見出し画像

わたしたちには仲間と過ごす時間の密度が圧倒的に足りていない

なかなか珍しことだけれども、地方にある企業の現地視察のため、およそ一週間の現地滞在することになりました。4人のチーム編成を組むことになったのですが、滞在期間が長かったこともあり費用を抑えてAirbnbで別荘を借り切って共同生活をすることになりました。仕事仲間と共同生活をすることなんてまずないので、、、若干の不安がありつつ現地へ。

朝みんなで朝食を作ってテラスでご飯を食べて、洗濯して、簡単な片付けをしてから、レンタカーで現地へ。行き帰りの車の中では仕事の振り返りをしながら移動。帰ってきたら、みんなでまた晩御飯を作って食べる。お風呂に入って、食器洗いが終わったら、各々残った仕事をリモートでしながら過ごす。夜はなんとなく仕事という共通の話題を軸に他愛もない雑談をしながら就寝まで過ごす。こんな生活をしていました。仕事の緊張あり、仕事終わりの笑いあり、ちょっとね、中・高校時代の合宿を思い出しましたw

これを聞いて、なんで仕事でそこまでつきあわなきゃいけないんだ、それってどこまで業務時間としてカウントされるの?と、ゾッとする人も多いと思います。その気持もよくわかります。

でもね、生活におけるあらゆる活動って、それが部活動であれ、勉強であれ、学校行事であれ、その内容そのものよりも「誰と過ごすか」の方がよほど不可欠な要素なんです。嫌いな数学を大好きな◯◯ちゃんとやったら、すごい楽しかった!なんて経験みなさんにもあるはずです。それは仕事でも同じです。

好きなことを仕事にとか、嫌なことは避ければいい、とか、仕事を少しでも気軽にするために、その「内容」に言及する啓発本は多いけれど、本質はそこにはない。むしろ「誰と過ごすか」が重要なんだと、わたしは思うんです。そして、それがわかっていながら、今回の滞在で改めて感じたのは、その「誰か」を知るための機会がわたしたちの生活には圧倒的に「足りていない」んじゃないか、という至極シンプルな気づきでした。

近年、職場では常に効率的な行動が推奨されます。ミーティングではさっと集まって、可能な限り話題を絞るためにアジェンダが決まっています。ミーティング時間を短縮するために、(椅子に座らずに)立ってミーティングをするなんて企業もあるくらい。仕事に無関係な時間を極力削ぎ落として、圧縮された時間を毎日8時間以上共に過ごすのです。逆に言えば、仕事に関わるすべてのこと(例えば職能について)互いの特技や特徴は知り尽くしているはずです。そのようにわたしも感じていました。

ところが一転、一週間改めて彼らと文字通り「同じ釜の飯」をいただきながら痛感したことがあります。職場の仲間と腹が捩れるほど笑ったことがあっただろうか?職場の仲間の下着を一緒に洗っていいかなんて気にしたこともなかったし、料理が好きな人もいれば、掃除が苦にならない人もいる、誰かが喜ぶためにわたしが苦もなくできることはなんだろう。なんてことを給与以外の動機で行動することが職場にどれだけあっただろう?

そうなんです。思っているより仲間の性格を全くと言っていいくらい「知らない」のです。職場ではほぼ全てのことが給与という評価によって決定されていて、その範囲内でできるだけ無駄を省きながら行動することが当たり前になっています。わたしたちは、人を報酬によって時間割りで動くスキル基準でしかみていません。でも、本来、人の活動には、価値や金額に換算できない活動しかなくって、それを笑ったり怒ったり、恥ずかしがったり喜んだりを感じながら心地の良い居場所を見つけることが、社会であったり、人とのつながりだと思うのです。

いつからわたしたちは、学生の頃のような、あるいは部活動のような関係を継続することを恐れるようになってしまったんだろう?

この一週間、とにかく笑った。仕事に関係することをネタにして、仕事とまったく関係ない話題をジョークにした。4人の知性をこんなにも無駄にユーモアにただ費やしたのは、ほんとうに学生ぶりかもしれない。

わたし自身に対する「気づき」として、人とのつながりを持つ機会を驚くほど失っているし、そのような機会を持つことに恐怖すら抱いていたのだということを感じた一週間でした。

仕事と遊びの境界線は、人為的に引かれたものであることをひとたび我々が理解すると、我々は物事を手の内のものとし、生活をより生きがいのあるものにするという困難な作業を、容易に始めることができる。

M. チクセントミハイ

りなる


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?