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社会の民主化をも担うエンジニア

 振り返ると私がエンジニアになろうと決めたのは9歳だった。
 当然であるが自分の意思より周囲の環境が大きく影響していた。 当時、父は国鉄(現JR)の研究所に勤めていた。奇しくも前回の東京オリンピックの年、東海道新幹線が開通したが開業前の試験走行に連れて行ってもらった。”夢の超特急”と言われていた車体を見ただけでも子供ながらに興奮したが、その日の走行は最高時速へのチャレンジの日で、達成の瞬間に走る車両の中でエンジニアが手を叩き、飛び上がり喜んでいた。冷静沈着であるはずの大人が仕事の成果であれほど喜べるのかと度肝を抜かれた。その後、アメリカとの初の衛星中継やアポロ11号の月面着陸のライブ映像を見て通信系のエンジニアになろうと決めていた。
 父は家でも私に影響を与えた。 我が家には試験放送をしている段階からTV受信機があった。当時の家庭では珍しかったステレオもあった。全て父の自作であった。最先端に触れたかったら他人から与えられる前に自分で手に入れる、と教わったような気がする。これは技術への興味を超えて人生論につながった。

 中学へ入った頃から私は自分でラジオを作り始めた。当然のこと真空管製である。短波ラジオを作り、波長を計算してアンテナを貼り海外の放送を聞いていた。学校の英語の授業よりよほど身についた。今となっては懐かしいアマチュア無線の上級資格も取り、送信機は自作だった。

 その辺りからエンジニアリングにしか興味がなく、学校の国語や社会の授業への態度が悪くてよく怒られた。更にTVや新聞で得られる以外の情報を入手する手段を持ち世間を斜めに見た部分もあった。 まさか大人になりエンジニアの職業へ着いた後にマーケティング知識、各種執筆活動、組織論や歴史からの学びが必要になってくるようなことは当時は夢にも想像していなかったのである。多分、身を助けたのは数学的アルゴリズムでものを考えることを意識していたことであろう。これ分野に関係なく必須であり、意識の低い授業態度を穴埋めしてくれた。理系文系の区分すら不毛だと感じていた。 今やエンジニアリングそのものより原稿を書いたり、資料を作ったり、公演することの比率が圧倒的に高い生活になり、もっと真面目に学んでおけばと思う。

 社会人になり計画通りに高周波通信系の半導体設計エンジニアとなった。大きな会社で毎年千人規模の新入社員がいるのに自分のやりたい分野で且つ設計をやらせて貰えるとはこれも巡り合わせであった。仕事を続けるためにモチベーションを探すなどということは一度もなかったのは幸せなのだろう。 その分のエネルギーをチャレンジに使えたからである。高周波通信は当時は特殊な分野であったのだが、自動車電話から始まり携帯電話が普及することで民間との関わりが出て、自分の仕事の世の中への貢献度が実感し易くなった。

 その頃からエンジニアの使命は商品の性能ではなく、市民へのベネフィットの提供であると感じ始めた。パーソナルコンピュータが普及して面倒な計算の解を数学が得意でない一般人でも導けるようになったこと、もっと身近では歌を歌うのは楽器が弾けるか特別に歌が上手い奴だけだったのにカラオケの普及で誰でも好きに歌えストレス発散できるようになったこと、個人に対する制限が解除されていくことが重要なのである。

 そして現在、通信を含めあらゆる技術分野の融合、ハードウェア、ソフトウェア、システム、プラットフォームも融合して社会インフラができた結果、誰でも簡単に欲しい情報収集ができるようになった。 ハードウェアは最近話題にならないが、半導体がなければ何も実現はしないことに気づいて欲しい。 TVも新聞も我々が目にするのは2次以降の情報であり1次情報に触れることができるのは大事なこと、他人の思考に操られなくて済むのである。個人にとって当たり前と思われていた制限が次々と解き放たれていき、これは民主化そのものであると感じる。 社会の民主化促進など政治家しかできないと思われがちであるが、エンジニアの結束によりどんどん社会が民主化されているのは確かである。自分の関わった商品の性能が他社より優れているのは些細なこと、我々エンジニアが結集して作り上げる社会の仕組みが市民をより民主化へ導くこと、これがエンジニア仕事の醍醐味である。


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