見出し画像

プログラミング教室をした話(3)

先日、親戚の高校生に頼まれて簡単なプログラミング教室を開催したときのお話。個人的にいろんな気付きをまとめたnote。

遊ぶ時間もない/ひとりの時間がない

毎日通学に片道2時間近くの時間をかけ、週3で塾に立ち寄ってから家に帰る。家に帰ったら学校の宿題に追われ、土日は課外活動や習い事でつぶれてしまう。なんとなく日々の時間配分を聞いてみたらそんな答えが返ってきた。。いったいいつ遊んでいるの?(お母さんに見つからないようにこっそりYouTubeを倍速再生で楽しんでいるらしいwww)

家から最寄り駅まですら車で送迎してもらうのだから、今の子たちは常に大人の管理下におかれ、一人になる時間がない。みんながみんなそうというわけではないと思いますが、どうやらこれは日本だけじゃなくて、世界的に起こっている傾向のようです。社会が管理統制されるようになると、人生そのものが決められた条件の中でしか起こらないと感じるようになる。すると、どうしたってその条件の有利不利だけが目につく。他と比べてうちの子は大丈夫だろうか、少しでも良い条件を与えようと常に我が子を心配する。親が子供を心配するのは悪いことではないけど。子供の人生を良くも悪くも導こうとするのでしょう。そうやって子供たちの自由は制限されている。

70年代には、イギリスの小学生の8割は歩いて学校に行っていた。ところが、現在も歩いて通っている子供は1割にしか満たないそうです。それどころか、多くの子供にとって屋外で過ごす時間は受刑者より少ないなんて調査もあったりするのです。日本でも恐らくこの傾向は同じなのだなと、話を聞きながら思った。代わりに増えているのが親と過ごす時間、、、なんですね。

塾の特待生という大人の事情

noteのURLは失念してしまったのですが、どなたかのnoteで塾の特待生の話をされているものがあったんですね。

塾にも特待生の制度があるらしく、成績優秀だと授業料が免除になるだけでなく、入試にかかる費用からその交通費まで全額負担してくれるVIP待遇があるのだそう。塾側からしたら、そのようにして志望校以外の入試も受けてもらうことで営業成績を稼いでいるってことだと思います。これも穿った見方をすれば、子どもたちの時間が大人の事情に消費されているとも言える。

そんな記事を思い出して、特待生の制度についてお父さんに聞いてみたところ、ちょっとうれしそうに「そうなんだよ。うちの子もその制度で塾に通っているんだ」と仰っていた。

人生を「効率的」に歩むこと

会話の節々に感じたのは、効率的な人生を歩もうとしていること。プログラミングクラスの成績ひとつとってもそうだけど、主要な教科に集中したい、というのがたぶん本音。効率的にテスト勉強や大学入試を「攻略」したいのだ。彼らにとってカッコつきの”人生”というクエストは「攻略」の対象でしかないのかもしれない。

まだ高校1年生だというのに大学入試という言葉が頻繁に出てくるのに正直面食らってしまう。将来はどんなことをしたいのかについても、自分のスキルが企業にどう認められるかなんて話(つまり入社の話)がでてくる。。。もちろん、教育ママに育てられているわけでもなく、いたって普通の賢い子なのだけど、おそらく周りの友人と日常的にそのような会話が繰り広げられているのだろうと想像する。

自由な時間と自由な発想

社会は決まりきった枠であって、(わたしたちの時代にもそのような感覚はあったけど)そこからはみ出ることが想像できないほどになっている。そのルールの中で構築されているのだから、その法則に効率よく従うことで有利に物事をすすめたいと思うのは当然かもしれない。

でも、自由な時間と自由な発想は決して無関係じゃない。そのような条件プログラムされた環境の中では、わたしたち人間はたぶんモノを考えることを辞めてしまう。考えるだけ無駄だから。そして感じることすらどこまでも外的になってしまう。楽しいとか、つまらないというイベントそのものが条件付けされたプログラムであるのだから。思考も発想もそしてそこにあるはずの無垢な感性すら枠からはみ出ることができなくなってしまう。それはもはや人間と言えるのだろうか?

大人の問題

これはまったくわたしたち大人の問題ではないだろうか。わたしたちは会社に勤めサラリーをもらう条件づけされた管理の元で日々の生活をしていて、それが当たり前になってしまっています。そうやって日々吐き捨てるように職場の批判をする一方で、”人生”とはそういうものだという感覚に陥り、そのいたって大人都合の感性を子どもたちに強要しているように思えてしかたがない。

子供の頃からお金の学習をさせる、何かと有利な習い事をさせる、入試という評価プログラムを攻略させる、そうやって少しでも有利な条件を整えるために、子どもたちの自由を大人都合でプログラミングしている。

子供たちは放っておくと、与えられた時間を無駄に過ごしてしまうのではないか?未熟な彼らは自由をうまく扱うことができないのではないか?とわたしたち大人は心配する。

でも、本当の問題は子供たちにあるのではなくって、わたしたち大人が彼ら子供たちに「自由を与える器量と勇気がない」ということなのではないか?そんな風に思った。

おしまい

戻る | 3 | 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?