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人生の「評価」から自由になろう

こないだ「人生の「目標」から自由になろう」という記事を書いたのですが、予想以上に読まれているようで意外に思っています。多くの人が、このトピックをとても強く意識しているということなのでしょう。。。

「目標」と共にお決まりで語られるものに「評価」があります。このトピックを語る時、わたしはむしろ「評価」の方にアレルギーを感じていて、より強い問題意識を持っています。もしかしたら、みなさんがこれほど目標に注目するのも、わたしと同じ「評価」アレルギーにルーツがあるんじゃないか?と、ふっと思いnoteを書き始めています。


評価が苦手な理由はどこにあるか

評価制度が苦手な人はわたしのまわりにもたくさんいますが、なんで評価が嫌いなのか考えたことありますか?

その理由の一つが先日記事にした不毛な目標設定にあります。

今日は改めて「人が人を評価する」という行為そのものに目を向けてみたいと思います。

評価は残酷

わたしが評価に対してアレルギー反応を起こしたときの自身の感情をよくよく観察してみて、わかったことがあります。

例えば、ここに仲良し3人組(いっちゃん、にこちゃん、さんたろうくん)がいるとします。ある日、近所のおじちゃんが、いっちゃんに聞きました。「きみは、にこちゃんとさんたろうくんのどっちが好きなんだい?」「明日、映画のチケットを2枚あげるからより好きな方を連れてきなさい。」

みんな同じくらい仲のいい友達なのに、そこに優劣をつけなければならなくなったら。。。仮に、にこちゃんが選ばれたら、にこちゃんは「嬉しい」けど、さんたろうくんはきっと「悲しい」はず。そもそも、優劣をつけられない関係性にわざわざ優劣をつけさせるなんて酷だと思いますよね?わたしもそう思います。これが「評価される側」の残酷な一面です。これは先程の話の通り「嬉しい」か「悔しい」かといった正負の感情で説明がつきます。

一方で、「評価する側」を考えてみます。いっちゃんの立場です。にこちゃんも、さんたろうくんも区別つけられないくらい好き!!だけど映画のチケットは2枚しかない。さんたろうくんはあんまり映画とか好きそうじゃないから、にこちゃんを選ぼうかな、、、強引な理由をつけて自分を納得させようとしたりする。そうやって友達に優劣をつけてしまったら、いっちゃんはこの後ずっと「申し訳ない」気持ちを抱えることになるでしょう。

評価って、評価する側にとっても残酷なんです。

これが自分の家族や息子だったらどうですか?お兄ちゃんと弟くん、母親として好きなのはどっちですか?なんて質問にどうやったら答えられるというのでしょう?納得のいく説明とかフェアな基準とか色々いいますけど、評価の本質って残酷です。

傷ついているのはわたしだけじゃない

わたしは評価を受けるときにきまって「いたたまれない」気持ちになる。わたしを高く評価することで他の誰かがきっと「悔しい」思いをしている。評価者もまたその選択を強いられ、望まない矢面に立たされている。

評価されることで、人は傷つけられてしまいます。そして、評価するほうもまた同じくらい傷つく。

どうして、ただ、みんなで仲良くしたいだけなのに。成果の大小はあれ、みんな一様の努力をしている。にも関わらずどうして「評価で分断する」んだろう?そんなことするくらいなら、わたしが辞退すれば、誰も評価することなく、さんたろうくんを映画に誘ってあげられる。

つまり、モチベーションがどうとか、サボるサボらないとか表層的な問題じゃないんです。「人が人を評価する」その行為そのものが問題です。人が人を判断する以上、どれだけ綿密な制度を作ろうと(わたしも人事評価制度に関わったことありますが)フェアな評価なんて世の中に、いや宇宙のどこにも存在しないんです。評価は、他人を傷つける凶器であると同時に、自身をも蝕む狂気だと、わたしは思うのです。

評価は答え合わせの沼

評価そものもにも目を向けてみましょう。そもそもフェアな評価ってどういったものか想像できますか?

いっちゃんが売上100万円を上げました。にこちゃんも今期の成績は100万円でした。結果に対して評価をするのであれば、ふたりの評価は「同じ」ということになります。これが成果至上主義ですね。

でも、いっちゃんの所属している部門の市場は右肩上がりに成績が伸びていて、営業活動などしなくっても飛ぶように売れた。一方で、にこちゃんの部門は苦しい市場での競争を強いられていたと言ったらどうでしょう?それでも評価は同じであるべきでしょうか?そうやって成果を測る指標に市場動向の変数を加えたりしながら「フェア」な落とし所を見つけようとします。更に、さんたろうくんの家族は今年息子が結婚することになってプライベートが大忙しだった。。。とか。さんたろうくんにはそもそもハンディーキャップがあって人一倍の努力が必要だった。。。とか、市場や部門による差だけでなく、プライベートや家庭の事情、身体的な基礎能力の差、体格、性格、得手不得手などなど。その成果を正しく評価するために努力の過程やプロセスに目を向ける必要がでてきます。

