参加と文化祭副実行委員長で初の学校3D化プログラミングを完全単独で完成させる。満足ができなかった。ただただ虚しかった。本当に努力して他人に受容されるようになった高校時代も不幸極まりなかった。(外見で悩むことも多かった。高校時代はコロナで3年間マスクだったのでなんとか耐えたがあまりにも不細工でこればかりは努力で如何にもならないから尚更。)
鬱で悩まされることなく、もっと努力している同世代が目に見え、どうしても追い越せない壁となり立ちはだかってきた。努力しても勝てない。勝つ負けるで判断している自分の幼稚さに呆れた。生まれた時点から間違っていたんだと確信した。どんな努力をしてみても鬱状態は改善しないし、上には上がいて自分が生きている確固たる理由みたいなものは何もつかめなった。

引きこもっていった。
努力なんて糞食らえと思うようになった。
スタートがバラバラなのに社会は学校は親はゴールは等しいものとして、結果しか見てくれない。社会の基準が内面化され、自分もそういう判断しか出来なくなっていた。

潜在意識に染み込む

とにかく、「人生は無意味だ」という思考が自分の意識を超えて、潜在意識に刷り込まれるに至った。だから全てのものに対し、反射的に「無意味だからやらない」と断定してしまった。あらゆるもの全てを見下した。「何もかも全て無駄だ。なんでそんなことやるの。何やっても幸せになれないんだよ。」当時の写真を見たらわかるが、笑えなくなっていた。目から輝きが消え、のろのろして、布団に体が浸み込んで剥がせなかった。
自分の実感や感覚、五感といったものを信じるという気持ちを失った。
自分が何をしたら幸せを感じるのかが分からなかった。。。

つまり、「人生は有意義である」という信仰をあまり信じられなかったため「人生無意味」に勝てなかった。
また、親からの幼少期の生存の否定や長期にわたるいじめで「人生無意味」と感じ、それを跳ね返そうとした努力で報われず「人生無意味」が強固となり、潜在意識に刷り込まれ骨の髄まで「人生無意味論者」となった。
ということが言えるだろう。

そして、人生無意味と感じることは、死への渇望を高める。しかし、自殺できなかったため生きなければならない。人生は有意義であるという考えに転向する必要性が出てきた。そこでうーんと考えて得られたエッセンスを理由とともにいくつか並べた。


考え方を変える:この瞬間から

無意味だと思うことをやめる/価値判断をやめる

よく考えてみれば、「無駄か無駄じゃないかという判断は未来の自分にしか出来ない」ことです。
だから、反射的に「無駄無意味」と感じていることを変える必要があります。「無意味無駄」思考に逃げて、あらゆることへの行動を止める理由とするのをやめる。

方法①声に出す
「どうせやっても無駄だ、努力なんて無駄だ」と思った瞬間声に出して「意味がある!」と言う。最初は別に心が伴っていなくても良い。私がそうだったから。とりあえず潜在意識に語りかける。

やっぱり努力は無駄じゃない

価値があるから努力をするのではなく、楽しく努力をしていたら、あとになって価値があった、と考える。また、人間存在に未来は絶えず来続けている。よってある努力に価値があると思える未来は必ず来るので、つまり必ず未来に感じられると言うことが保証されている努力の価値ならば、現在、価値があると肯定して良い。(これすごいことです!!)

生きている時だけを考える

カントと同じです。あくまで理性で考えられる範囲だけで考えれば良い。これは考えられないことを考えることを放棄するという諦めではなく、今現在考えられる範囲でよく考えることが良い、という大いなる肯定です。
今現在考えられる範囲で最善だと信じることをすれば良いということです。
自分の思考が他者に乗っ取られていると感じるが、最初はそれでいい。次第に自分がわかってくる。
無駄か無駄じゃないかという判断は未来の自分にしか出来ないことです。今あらゆることが無意味に思えて何かをやるということをやめて仕舞えば、やらなかった種だけを持つことになります。別にいいよ、無駄だから。と思った方は「人生は意味がある!!」と叫ぼう。(自戒)

