感情と社会 24

暴力の諸相 ⑴スポーツと「国家」

ここからは6回にわたって、暴力性という感情に焦点を当てて、6つの観点からそれを考えてみたいと思います。

前の節で、ホイジンガとダニングを引用しながら、スポーツが勝つことを目的とした遊戯的闘争であり、勝者の社会的な地位が向上して、人格的な評価までもが高まるというさまを、描き出しました。
おかしな話です。どうして人よりも異様に早く走れる人が、どうして人並外れて早く泳げる人が、どうして腕力が尋常ではない強さの人が、どうして人の頭部を確実に殴るのに長けている人が、必ず、人格的に優れているんでしょう? どうして日本では、かつて、スポーツ選手だった人が文部科学大臣になれたのでしょう? ああ、そういえば、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という、どこで誰が言い出したのかもはっきりしないのに、あまねく人口に膾炙しているスローガンは、日本の軍国主義教育と切っても切れない関係にありましたね。

かつて、社会学者の作田啓一は、こんなことを書いていました。
「大はオリンピックから小は高校野球にいたるまで、人は国家のために母校や郷土の名誉のために、どうしても勝たなければならない。私たちはいつも家族や職場や組合の代表者としての責任を重く背負ってよろめいている」(作田啓一『高校野球と精神主義』1964)
どうしても勝たねばならない。たしかにそうなっています。そして誰も「でも、どうして、勝たねばならないのか?」という疑問は持ちません。持っていたとしても、それを口に出すことはありません。
勝ってすさまじい雄叫びを上げるのなら、それはそれで、暴力性が十分に充足できた喜びとして理解ができそうです。でもそういうわけでもない。ガッツポーズをした力士は咎められました。対戦して負かしたプレーヤーにねぎらいの言葉をかけた選手は絶賛されました。不思議な「道徳」がそこにあります。
そして、作田が言う通り、勝つ理由は、国家や、母校や、郷土や、身近なところだと自分が属している団体や、学校や、運動部や、先輩や監督や親などの<名誉>を満足させるためのようです。そこには個人の奔放な姿、個に由来する無邪気なまでの暴力の発露は、ありません。

2021年夏の甲子園での選手宣誓には、こんな言葉がありました。
「この甲子園で高校球児の真(まこと)の姿を見せる」
宣誓した選手は、もちろん名前のある一個人なんですが、彼はそういう立場にはなく、「高校球児」という仮想の集団の理念(まこと)を体現することを、こういう儀式に時折見かけられる、性的な高揚感すら連想させるような奇妙な緊張を見せながら(性的な活力がいとも簡単に男性性、つまりは体力、闘争力による人格形成と結びついていたという歴史的な経緯は、ずっとあとで取り上げてみたく思います)、宣言していました。誰が彼に、「真の姿」を見せるように強要したのか。彼自身、それが強要されたものだとは、おそらく微塵も感じていないでしょう。彼はまさしく彼としてそう言っているのだという気持ちなのでしょうが(ルールが見事に内面化しています)、それは彼という個が発したものではありませんし、硬直した彼のいでたちに、自発性に満ちた伸びやかな個性は感じ取れません。彼ではない外部に、つまり他者に由来する風習に従うことが、そのまま生きることになってしまった姿です。

ヨーロッパのサッカーリーグなどでは、審判員の見ていないところでの暴力行為(反則)、得点を決めた時の雄叫び、試合に敗れた時のすさまじい悔しがりの光景はよく目にします。エリアスやダニングが指摘しているとおりで、ヨーロッパの歴史的な展開の中では、暴力装置としてのスポーツは、その本質を失わないまま、個人の快楽追求(啓蒙主義の洗礼を受けて急速に普及した個の尊重という感情を味方につけています)との折り合いをなんとかしてつけようという(それ自体かなり無理のある努力ではありますが)、試みを行なってきていることが、はっきりと感じ取れます。暴力行為への個人的な欲求、ということを通して、彼らには、わずかかもしれませんが、個としての自発的な行動があるように思えます。

