F#3 幸せのマグカップ

2025年5月4日。

まだ5月と言うのに今日はまた夏のように暑い。庭の芝も干上がりそうだ。水やりをしながら、空を眺めた。

ここ鎌倉には衣張山という小さな山がある。その山にはちょっとありえない源頼朝の愛の逸話がある。

夏、あまりの暑さに耐えかねた妻の政子のために、頼朝はその山全体に白い布をかぶせて雪山に見立て涼をとった、という逸話だ。

いやいやいや。無理でしょ。ありえないありえない。

最初はそう思ったのだが、たぶんこの話の言いたいことはそれが事実かどうかは関係ないんだろう。言いたかったことは「頼朝の愛が大きかった」ってことなんじゃないか。

ぼんやりと空を眺めていたら広い気持ちになった。心がぐんぐん開いて空と一体化しそうだ。

雲になりたいなと、思わず目を閉じて想像してみる。悩みがどんどん小さくなっていく気分だ。

庭の隅では雀たちがちゅんちゅんとかわいく踊っている。

水やりを終えて家の中に入ると、起きてきた夫が目をこすりながらお茶を用意していた。

彼はアメリカ人のくせにコーヒーを飲まない。

いや、アメリカ人だからコーヒーを飲むというのは私の勝手な偏見だが、『アメリカンコーヒー』という言葉の洗脳は意外と強力なのだ。ポテトといえばハンバーガーというぐらいに強烈だ。私はいまだにそのマインドコントロールから抜け出せないでいる。

夫は言いたいことをすぐ言うくせに、時々なぜか妙に繊細だ。晴れ時々曇りみたく、「ずばずば時々センシティブ」だ。そしてなぜかお茶にうるさい。

彼は大きな体で緑茶を用意しながら、いつものように「飲むか?」と訊いてきた。もはや、可愛いのか可愛くないのかわからず、私は笑って自分の判断をごまかした。

彼が台所からマグカップを運んでくる。マグカップで緑茶を飲むなんて邪道だと怒られそうだが、私には彼がマグカップでお茶を運んでくるところからが『始まり』なのだ。

Here's your tea, babe.

そう言ってお茶をおいて、夫は自分の朝ご飯を作りに台所へ消えていった。

なにが『始まり』なのかというと、私には6,7年前から描いている『理想の幸せ』がある。幸せって何?と考えたときに必ず浮かぶ画だ。

その画では、長ソファーに足を伸ばして本を読んでいる私に、パートナーが「お茶作るけど、いる?」と言う。マグカップのお茶を運び終えるとパートナーはまるで何もなかったように、私と対面する形でその長ソファーに座る。二人して脚を絡めながらそれぞれの本を読みふける、という画だ。

私は窓の外に目をやりながらお茶を一口飲んだ。甘い香りが口いっぱいに広がる。アメリカ人がいれるお茶をバカにしてはならない。彼がいれる緑茶は意外なまでにおいしいのだ。

あぁ。体が緩んでいくのがわかる。

もうどうにでもしてくださいと完全に無防備だ。まるで、無気力に浮かぶだけの茶柱だ。そう、私は茶柱だ。浮かび続ける茶柱なのだ。

しかし、まるで茶を飲む主人が不覚にも飲み込んでしまったかのように、私の茶柱妄想は一瞬でかき消された。犯人は台所からのガチャガチャという食器が重なり合う生活音だ。

夫が自分のお茶を持ってリビングに戻ってきた。片方の手には分厚い洋書と老眼を持っている。そう、私たちももうそんな歳だ。

さて、私は何の本を読もう。

窓に目をやると、白いカーテンがゆらりと風に舞っていた。

ふと、頼朝が衣張山に布を張らせたのは本当だったかもしれないな、と思った。というより、今はそう思っておきたくなった。

今日は2025年5月4日。『理想の幸せ』の画は、今は『日常の幸せ』になった。当時の私に理想の画を届けていたのは、今の私なのかもしれない。


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