結果だけを重視してもフェアな評価にはつながりません。かと言って、プロセスを重視すればするほど沼に陥り、結果を軽視することにもつながります。つまりどこまでいっても「フェアな評価」というのは、永遠にたどり着くことのない答え合わせの連鎖になっていて、それらしい答えに自他を納得させ続けることなのです。

フィードバックを意識する

少し話が逸れますが、モチベーションの向上に有効なのは「フィードバック」です。以前にも紹介したチクセントミハイという「フロー理論」の学者が言う、何かに楽しく没頭するための条件の中にも「フィードバック」は含まれています。

人によって定義が異なるかもしれませんが、わたしがここで言う「評価」とは、人に優劣をつける行為です。対して、「フィードバック」とは、あなたの行動に対する振り返りです。

もっとこうしたら、よりよくなりそうだ。今回ここが失敗だったから、次回はこうしたらうまく問題が回避できるかもしれない。自分を先導してくれる指導者や先達がいると、このフィードバックはより適切なものになっていくでしょう。フィードバックは人の成長を促します。

評価制度に「数値」を持ち込むもうとしますが、何かとの比較のための達成度や達成率などといった数値指標は成長において何の役に立ちません。分析指標や数値は、自分の立ち位置を測るフィードバックのためにこそ使われるべきでしょう。

スポーツ選手だって学びの初動が遅い選手もいるし、ひょっとしたら今季よい成績が出せなかったからこそ次につながるかもしれない。それを今季の達成率だけで推し量ることはできません。そんな指標を目標にしている限り、短期的な失敗を避けてしまい、わたしたちは成長に対して何も挑戦ができなくなってしまいます。

未来の「成長」につながればこそ、人はフィードバックに対して、良いも悪いも好意的に受け取ることができるのです。それが、ひいてはモチベーションに繋がっていきます。

評価制度をなくすには

どうしたら評価制度をなくせるのか?ここに戻ってくることになります。この質問に答えるためには、なぜ評価制度が必要なのか?という問題にとりかかる必要があります。

その答えは単純です。報酬が必要な制度だからです。

現代社会では、わたしたちは報酬の対価として労働するという常識のなかで暮らしています。会社は多数の従業員を抱えますが、一概に従業員と言ってもみなさん能力も担当する業務の難易度もまちまちです。だから、簡単に言ってしまえば、多様なスキルの軸と、多様な職の軸があって、そのグラフに多様な従業員をプロット割り当てるするわけです。これがいわば目標設定です。そして期末の評価面談ではそのプロットされた内容に従って達成度の色付けをするのです。そうすることで、さまざまな条件が入り混じった社内の人材や職種のパターンに対して”フェア”に報酬が決定されるという仕組みです。この仕組みの中に生きている以上、評価と報酬は表裏です。

ところが、上述した通り、これは便宜上”フェア”だと言うことにしているに過ぎません。そうでもしないと報酬の策定ができませんから。だから当然問題も起こります。「多様」な人間を評価する「画一的」な指標なんてそもそも矛盾しています。フェアな評価なんてどうやったって存在しませんから、あなたが例えば人事部で評価制度を正そう!なんて考えているとしたら、きっと徒労に終わるでしょう。

だからこそ、永遠にその落とし所を探し続ける努力こそがよい評価制度を生むと考えている人もいるかもしれませんが、わたしの個人的意見では、評価制度は非情で矛盾しているという結論である以上、なくすのが自然ではないかと思っています。そしてその方法は、わたしの思いつく限り2つしかありません。

  1. 配分する報酬を成果や能力に関係なく「一律」にする

  2. 報酬そのものを「辞める」

前者を選択している会社はいくつかありますが、一番馴染みが深いのは「年功序列制度」ですね。年功序列制度というのは評価に関係なく、年齢によって一律報酬が分配される仕組みです。これは評価を必要としないよくできた仕組みだと思います。ただ、能力の多様性に応じた格差を切望する現代では、この方式に立ち返るために新たに乗り越えなければいけない壁はかなり高いように思います。

後者は、最近になって議論が深まりつつありますが、ベーシックインカムだとか、贈与経済といった文脈で語られているものです。単に貧困救済だとか社会保障といった観点での議論しかなされていないので、まだまだ議論はしつくされていないように思います。

仕事は本来楽しいもの

すると能力に応じた報酬を受け取るべきだとか、そもそも高い報酬こそが仕事の動機であるだとか、そういった常識をまずは疑うところからはじめなくてはなりません。

すると、一周回ってよくnoteに書いている以下のようなトピック

  • 報酬は創造力を阻害する

  • 賞/罰による管理はモチベーションに寄与しない

  • 仕事は本来楽しいもの

  • わたしたちは報酬がないと本当に働かないのか?

このあたりのテーマに戻ってくるわけです。長々と書いてしまいましたが、いつものお決まりのオチになってしまいました。

このnoteを書いていて、そもそもわたしが過去に書いた多くのトピックは、ひょっとするとそのルーツは評価アレルギーから来ていたのかもしれないな、、、などと思い始めています。

評価アレルギー、共感してくれる人いるでしょうか?

りなる



参考


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