日本にこういう風土は根づいていません。
スポーツ競技に関わる人々からは、自立した個が発する内発的な感情とはまるで違う声が聞こえてきます。
勝者の雄叫びは、場合によっては非難(それもおそらくは、人格に関わる非難なのでしょう)の対象になります。日本では、勝者は自分の力で勝利を得た者ではありません。常にそれは、「家族」や「コーチ」や「チームの成員」などの「おかげ」で「勝たせていただいた」者です。
そればかりか、日本では、「大試合」に負けた場合、とても珍妙な感情が湧き起こります。選手たちは、誰でしょう、とにかく、誰かに向かって謝罪をして、泣くのです。彼らは罪を犯しているのです。
レスリングの選手、2021年のオリンピックで銀メダルを獲得したにもかかわらず泣きながら謝罪の言葉を発したそうです。
「応援してくれた方、ごめんなさい」
特にアメリカのメディアはこの奇妙な風習を取り上げて、理解に苦しむものとして紹介していました。銀メダルが取れたのなら、喜ぶ方が普通だろうと。
リオデジャネイロでのオリンピックで、やはり銀メダルを獲得したレスリング選手も、お詫びの言葉を泣きながら述べていました。
「もうこんなにたくさんの方に遠いところまで来ていただいたので、日の丸の旗や声援がものすごく聞こえてきたんですけど、最後、自分の力が出し切れなくて申し訳ないです」
1964年の東京オリンピックで銅メダル「しか」獲れなかった円谷幸吉選手は、4年後に自殺しています。
日本の選手たちは、何を背負っているんでしょう? 除霊が必要なほど、執拗でおぞましいもののように感じられます。謝罪の念に捕われて、悔しさとはおそらく違う涙に襲われて、自分に対する行為にまで及ぶという、この激しい罪悪感と自己破壊衝動は、どこから来るのでしょう?

「実際に「誰に」そして「なぜ」謝っているのかは、日本人でない身としては理解しがたい」こうスポーツ研究者のライトナー・カトリン・ユミコさんも述べています。では、「日本人である身」なら、これは易々と理解できるのかというと、どうなんでしょう、少なくともぼくにはまったくといっていいほど、理解できませんが、日本の<傑出した>選手たちの言動を見る限り、これは彼らには自明のことと思われます。「体育」会的な指導とよく言われますが、日本のスポーツ界には、明治以降の「体育」が体現していた暴力訓練と国家に貢献する道徳観という感情の伝統がそのまま引き継がれているように思えます。こうした風土 ethnicity にあっては、「目上の」「指導者」や「先輩」が絶対視され、その権力(Power、暴力を含みこんだ言葉です)に従うことが至上のルールになります。ここに関わる人々は、すでに個ではなく、何かの理念を具現するための材料でしかありません。この理念、この責務は、分かりやすい形では、著名な競技会での勝利という「債務履行」によって果たされねばなりません。
一方、「債務不履行」、つまり敗北は、処罰の対象です。他者に要求されたことを満足に果たせない場合、それは責められるべき行為、極端な場合、許されない行為と感じられる。債権者に対して赦しを乞うか、罪を償う(極端な場合は自らの生命を断つ)かによってしか、もう対処のしようがありません。
では、債権者(実体としてある指導者、先輩、親、所属する競技集団、実体がないものとして、所属する部、団体、学校、自治体、国家など)の側は、嬉々として断罪という暴力を楽しんでいるのかというと、そうではなく、少なくとも実体のある債権者たちは、自分もそういう環境 milieu にいて、そういう心と行動を引き継いできただけです。おそらく彼らもやはり、自分自身であることを認められたという経験がありません。彼らは、暴力行使によって、実に個人的な、満足のいく快感は得ていませんし、処罰をし終えたという完結感に伴うかもしれない充足感も手に入れることができません。宣誓をする選手のように、彼らの表情と身体には、緊迫感と悲壮感と、被虐的な高揚感とが入り混じった、独特の ethologial な表出が現れます。その姿には自発性はありません、つまり、自立した個がありません。自己は、兵役訓練同様に、徹底的に排除され、疎外されます。

