未来を想う
20年後の未来、わたしはどんな生活を送っているだろう?どんな仕事をしてどんな人と付き合い、何処に住んでいるだろう?みんな幸せになりたいだけなんだ。だからそのために、自分の年収やキャリアパスを思い描きながら一生懸命に将来設計をする。でも、高年収もハイキャリアへのパスも、必ずしも人を幸せにはしてくれない。
エンジニアは正直結構しんどい。残業や顧客からのムリな要求、技術は日進月歩だし、かといって業務のほとんどを好きなプログラミングに当てられるわけでもない。プライベートの時間がないとエンジニアはよく嘆く。ただ、問題の本質はそこでもない。大好きなテレビゲームに熱中するかのように、止められなければ一日中やり続けていられる挑戦のように、より難易度の高いミッションをクリアーするために徹夜をいとわないように、何かに没頭することはけして不幸なことじゃない。他の仕事でも同じはずで、残業そのものや業務内容そのものに不満をぶちまけても問題の本質はそこにはない。難易度の高い課題、技術を磨くこと、これらは人生を彩るひとつの要素であって、それそのものが人を幸せにしたり不幸にしたりしてるわけじゃないのだから。
幸せな生活を送りたい
幸せってなんだろう?ある人はお金だと言う。以前、勤めていた会社の社長が言っていた。「人の幸せの形は一律に定義することはできない。一方で、お金があって困る人はいない。だから、多様な人生設計に適応できるように、より高い給与こそが従業員の幸せを支援できる唯一の方法だ。会社は稼いだ利益を従業員に還元する。だからこそ、その原資をより多く稼ぐために、より一層の意識をもって働く必要がある。」当時これを聞いたわたしは納得がいかなかった。利益の還元のみが会社にできる唯一の方法だって?冗談じゃない。でも、ほとんどの社会人はこのような考えで仕事をしているのだろう。
みんなはどうだろう?どういう人となりで、何が好きで、何に没頭して、どんな人と一緒にいると楽しいんだろう?人生の残りの時間を何に注ぐことがワクワクさせる体験になり得るだろう?それを実現するために今の生活で弊害になっているものはいったいなんだろう?
いきがいの創出
いま生活のほとんどを専有している仕事そのものに人生の意義を左右する効力はなにもない。世の中から仕事がなくなれば毎日楽しいのに、なんていう考えは短絡的すぎる。仕事が楽しく有意義なものであれば生きがいを与えてくれるだろうし、そうでなければただ強いられている労働にしかならない。わたしの好きなM・チクセントミハイ氏が言うには、仕事こそもっとも生きがいの創出に適した活動にほかならない。だとしたら、仕事を含むあらゆる活動を「生きがい」と無機質な「労働」に分けるものはなんだろう。
報酬が目的を見失わせる
仕事を苦しい労働に変えてしまう原因のひとつは報酬にある。報酬こそモチベーションの源泉だと思っていないだろうか?もしくは、それに疑問を感じていて、年収のことばかりいう大人たちにうんざりしているだろうか?はっきり言おう。報酬によって仕事に対する意欲は上がらない。もう感覚的にはみんな気づいているかもしれない。報酬によって能力が発揮されるのは、あくまで頭を使わない単純労働のときだけだ。ダニエル・ピンク氏がTEDで紹介して話題になった何十年も前の科学実験で確認されている。より高度な発想や想像力を伴う活動の場合、報酬があるとその活動に対するモチベーションや作業効率は決まって低下する。それは報酬の高い低いに関わらず活動に対する目的が散漫になってしまうからだ。創意工夫や想像力を伴う高度な活動では能力が充分に発揮されず、意欲を低下させる毒薬にもなる。
考えてみてほしい。もうすでに単純作業はロボットにより機械化されはじめている。IoTやAIにより今後ますますその流れは加速するだろう。つまり、報酬によってモチベーションを維持できる程度の単純労働はもうほとんど存在しないんだ。人の作業はより複雑化しどんな仕事にも想像力や創意工夫が必要になる。むしろ、やりがいの感じやすい仕事しか残されていない。にもかかわらず、報酬を垂れ流すだけの無機質なメソッドを未だに続けている。若者には申し訳ないことだけれど、わたしの世代では、それ以外のやり方を未だに発明できずにいる。
収入と幸福度は比例する!?
「収入が増えれば幸福度も比例して上がる」なんて言葉を耳にしたことがあるかもしれない。これはわたしの世代でよく言われる免責だ。少なくともわたしはただの言い訳だと思っている。
確かに収入によって幸福度は向上する。これは事実だ。内閣府が行った国民の幸福度についての調査報告書によると、幸福度を図る重要な要素は主に収入と、健康、家族関係の三つがある。収入は幸福度を図る最重要課題の一つと言っていい。この調査を見ると世帯収入が上がるほど幸福度も右肩上がりに上がっているのがわかる。このことからも、年収が幸福度の向上に貢献するという見解は正しい。
ただ、だからといって収入に固執する前に、二つだけ言わせてほしい。一つ目は幸福度の向上に貢献する収入にはピークがあるということ。世帯収入が2000万〜3000万をピークに幸福度はゆるやかに下っていく。世帯収入が一億以上あっても幸福度は世帯収入500万〜700万程度のそれとほぼ変わらない。これは、収入が全てではないということを物語っている。
とはいえ、世帯収入が2000万までは少なくとも幸福度があがるんだから、まずは収入を増やそうと考えるのは間違っていないんじゃないか?だから、二つ目にいいたいことは、このピークは誰が決めているのか?ということ。ちなみにこのピークは2011年の調査では1000万〜1200万だった。つまり年々変動するということだ。このピークは年々更新され、人は届きそうで届かない課題をつねに突きつけられ幸福への渇望を抱きながら生活をすることになるだろう。世帯年収2000万以上の世帯は2%に満たない。あなたはこの2%の競争にも打ち勝たなくてはいけない。例え打ち勝ったとしても、その先は緩やかな下降に転じる。バラ色の人生は決して約束されていないんだ。
時間
内閣府が毎年公表している調査でわかるのは、少なくとも日本人の多くは幸福には「収入」「健康」「家族関係」の三つが最も重要だと考えている。しかし、その重要な要素の一つである収入を得ることと同じくらいに、心や体の健康に意識を使っているだろうか?同様に家族との絆を深めることに多くを費やしているだろうか?