幸せを感じる

まず自分の五感を取り戻すことが先決です。生きていることを感じるということです。本来赤ちゃんの時にあったものを取り戻す。
ここで、認識を変えて「不幸」を「幸福」に感じさせるなんて馬鹿げている。なんの意味もない。と思ってしまうが、それに負けない。(人生に意味はある!と叫ぼう)
第一、生きるなら「幸福」を感じたほうがいいだろう。
真に自分自身が感じる幸福か?と言うことは常に考えていなければならない。そしてそれが真に自ら発せられた「楽しい」である場合、それに従って努力したら「幸福」が形になっても訪れる可能性が高い。

方法①幸せコレクション
これは私が実際に行なっている方法です。小さいそれ専用のノートを用意し、幸せに感じたことを常にメモるという作業です。このノートだけには消極的なことは一切書かない。意味あるの?という考えが首をもたげてきた時は一旦エポケー(思考停止)してやってみる。
「ノートが買えるなんてありがたい。」「ペンがあるなんてありがたい。」「手が動く、ありがたい。」「考えられる、ありがたい。」となんでも感謝します。
それから、「今日は〜〜をした。楽しかった!」と書く。自分が何に対して楽しみを感じたのか書く。自己の再形成を行う。

誇りを取り戻す

たとえ、あなたの見ているものが全てあなたの脳で起こっている神経物質のやり取りに過ぎなかったとしても、神経物質が「自分は死んだ」とあなた自身に告げるまで人生は続く、あなたが生きていることは続くわけです。
だから、「生きている」ということは神経物質の伝達に過ぎなかったとしても事実としてあなたにもたらされるので、あなたは生きている。

生きているという前提に立つなら、今まで死なずに生きてきた奇蹟を思いませんか。親が私のことを疎んだとしても、それでも今まで生きてこさせてもらった。第一、生きていること自体、誰かの死に支えられている。世界のものたちから、自分が生きていることが赦されている。たとえそれが力によるものだとしても。
他人の犠牲の上に成り立つ自分の人生ならば、自分の人生を幸せにしなければ、犠牲になった他者が浮かばれない。
自分の生存に誇りを持つと同時に、誇りを持てる生き方をする。
これすなわち、自分の幸せを自分で創り、他者の幸せも自分が創る決心をすることです。
私の経験ですまないが、学校や模試でもガツガツやってる人はカッコいい。でれーんとしている人はあまりカッコよくない。自分に誇りの持てるカッコいい生き方をすることは、自分に対する自信にもつながり、他者にも良い影響を与えるのではないか。自分の生きたい生き方を素直にすることが、自信となって自らの糧になる。

信仰を考える(not宗教)

信仰と言っても、宗教では全くありません。そもさん私は宗教というのが好きではない。信仰とは一人でやるものだ。ただ、イエスや釈迦、また尊敬できる個人の考えが良いな、と思うだけでありどこかに依存して集団でやるものではない。(エセスピリチュアルは私の最も嫌いなものだが、あれは努力を否定するところがあるからだ。)

話は逸れてしまいますが、最近の日本は戦前後に比べて精神が劣ったと思うのは割と共通の認識だと思います。西洋の個人主義はキリスト教や古代の哲学に支えられていたことに気づかず、日本に個人主義を輸入した時安易に日本の伝統的な精神も放棄したからです。ゆえに日本は精神という土台のない誤った個人主義が跋扈してしまい、感情優先の人々が増えてしまったと考えます。(齋藤孝さんも同様のことをおっしゃっています。)

だから、一人一人がなんらかの精神の柱のような信仰を持つのが大事だと考えます。宗教ではないです、生かされていることに対する畏敬の念みたいなものです。そういう精神の柱を持つことが、人生無駄だ、努力なんて糞食らえという考えに対抗する手段になるのではないかと考えます。
私の場合は一旦は放棄してしまった、「人生は意味がある。魂の浄化を繰り返し続ける大いなる存在の一部があなたである。心を磨きなさい。」というのを取り入れます。

人生は有意義であると思うから人生は有意義である。
無意味であると考えるなら、なぜそう考えるに至ったかを再度確認することだ。これが大まかな結論となります。
何か確固たるデカい理由を求めてしまうけれど、おそらくそんなものはなく、各人それぞれの処方箋となると思います。真理追求を放棄しているのではなく、十人十色なら十人十色の理由です。


この記事からなにかヒントのようなものを得る、なんてことをしていただけたら最高に嬉しいです。
書いてあることに新しみがない。と思わせてしまったら、申し訳ありませんでした。
お読みいただき、本当にありがとうございました。

私も「無意味」と断定する心の安住に闘います。
うつは自分との闘いです。

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