自発性や個を失ったこの心の状態は、スポーツ選手、つまり「体育」という名の内面化されたルール、「道徳」を身につけた人々に特有というわけではなく、ほぼ日本全土を覆う独特のメンタリティーになっています。そのさまは、つい先日終わったオリンピック直後に放映された次のコマーシャルメッセージに、余すところなく表現されています。
「選手のみなさんのプレーにみんなで盛大に拍手を送りましょう!」(三井不動産のCM)
競技をしたのは固有名を持った個人ではなく、「選手」と呼ばれています。個を奪われて、単なる役割名でそう呼ばれている「選手」は、さらに「みなさん」という、実体がよくわからない集合名詞で名指されます(英語の羊 sheep に単数系と複数形の別がないように)。こうして個人としての実体を持っているはずの競技者は、人格性のない何かの「プレー」と見なされたものにまで変換されて、それを、やはり個性を奪われた「みんな」という実体に欠けた何かの象徴的な集合体が、賞賛という行為で自分自身と同一化(転移ですね)することを、明らかにただの演技者である広瀬すずさんでもない、かといって誰と特定することもまずできそうにない誰かが「送りましょう!」と指示するという、まさに完全無欠のキャッチコピー。徹頭徹尾、ここには個が不在、空白です。

同じようなことは、なぜかオリンピックのイベントとして行われる、自衛隊機によるパフォーマンスでも起きています。医療従事者への「エール」としてもこのパフォーマンスは行われましたが、その場ではもちろん、機を飛ばしている個人としての操縦士に関心を払う必要はありません。いかに見事にパフォーマンスを行うか、という演出が着目されるだけです。演技だと分かりながらも特撮ヒーローに興奮する子供と、同じ状態ですね。それを見て「感動」したり「喜んだり」する人々は、それが医療支援やオリンピックで行われる競技と、直接的で実質的な関係があるかどうかにも、関心がありません。操縦士にも、観客にも、個としての感受性や、個としての考えがない。情緒的にここに関わる人々の自己が、まるで不在です(この自己の不在、以前、疎外ということばを使ってお話しした人格の空洞を生み出しているのは、じつは教育なのですが、それについては次回お話しします)。軍事パレードに熱狂して国旗を振る隣国の人々に、違和感、あるいは馬鹿馬鹿しさなどを感じる人、「馬鹿だな、いいように操られてるよ」と感じる人は、日本にもいるでしょう。しかし、自衛隊機のパフォーマンスにカメラを持って集まり、見えた見えないと一喜一憂する心と、軍事パレードに歓喜する心とが、同じものなのかもしれないと感じる人は、ほとんどいないのかもしれません。しかしまさにここに、軍事と政治とが象徴的に、目に見える形で結合しています。双方をまっすぐに結んでいるのはもちろん、暴力性です。個を疎外して、集団という、国家にとって好都合な集合体、練り物のようなものを作り上げようという、じつに根深くて恐ろしい暴力性です。

スポーツが政治、つまり支配機構との親和性が高いのは、したがって当然です。
2021年のオリンピックで、日本の報道姿勢にこれは露骨に表れていました。テレビで放送された場面は、ほぼすべて、日本人選手が登場するものばかりでした。「国威発揚」と聞くと戦前の亡霊のようにお感じかもしれませんが、まさに「国威発揚」が放映の目的だったことが明確にわかります。中継アナウンサーは「我が国ニッポン」の選手の美技を叫び(「やったー! ついにやりました金メダル!」)、オリンピック終了後には、各紙(全国紙全てがオリンピックのスポンサーでもありました)一斉に、日本のメダル獲得数を誇っていました。
国際的な競技会では、選手が属する国の国歌が演奏されることが通例となっています。オリンピックやワールドカップ以外に、たとえばボクシングのタイトルマッチでもそうですね。スポーツ選手はまずもって国家の代表という扱いです。これもまたスポーツ競技と支配機構との親和性を如実に示しています。
一方、今回のオリンピックでは、難民選手団というチームも紛争地域からの参加として、初めて登場していましたが、これが日本のメディアに大きく取り上げられることはありませんでした。選手たちの資金サポートが彼らの所属国のオリンピック委員会に丸投げされていたこと、「難民」にたとえばパレスチナ難民などが含まれていないことなどは、さらに報道されませんでした。彼らにはまさに「国家」が欠けているために、難民支援という感動ポルノのネタ以上の sensation(情動を引き起こすこと)を起こすこともできず、まして彼らに相応しい「国歌」もないために、international 国家間の、という旧態然とした支配システムに対するアンチテーゼとしてもまるで機能しなかったわけです。当然、報道価値(被支配民に対する国家的な「道徳」のメッセージ)はありません。