健康、特に心の健康はよりよい環境から生まれるし、家族関係も良好な体験を共有する時間が必要だ。なにをするのであれ、それには充分な準備とそれを実行するための時間が必要だ。そう考えると、もっとも重要な価値はお金ではなく「時間」だということもできる。ところがその有限な時間のほとんどを「収入」の一点に充てているのが現代社会だ。健康にしろ家族との関係にしろお金がなければ充分な満足を得られないと考えているためだ。美味しいパンを食べるために行列に並んだのに、並ぶことが目的になってしまいパンを食べることを忘れてしまっている。豊かな人生のために時間を使わない限り満たされない渇望はいつまでもつづく。この矛盾が人生を無機質なものにする。人生の限りある時間のどれだけを何の活動にあてるのかを選択する権利がわたしたちにはあるはずだ。
キミは何者なんだ
だからこそ、人生の時間を何に割くかがとても大事なんだ。自分はどういう人物で、何をするとワクワクして、どういうときに幸せを感じられるだろう?その感覚を持続するには何が必要で、何が足りないんだろう?この質問に明確に答えられる人は少ない。ほとんどの場合、TVや雑誌を見て、メディアの広告を見て、電車の中吊りをみて、インターネットのパーソナライズされたレコメンドを見て、恣意的に掻き立てられ何かを欲し続ける。それはお金という交換価値を通しての労働と報酬の果てしない連鎖なんだ。そこに己の意思は存在していない。
繰り返すけれど、大事なのはどんな時間を何に当てるのか自分自身で選択できるということだ。ただ、自分が何者かなんてなかなか簡単に出せる答えじゃない。BASHARの受け売りだけど、ワクワクする気持ちの動きを追跡するというのはとてもわかりやすい。迷ったら利害や損得や不安を脇に置いて、ワクワクすることを検知する習慣を持ってみてはどうだろう?何をして何をしないのかは、自分で選択していい。
「やらない」という選択
時間を何に使うのが人生を豊かにするのか?この答えはとても難しい。わたしにもわからない。わからないがゆえに、好きなことを仕事にすればいいだとか、得意なことだけで生きていけばいいんだよ、とかいう風潮が流行っているけれど、その生き方は時期尚早だと思うんだ。
そもそも好きなことってなんだろう?旅行が好き?そしたらずっと旅行をしながらできる仕事が幸せなのだろうか?(もちろん、そういう人もいるだろうし、それは否定しない。)しかし、それが本質なのだろうか?好きなことにこだわりすぎるあまり、めんどくさい学びを避ける。好きなことが見つからずに返って好きなことはどうしたらみつかりますか?なんて本末転倒な質問を繰り返す。その好きなことは自分の人生をそして自己が震えるほどの幸福をもたらすものだろうか?あなたは何のために生きているんだ?その答えはもっと長く地道な人生のなかで育んでいくものじゃないかと思うんだ。
そこでわたしから一つ提案がある。気に入らなければ受け取る必要はない。選択は誰しも自由なのだから。
「やらない」ことを決めてみてはどうだろう?なにかを「やる」ことを見つけるのはとても難しい。でも「やらない」と決めるのは易しい。ただ、少しの勇気がいる。現代社会はとかく行動や結果にたいして評価されがちだ。だから、みんないつも他人からの評価に怯えている。そして、何も価値を産まないものに必至にしがみついて常に何かを「やる」ことに追われる。そうやってついに時間不足に悩まされることになる。もっと生活をシンプルに考えてみたらどうだろう?人生において重要でないことを少しずつ「やらない」と決めてみる。すると人生がよりシンプルに研ぎ澄まされていくだろう。自分が何者で何に突き動かされているのか、それを見つけるのはとても繊細で緻密な作業なのだ。
例えば、わたしには毎朝TVニュースをみる習慣があったのだけど、その習慣を「やらない」と決めてみた。それまでは毎朝犯罪ばかりで暗い気持ちになっていたんだ。実際には犯罪の発生率は年々減っているんだけどね。ハンス・ロスリング氏も言ってた。世界を正しく見ることが重要だって。朝のニュースはわたしに暗い社会を連想させる。今はニュースに費やしていた時間を使って、毎朝ゆっくりコーヒーを挽いてハンドドリップで入れている。一杯のコーヒーを飲みながら心を落ち着かせて瞑想する。そのほうが一日がよっぽど気持ちよく過ごせる。
どのような社会を実現するか
もっと過ごしやすく、自分の人生に責任がもてるような社会にするためにはどうすればいいだろう?わたしは最近そんなことばかり考えている。
でも、それはまた別のお話。
参考
「満足度・生活の質に関する調査」に関する第1次報告書(内閣府)2019年
https://www5.cao.go.jp/keizai2/manzoku/pdf/report01.pdf
人々の幸福感と所得について(内閣府)2014年
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/0214/shiryou_03.pdf
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