そして、国家とスポーツとの蜜月の歴史的な由来は、前の節でお話しした通りです。

ぼくたちにとても身近な営みと感じられるスポーツは、その身近さゆえに、ことさら深く考えられることがないのでしょう。でも、スポーツと括られる営みのうちでも、とりわけ日本で「体育」という教科、あるいは「徳目」と関わっているところでは、権力支配という暴力装置にとってそれが重要な位置を示していることがわかってきます。
支配者は、ずっとお話ししているように、支配者層が望ましいと考える「道徳」、社会ルールを、被支配層の心に刷り込むこと、内面化させることに躍起になります。それが最も効果を発揮するのは、支配層が彼らにとって都合のいい人間観(その典型は家族観、血統観、民族観などでしょうか)をでっち上げること。したがって国家にとっては、家族観を植えつけること、教育によって「道徳観」を心に刷り込ませること、この二つが、核心をなす支配装置になります。
スポーツはまさに、この装置を非常に効率的に動かすための、みごとに感覚化された恰好の<教育的>な仕組みです。この社会が<競争社会>であることの遊戯的な(つまり無害化されたというイメージを伴った)提示、<競争>が激化して<潰し合い>や<テロリズム>に至らないよう、巧みな規範をでっち上げること(ルールの設定、スポーツマンシップの発明など)、ルールを遵守しない者を排除すること(スポーツの評価は人格の評価だという観念)、競争によってのし上がる行為を「賞賛」「名誉」などによって美化すること、美化を燦然と輝かせて顕彰することによって、勝者の安定生産を確保すること(それはとりもなおさず、国家的な富の効率的な増大、文明国家としての威信の維持などを保証しています)などを行います。
まさにスポーツは、支配者にとっては「徳育」の装置なのです。国家が膨大な予算をスポーツに割いているのは、一般市民の福祉のためではなく、支配の安定化のためです。

「徳育」は、「教育」の一環のように感じられますね。そのとおりです。先ほどもお話ししたように、特定の人間観をでっち上げること、特定の「道徳観」を刷り込むこと、これが支配を安定化させるための最重要事項ですから、当然、スポーツが持っている機能は、特定の偏向した人間観や社会観の基礎を作るための「教育」にもしっかりと浸透しています。この次は、支配=暴力、という視点から、「教育」がどんな光景として見えてくるかを、お話しします。

暴力の諸相 ⑴スポーツと「国家」

前の節で、ホイジンガとダニングを引用しながら、スポーツが勝つことを目的とした遊戯的闘争であり、勝者の社会的な地位が向上して、人格的な評価までもが高まるというさまを、描き出しました。

おかしな話です。どうして人よりも異様に早く走れる人が、どうして人並外れて早く泳げる人が、どうして腕力が尋常ではない強さの人が、どうして人の頭部を確実に殴るのに長けている人が、必ず、人格的に優れているんでしょう? どうして日本では、かつて、スポーツ選手だった人が文部科学大臣になれたのでしょう? ああ、そういえば、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という、どこで誰が言い出したのかもはっきりしないのに、あまねく人口に膾炙しているスローガンは、日本の軍国主義教育と切っても切れない関係にありましたね。


かつて、社会学者の作田啓一は、こんなことを書いていました。

「大はオリンピックから小は高校野球にいたるまで、人は国家のために母校や郷土の名誉のために、どうしても勝たなければならない。私たちはいつも家族や職場や組合の代表者としての責任を重く背負ってよろめいている」(作田啓一『高校野球と精神主義』1964)

どうしても勝たねばならない。たしかにそうなっています。そして誰も「でも、どうして、勝たねばならないのか?」という疑問は持ちません。持っていたとしても、それを口に出すことはありません。

勝ってすさまじい雄叫びを上げるのなら、それはそれで、暴力性が十分に充足できた喜びとして理解ができそうです。でもそういうわけでもない。ガッツポーズをした力士は咎められました。対戦して負かしたプレーヤーにねぎらいの言葉をかけた選手は絶賛されました。不思議な「道徳」がそこにあります。

そして、作田が言う通り、勝つ理由は、国家や、母校や、郷土や、身近なところだと自分が属している団体や、学校や、運動部や、先輩や監督や親などの<名誉>を満足させるためのようです。そこには個人の奔放な姿、個に由来する無邪気なまでの暴力の発露は、ありません。


2021年夏の甲子園での選手宣誓には、こんな言葉がありました。

「この甲子園で高校球児の真(まこと)の姿を見せる」

宣誓した選手は、もちろん名前のある一個人なんですが、彼はそういう立場にはなく、「高校球児」という仮想の集団の理念(まこと)を体現することを、こういう儀式に時折見かけられる、性的な高揚感すら連想させるような奇妙な緊張を見せながら(性的な活力がいとも簡単に男性性、つまりは体力、闘争力による人格形成と結びついていたという歴史的な経緯は、ずっとあとで取り上げてみたく思います)、宣言していました。誰が彼に、「真の姿」を見せるように強要したのか。彼自身、それが強要されたものだとは、おそらく微塵も感じていないでしょう。彼はまさしく彼としてそう言っているのだという気持ちなのでしょうが(ルールが見事に内面化しています)、それは彼という個が発したものではありませんし、硬直した彼のいでたちに、自発性に満ちた伸びやかな個性は感じ取れません。彼ではない外部に、つまり他者に由来する風習に従うことが、そのまま生きることになってしまった姿です。


ヨーロッパのサッカーリーグなどでは、審判員の見ていないところでの暴力行為(反則)、得点を決めた時の雄叫び、試合に敗れた時のすさまじい悔しがりの光景はよく目にします。エリアスやダニングが指摘しているとおりで、ヨーロッパの歴史的な展開の中では、暴力装置としてのスポーツは、その本質を失わないまま、個人の快楽追求(啓蒙主義の洗礼を受けて急速に普及した個の尊重という感情を味方につけています)との折り合いをなんとかしてつけようという(それ自体かなり無理のある努力ではありますが)、試みを行なってきていることが、はっきりと感じ取れます。暴力行為への個人的な欲求、ということを通して、彼らには、わずかかもしれませんが、個としての自発的な行動があるように思えます。


日本にこういう風土は根づいていません。

スポーツ競技に関わる人々からは、自立した個が発する内発的な感情とはまるで違う声が聞こえてきます。

勝者の雄叫びは、場合によっては非難(それもおそらくは、人格に関わる非難なのでしょう)の対象になります。日本では、勝者は自分の力で勝利を得た者ではありません。常にそれは、「家族」や「コーチ」や「チームの成員」などの「おかげ」で「勝たせていただいた」者です。

そればかりか、日本では、「大試合」に負けた場合、とても珍妙な感情が湧き起こります。選手たちは、誰でしょう、とにかく、誰かに向かって謝罪をして、泣くのです。彼らは罪を犯しているのです。

レスリングの選手、2021年のオリンピックで銀メダルを獲得したにもかかわらず泣きながら謝罪の言葉を発したそうです。

「応援してくれた方、ごめんなさい」

特にアメリカのメディアはこの奇妙な風習を取り上げて、理解に苦しむものとして紹介していました。銀メダルが取れたのなら、喜ぶ方が普通だろうと。

リオデジャネイロでのオリンピックで、やはり銀メダルを獲得したレスリング選手も、お詫びの言葉を泣きながら述べていました。

「もうこんなにたくさんの方に遠いところまで来ていただいたので、日の丸の旗や声援がものすごく聞こえてきたんですけど、最後、自分の力が出し切れなくて申し訳ないです」

1964年の東京オリンピックで銅メダル「しか」獲れなかった円谷幸吉選手は、4年後に自殺しています。

日本の選手たちは、何を背負っているんでしょう? 除霊が必要なほど、執拗でおぞましいもののように感じられます。謝罪の念に捕われて、悔しさとはおそらく違う涙に襲われて、自分に対する行為にまで及ぶという、この激しい罪悪感と自己破壊衝動は、どこから来るのでしょう?


「実際に「誰に」そして「なぜ」謝っているのかは、日本人でない身としては理解しがたい」こうスポーツ研究者のライトナー・カトリン・ユミコさんも述べています。では、「日本人である身」なら、これは易々と理解できるのかというと、どうなんでしょう、少なくともぼくにはまったくといっていいほど、理解できませんが、日本の<傑出した>選手たちの言動を見る限り、これは彼らには自明のことと思われます。「体育」会的な指導とよく言われますが、日本のスポーツ界には、明治以降の「体育」が体現していた暴力訓練と国家に貢献する道徳観という感情の伝統がそのまま引き継がれているように思えます。こうした風土 ethnicity にあっては、「目上の」「指導者」や「先輩」が絶対視され、その権力(Power、暴力を含みこんだ言葉です)に従うことが至上のルールになります。ここに関わる人々は、すでに個ではなく、何かの理念を具現するための材料でしかありません。この理念、この責務は、分かりやすい形では、著名な競技会での勝利という「債務履行」によって果たされねばなりません。

一方、「債務不履行」、つまり敗北は処罰の対象です。他者に要求されたことを満足に果たせない場合、それは責められるべき行為、極端な場合、許されない行為と感じられる。債権者に対して赦しを乞うか、罪を償う(極端な場合は自らの生命を断つ)かによってしか、もう対処のしようがありません。

では、債権者(実体としてある指導者、先輩、親、所属する競技集団、実体がないものとして、所属する部、団体、学校、自治体、国家など)の側は、嬉々として断罪という暴力を楽しんでいるのかというと、そうではなく、少なくとも実体のある債権者たちは、自分もそういう環境 milieu にいて、そういう心と行動を引き継いできただけです。おそらく彼らもやはり、自分自身であることを認められたという経験がありません。彼らは、暴力行使によって、実に個人的な、満足のいく快感は得ていませんし、処罰をし終えたという完結感に伴うかもしれない充足感も手に入れることができません。宣誓をする選手のように、彼らの表情と身体には、緊迫感と悲壮感と、被虐的な高揚感とが入り混じった、独特の ethologial な表出が現れます。その姿には自発性はありません、つまり、自立した個がありません。自己は、兵役訓練同様に、徹底的に排除され、疎外されます。


自発性や個を失ったこの心の状態は、スポーツ選手、つまり「体育」という名の内面化されたルール、「道徳」を身につけた人々に特有というわけではなく、ほぼ日本全土を覆う独特のメンタリティーになっています。そのさまは、つい先日終わったオリンピック直後に放映された次のコマーシャルメッセージに、余すところなく表現されています。

「選手のみなさんのプレーにみんなで盛大に拍手を送りましょう!」

(三井不動産のCM)

競技をしたのは固有名を持った個人ではなく、「選手」と呼ばれています。個を奪われて、単なる役割名でそう呼ばれている「選手」は、さらに「みなさん」という、実体がよくわからない集合名詞で名指されます(英語の羊 sheep に単数系と複数形の別がないように)。こうして個人としての実体を持っているはずの競技者は、人格性のない何かの「プレー」と見なされたものにまで変換されて、それを、やはり個性を奪われた「みんな」という実体に欠けた何かの象徴的な集合体が、賞賛という行為で自分自身と同一化(転移ですね)することを、明らかにただの演技者である広瀬すずさんでもない、かといって誰と特定することもまずできそうにない誰かが「送りましょう!」と指示するという、まさに完全無欠のキャッチコピー。徹頭徹尾、ここには個が不在、空白です。


同じようなことは、なぜかオリンピックのイベントとして行われる、自衛隊機によるパフォーマンスでも起きています。医療従事者への「エール」としてもこのパフォーマンスは行われましたが、その場ではもちろん、機を飛ばしている個人としての操縦士に関心を払う必要はありません。いかに見事にパフォーマンスを行うか、という演出が着目されるだけです。演技だと分かりながらも特撮ヒーローに興奮する子供と、同じ状態ですね。それを見て「感動」したり「喜んだり」する人々は、それが医療支援やオリンピックで行われる競技と、直接的で実質的な関係があるかどうかにも、関心がありません。操縦士にも、観客にも、個としての感受性や、個としての考えがない。情緒的にここに関わる人々の自己が、まるで不在です(この自己の不在、以前、疎外ということばを使ってお話しした人格の空洞を生み出しているのは、じつは教育なのですが、それについては次回お話しします)。軍事パレードに熱狂して国旗を振る隣国の人々に、違和感、あるいは馬鹿馬鹿しさなどを感じる人、「馬鹿だな、いいように操られてるよ」と感じる人は、日本にもいるでしょう。しかし、自衛隊機のパフォーマンスにカメラを持って集まり、見えた見えないと一喜一憂する心と、軍事パレードに歓喜する心とが、同じものなのかもしれないと感じる人は、ほとんどいないのかもしれません。しかしまさにここに、軍事と政治とが象徴的に、目に見える形で結合しています。双方をまっすぐに結んでいるのはもちろん、暴力性です。個を疎外して、集団という、国家にとって好都合な集合体、練り物のようなものを作り上げようという、じつに根深くて恐ろしい暴力性です。


スポーツが政治、つまり支配機構との親和性が高いのは、したがって当然です。

2021年のオリンピックで、日本の報道姿勢にこれは露骨に表れていました。テレビで放送された場面は、ほぼすべて、日本人選手が登場するものばかりでした。「国威発揚」と聞くと戦前の亡霊のようにお感じかもしれませんが、まさに「国威発揚」が放映の目的だったことが明確にわかります。中継アナウンサーは「我が国ニッポン」の選手の美技を叫び(「やったー! ついにやりました金メダル!」)、オリンピック終了後には、各紙(全国紙全てがオリンピックのスポンサーでもありました)一斉に、日本のメダル獲得数を誇っていました。

国際的な競技会では、選手が属する国の国歌が演奏されることが通例となっています。オリンピックやワールドカップ以外に、たとえばボクシングのタイトルマッチでもそうですね。スポーツ選手はまずもって国家の代表という扱いです。これもまたスポーツ競技と支配機構との親和性を如実に示しています。

一方、今回のオリンピックでは、難民選手団というチームも紛争地域からの参加として、初めて登場していましたが、これが日本のメディアに大きく取り上げられることはありませんでした。選手たちの資金サポートが彼らの所属国のオリンピック委員会に丸投げされていたこと、「難民」にたとえばパレスチナ難民などが含まれていないことなどは、さらに報道されませんでした。彼らにはまさに「国家」が欠けているために、難民支援という感動ポルノのネタ以上の sensation(情動を引き起こすこと)を起こすこともできず、まして彼らに相応しい「国歌」もないために、international 国家間の、という旧態然とした支配システムに対するアンチテーゼとしてもまるで機能しなかったわけです。当然、報道価値(被支配民に対する国家的な「道徳」のメッセージ)はありません。


そして、国家とスポーツとの蜜月の歴史的な由来は、前の節でお話しした通りです。


ぼくたちにとても身近な営みと感じられるスポーツは、その身近さゆえに、ことさら深く考えられることがないのでしょう。でも、スポーツと括られる営みのうちでも、とりわけ日本で「体育」という教科、あるいは「徳目」と関わっているところでは、権力支配という暴力装置にとってそれが重要な位置を示していることがわかってきます。

支配者は、ずっとお話ししているように、支配者層が望ましいと考える「道徳」、社会ルールを、被支配層の心に刷り込むこと、内面化させることに躍起になります。それが最も効果を発揮するのは、支配層が彼らにとって都合のいい人間観(その典型は家族観、血統観、民族観などでしょうか)をでっち上げること。したがって国家にとっては、家族観を植えつけること、教育によって「道徳観」を心に刷り込ませること、この二つが、核心をなす支配装置になります。

スポーツはまさに、この装置を非常に効率的に動かすための、みごとに感覚化された恰好の<教育的>な仕組みです。この社会が<競争社会>であることの遊戯的な(つまり無害化されたというイメージを伴った)提示、<競争>が激化して<潰し合い>や<テロリズム>に至らないよう、巧みな規範をでっち上げること(ルールの設定、スポーツマンシップの発明など)、ルールを遵守しない者を排除すること(スポーツの評価は人格の評価だという観念)、競争によってのし上がる行為を「賞賛」「名誉」などによって美化すること、美化を燦然と輝かせて顕彰することによって、勝者の安定生産を確保すること(それはとりもなおさず、国家的な富の効率的な増大、文明国家としての威信の維持などを保証しています)などを行います。

まさにスポーツは、支配者にとっては「徳育」の装置なのです。国家が膨大な予算をスポーツに割いているのは、一般市民の福祉のためではなく、支配の安定化のためです。


「徳育」は、「教育」の一環のように感じられますね。そのとおりです。先ほどもお話ししたように、特定の人間観をでっち上げること、特定の「道徳観」を刷り込むこと、これが支配を安定化させるための最重要事項ですから、当然、スポーツが持っている機能は、特定の偏向した人間観や社会観の基礎を作るための「教育」にもしっかりと浸透しています。この次は、支配=暴力、という視点から、「教育」がどんな光景として見えてくるかを、お話しします。


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